第1話 夢魔病
俺、
少なくとも、さっきまではそう思っていた。
「ぁ……」
目の前で人間が轢かれたのだ。つい今しがたまでくだらないことを話し合ってバカみたいなやり取りをしていた親友が。
頭部から鮮血をどくりどくりと垂れ流しながら、ピクリとも動かないそいつ——
この時の俺は、本当の『死』を理解なんてしていなかった。だからこそ、画面越しの世界の出来事のように絢斗の身体をただ眺めていた。知識の上をなぞるだけの『死』。平和ボケした日本の高校生には、現実に横たわる眼の前の『死』というものは、その程度にしか認識できないのである。
「失礼」
俺の耳が捉えた音をようやっと脳に伝えることが出来たのは、そんなたった一言だった。
その場の空気には全く似つかわしくないほどの冷静な声が、騒然としていた辺り一面に静かに響き渡った。
「私は医者です」
そう言った男は、酷く美しい容姿の人物だった。真っ白なスーツを身に纏ったその人は、確かに医者と言われれば納得できるだけの雰囲気があったが、周囲の人々が思わずその姿を凝視してしまう程には、この世の何処にもいない浮世離れした存在であった。誰もがその男の存在に畏敬の念を抱いたせいか男の行く手を阻む者は居らず、自然と男の前には患者へと続く一本の道が生まれていた。
群衆の間を悠然と進む男は呆然とする俺を横に降り立ち、的確に患者の処置を施していく。男の手元は既に紅に塗りたくられたせいかきらりと光り、じわりじわりと白衣さえもが、患者の生紅で染まっていく。
しかし、その男は何物にも染まらないのではと思わされるような不思議な感覚を俺は抱いていた。
それも束の間、俺は漸く意識をその紅の源へと向かわせた。
「あ……や、と?」
名前を呟く事が精一杯であった。
身動き一つせず、流れ出る紅が静かに彼の燈火を奪っていく様子を、呆れるほど他人事のように見つめていた俺は、その男の『生』への執着に触れることで、漸く目の前の出来事を現実の事として受け止め始めたのであった。
受け入れたくなくても、俺が普通の人間である限り、その光景を事実として記憶する他無かったのである。いや、例え普通の人間でなくても、それが事実で有ることに変わりなかった。
「ぁ……あ……絢斗!!!」
「黙れ」
横たわる友に駆け寄ろうとした俺を静かに押さえつけた聲の主は、此方を見てはいなかった。ただ、眼の前の『生』と真摯に向き合っていた。それは、俺のぐらぐらとふらつく情けない不安定さと違い、迷いが無い冷静さと籠る灼熱の執念を撒き散らすことで、俺を含めた周囲に沈黙を強いていた。
「救急車は呼びましたか?」
「え、あ、はい! 5分程で到着するそうです!」
疎らな人影の中の一つが上擦った声で、それでもしっかりと男に伝えた言葉は、彼を肯かせるに足る内容であった。
遠くで鳴り響くサイレンの木霊が、刻一刻と近付いてきていた——。
今日も面会時間ギリギリになった俺は、通い慣れた病室に向かって、静まり返る院内を息を潜めて歩いていた。
何年にも渡る俺のこの習慣は此処、葉城総合病院のスタッフの間では有名であった。また、その特殊な事情により、通常の面会時間内以外での面会を許された数少ない例であり、残業という過酷な労働によって疲労困憊した身体に鞭を打ち、院内が静寂と暗闇に包まれる時刻にひっそりと訪れるのが日課になっていた。こんな日ですら訪れるほど染み付いた習慣は、一体何の為なのか分からなくなる程——。
受付でいつものように顔馴染みの看護師に挨拶を交わし、「遅くならないように」と変わらない言葉を掛けられた俺は、とうの昔に期待も落胆さえも投げ捨ててしまっていた。
俺のこの習慣は、最早通勤となんら変わらない程度のものに成り代わってしまっていた。
ガラリと開けた病室の扉は、いつもと同じ重さで以て俺を迎えた。歓迎することも無ければ追い返すこともしない、沈黙の空間。ピッピッと規則的に生命を知らせる電子音。コツコツと鳴る俺の靴音。歪な二重奏が静寂の世界に僅かな綻びを生んだ。俺が息を吸い込んだ音は、指揮者が腕を振り上げた瞬間の様に一瞬の緊張感を宿していた。
「よう、元気か?」
自分でも笑えるくらいあまりにも平凡な言葉を口にした俺は、己の情けなさを恥じることすら億劫になっていた。
「顔色は、良さそうだな」
僅かな明かりしか灯っていない暗がりで部屋で顔色など分かりもしないくせに、都合が良い解釈のまま話をする俺を、目の前の友はどんな思いで聞いているのだろうか。
ベッド脇に置いてある簡素なパイプ椅子を組み立てながら、俺はつまらない言い訳を口にする。
「来るの、遅くなって悪かったな……色々あってさ」
ぎぃと無機質の癖に妙に感情が籠った音を立てて俺を迎えたパイプ椅子は冷たかった。その現実味のある温度のせいだろうか、俺はすぐに無理に明るくしようとしてうまく出来なかった情けない声で自白した。
「あー、実は俺、会社をとうとうクビになっちまってよ」
ただ、誰かに聞いて欲しかっただけの筈の俺は、物言わぬ友に対していつもの様な懺悔の気持ちの中に、糾弾の念を織り交ぜてしまっていた。
「毎日毎日こき使うだけこき使われた挙句、いらなくなったら簡単に切り捨てやがってあの部長……俺が『夢魔病』だっていうのも知ってる癖に、今時流行らねぇ根性論なんか振りかざす嫌な奴だったぜ……夢魔病がどんな病か知りもしない野郎が勝手に決めつけやがってっ」
——お前がこうなって無かったら、俺は『夢魔病』になんかならなかった。会社も辞めずに済んだ。そもそも今の会社に入る必要もなく、クソウゼェ部長にだって会うことすらなかったのに。
疲れていたのも確かにあったが、俺の中の負の気持ちを押し殺すことは出来なかった。ずっと抱いていた想い。酷く汚い言葉が喉元まで上がってきているのを感じていた。
——お前さえ居なければ。
迫り上がる言葉の中からぽつりと浮上したそれは、俺の身体を導いていく——横たわる友の痩せ細った青白い首へ。徐々に近付く俺の手が、僅かに上下するその
次いで、その静かな暴力的衝動を途方もない力で上から押さえつけたのは、罪悪感だった。
——俺は今、何を……?
己の行動を省みることへの恐怖が俺を襲った。
「……っ悪い、今日は帰るわ……また明日な」
いつにも増して疲労が溜まっている身体に襲いかかる強烈な眠気も相俟って、俺はいつもより遙かに重い罪悪感に背中を押されながら逃げ出すように病室を出た。
だから俺は知らなかった。際限のない眠りを強いられている友の口元が僅かに動いたことなど——。
ツイてない日っていうのは、とことんそうなるもんだ。今日の俺は始めから終わりまでずっとそうだった。
連日の残業と治らぬ病の症状がピークに達した俺は、たった一つの小さなミスを犯した。それがどんどんと膨らみ、とうとうクライアントからクレームが入ったのが一昨日の話。同僚たちも徹夜を強いられ、低下したそれぞれの脳は連携のミスを多発し、昨日とうとうその案件は破談となってしまった。今朝慌てて部長と共にクライアントに謝罪に行ったがどうにもならず、責任を取れと言われた俺はクビという形で会社を追われてしまった。
部長は日頃から俺に対する当たりがキツかった。それは、俺が重度の『夢魔病』を患っているからである。
夢魔病——夢魔と呼ばれる不思議な存在が、人間に悪夢を見させる病である。
現代の日本では6割程の人間が夢魔病を抱えていると言われているが、その殆どは単なる寝不足程度の症状に過ぎない。
しかし、単なる寝不足であっても侮れないのが、この病の厄介な所である。
睡眠薬などを利用して一定期間症状を和らげることは出来るが、使い続けることは身体に負担が掛かるのは言うまでもなく、常用し続けたことで薬への耐性が出来てくると、より強力な薬を求めるようになり、それがエスカレートした結果、薬漬けになった身体は壊れてしまうのである。夢魔はそんな肉体的にも精神的にも壊れてしまった状態の人間を乗っ取り、弄び、そして死に追いやったあと、次なる生贄を探して再び街を徘徊する——。
そんな厄介な病は全世界に蔓延っているが、日本ほど罹患者が多い国は無いと言われている。その原因は未だ不明であり、俺を含めた重度の夢魔病患者数も日本はぶっちぎりの単独1位であった。
だが、この病は薬事療法以外の対策方法が存在する。
『夢珠』という特殊な物質を利用するものである。夢魔病の患者は、夢魔が原因で寝ている間に見る夢が悪夢となり、寝て起きての繰り返しとなり結局満足な睡眠時間を得られずに身体を壊してしまう。しかし、夢珠を使えば、寝ている間に見る夢が、夢魔が見せる悪夢ではなく夢珠が見せる所謂吉夢となり、魘されることなく通常の睡眠時間を得ることが出来る、という方法である。
夢珠は、一般的に『夢珠使い』と呼ばれる人々の手によって作られており、日本ではコンビニやドラッグストアで簡単に購入することが出来る。夢珠使いは特殊な技術と能力で夢珠を創るため、遥か昔は人々から称えられていたそうだが、昨今は『夢珠ビジネス』なんてジャンルが生まれるほどお手軽な存在に成り下がっていた。勿論、一般人が夢珠を創ることは出来ず、選ばれた存在だけが持つその技術・能力自体は神秘的なものだというのは俺も分かってはいるが、特に日本では常用者が多すぎるせいか有難みも失せてしまっていた。
月が大きすぎるほどの夜道。今日は怒りや不甲斐なさという負の感情がちっぽけに感じるほどの、いつもの罪悪感の上に塗りたくられた悍ましさを背負い込んだまま病院を出た俺は、それら全てに頭の中を支配されるような感覚とあまりの眠気で足がふらふらと覚束なくなっていくのを感じていた。
むしろ、いっそ夢であって欲しかったくらいだった。
「くそっ、やっぱり安物の夢珠じゃもう効かねぇか……」
俺は重度の夢魔病のためお手軽な夢珠では夢魔を抑えきれず、ここ最近はずっと悪夢を見続けていた。それこそ、立っているのがやっとの状態であるほど追い詰められるくらいに。
だからあんなことをしたんだと、何かのせいにしながら抱え込んだ感情を頭の奥底に無理矢理沈め込んだ。
(とてもじゃないが、歩けねぇ……)
独り言を呟く気力すら無くなっていた俺は、何とか近くの公園まで辿り着き、どかりとベンチに座り込んだ。草臥れた鞄の中を必死で漁りひしゃげた箱を取り出し、中に残っていた銀色の包装シートを乱暴に引き出した。勢い余ったせいか、指先にピリリとした痛みが一瞬走ったが、今の頭ではそんなこと気にもならなかった。
「残り……一粒、か」
銀色を破り、収まっていた白濁色のビー玉の様な物体を掴んだ俺は、それを天に昇る真白に向かって翳した。
そう、俺が今手にしているのが夢珠である。白く濁った球体は、ランクが低い証であった。
実は夢珠にはランクがあり、一般的により効果が強いものほど透明度が高くなっている。透明度に比例するように値段も上がっていくが、上位の夢珠はそれぞれの夢珠使い達の工房まで直接行かねば売ってもらえず、その場所を探すのも至難の技であった。その理由は夢珠使い達それぞれの理由があるが、共通しているのは、
「俺の症状だと安くてもBランク……1個12万円って所か……」
つまり、高額であるが故だった。
通常販売されている軽症者が利用する夢珠は、使い捨てか7回の使用で効果が無くなるタイプ。1週間分が凡そ2,000円前後というのが平均価格である。それに比べて、俺の様な重症者に適切な夢珠は、約3ヶ月分で12万円。決して買えない金額ではないが、そう安易と入手できる程度でもない。薄給の俺は、自分の症状に見合う球体を買うことをとうに諦めていた。
しかもそれだけではない。ランクが上がれば上がるほど、一般人では夢珠を扱うことができず、夢珠使いの力を借りなければ夢珠の能力を発動することが出来ないのである。定期的に彼らと会う契約を交わし、その不思議な能力に依存することでしか、悪夢から逃れられないのであった。その契約金は個々の夢珠使いによって様々だが、決して安くはない。現時点で根治する術のない夢魔病の悪夢から逃れるには、罹患者達は半永久的に彼らに依存することでしかないのである、莫大な治療費と共に——。
(新しい職も探さなきゃならねぇってのに、夢珠なんか買ってられるかよ……)
俺は掴んでいた白濁色の球体を思いっきり握り込んだ。熱くも冷たくもない無機質な球面は、俺の症状の事など気に留めない。それが妙に虚しくて、俺は手の中の異物を思い切り投げ飛ばしてやりたくなった。
——そんなことを考えたからバチが当たったのかもしれない。
「あ、ヤベェ……!」
ふっと力を緩めた瞬間に、俺の手の中から逃げ出すかのようにするりと球体が地面へと落ちていった。からんと一つ高い声をあげた白濁の球体は、そのままころころと転がって行く。
俺は慌てて後を追い掛けたが、病に蝕まれた身体は言う事を聞かず、
「うわっ!」
2、3歩踏み出した所で足が絡れて無様に倒れ込んでしまった。
(くそっ……ってそれよりも俺の夢珠は!?)
顔からぶつけた衝撃で先ほどよりかははっきりとした視界になった俺が目的の物を求めて辺りを見回した時、少し先に転がっているそれを見つけた。立つ気力すら湧かなかった俺が四つん這いのままそれに目掛けて手足をバタつかせていると、俺の手が届くよりも先に、真っ白な影が濁ったそれを掬い上げていった。
「あの、すみません、それ俺の夢珠で——」
「君は、未だにこんな安物を使っているのですか?」
その聲は、妙に俺の脳をざわめかせた。眠気に覆われている筈の頭の中が、その音に反応するかのように唸り声を上げ始めている。
「全く……私ならもっと良質な物を用意できるというのに」
呆れたように呟く声の主を確認しようと恐る恐る顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、異様に明るい満月を背に立つ真白の人影——それはよく見るとスーツを着た男であった。
真っ白なスーツに身を包んだ男の頭には、巫山戯ているのか思うほどの同色のシルクハットが被さっている。首元にある黒い蝶ネクタイが、男の雰囲気をさらにシニカルなものへと誘導していた。全てがワザとらしく、また同時に一瞬で忘れてしまうような真白で以てそこに佇む男、あまりにも奇妙な人物——。
だが、今の使い物にならない俺の脳みそは、男の姿よりも先程男が口にした言葉の方が気になっていた。
「もっと良質な物……?」
夢珠はまるで麻薬の様である——一度始めると二度とやめることは出来ない性質からそう揶揄されていたし、正しくそういうルートも存在していた。
『夢売人』という売人から手に入れる方法である。一般の夢珠よりは効果が大きいが依存性も高い夢珠を敢えて作り格安で罹患者へと売りつける。一度使用したものは味を占め、再びその効果を求めて売人から買おうとするが、初めは格安だった筈が段々と金額が増え、払えなくなると売人はそのまま消えてしまい、残ったのは膨れ上がった多額の借金。それだけならまだいい方である。膨れ上がっていたのは借金だけではなく、目を背けていた夢魔が見せる悪夢——逃げ続けていたせいで己の夢魔の深度に気付かず、そのまま奴等に弄ばれて命を喪ってしまうのが殆どであった。
大体は工房から弾き出された半端な能力の持ち主の夢珠使い『もどき』が金の為に手を染めている悪どい商売とも言えないやり取りであるが、それと知っていても一時の安寧を求めて売人から夢珠を買いたいと願う人間は意外にも多い。
『一度だけなら大丈夫』
そう思って手を出したが最後、夢に取り憑かれて殺される。
だが、今の俺は正にそうだった。あの悪夢から逃れられるのなら、目の前の得体の知れない男が売人であるならば、迷うことは無かった。
「あんた……もしかして『売人』か?」
目の前に偽りの希望があるならと、渇望する俺は声を震わせながら男に問い掛けた。男は聞いていたのかいないのか、長い前髪に隠されせいで白銀の片眼からしか分からない男の感情は無機質だった。
「私が『売人』……なるほど違いない」
今度は一人納得するように呟いた男に確信した俺は、懇願した。
「頼む……! 俺に夢珠を売ってくれっ! もうそれじゃ効かないんだっ!!」
俺は必死だった。再び遠くから襲いかかる眠気を恐れていた。見知らぬ男の前で地面に向かって思い切り頭を打ち付けるほどには、あの世界に連れて行かれることを心底恐れていた。
しかし、暫しの沈黙の後男が口にした言葉は、俺が望んでいたものではなかった——。
「やはり、何も変わっていないか……」
「ぇ……」
「君は今まで何もせずにそうやって目の前の事実から目を背け、死んだように生きてきたんですね——哀れな男だ」
「あんた、何言って……」
「目の前で友を奪われたからと言って塞ぎ込む事もなく、かといって常に纏わりつく罪悪感のせいであの時から抜け出す事もできず、ただ流されるままに生きてきたのでしょう」
何故、目の前の見知らぬ男が俺の事を知っているのだろうか、隠している俺の
「同情はされど誰かに責められる事もなく、せめてもの罪滅ぼしと毎夜病院へと通うも、年月を重ねるほどに何をすれば良いのか分からず、楔のように打ち込まれたと思い込んでいる罪悪感を理由に行動を起こす事もないとは、自分が酷く情けない人間だとは思わないのですか?」
「やめろ……」
「『あの時俺が轢かれていれば』なんて偽善者じみた考えを持つ事もなく、むしろ『なんで俺を助けたんだ』と相手を責め立てたい気持ちが段々と強くなり——」
「やめてくれ……っ」
「終いには『お前さえいなければ俺はこんなことにはならなか——」
「やめろって言ってるだろ!!」
俺は地面に頭を擦り付けながら、持ちうる限りの力も以て叫んだ。もう聞きたくなかった。男の聲も、その言葉も、その先に続く何もかもを拒絶したかった。
——だが、男は止めなかった。
「そうして何もかもを人の所為にして、自分は罪悪感を抱えながら慎ましやかな修道者の様な心持ちで生きていると錯覚している哀れな人間……」
続く男の言葉を、俺はもう止めることが出来なかった。悪意に満ちたその言葉を、ただただ黙って聞くことしかできなかった。最早言い返す気力はなく、迫り来る夢の気配に身を任せたくなっていた。
「『良い大学に入れなかったのは夢魔病のせい』『良い会社に入れなかったのは夢魔病のせい』とそうやって全てを彼の責任にしてきた、己の人生を己の足で歩む事を忘れた……つまり、君は死んでいるんですよ」
頭を鈍器で殴られた様な衝撃が俺を襲った。
「は、はは……あんた何言って——」
男の無機質な白銀の片眼が、俺を射抜くように見つめている。
「俺は……俺はちゃんと生きている……」
絞り出した声は、馬鹿みたいに震えた。
「ちゃんと生きている人間であれば、これは必要ない」
そう言って男が見せたのは、俺が求めていたものであった。まるで偽物の様な美しい輝きを纏うその白濁は、男の手の中で俺のことをせせら笑う様にキラリと光に反射した。
俺は、咄嗟にそれに手を伸ばした。
欲しくて堪らないのだという激情に襲われた。
それがあれば俺は——。
「こんなものがあるから、人間は人間でいられなくなるんですよ」
男のその言葉は、俺の耳には入ってこなかった。
俺の頭を支配するのは、のしかかる夢の気配と、僅かな諦観——。
働かない頭であっても、目は釘付けになったかのようにそれを追いかけ続けたが、それも一瞬。それはカランという小さな音を一つ弾くと、次の瞬間にはぐしゃりと目の前の男の質の良さそうな革靴に踏み潰されていた。
「……あぁ……!」
思わず這いつくばり、男の靴の裏にあるその存在を確かめようとした俺の顔に、その靴先が迫っていた。そのまま、靴先で顎を持ち上げられた俺は、それの安否ではなく、男の表情を確認することを強いられた。
「君には、もっと極上の夢を見させてあげますよ」
そう言った男の顔は、ひどく愉しそうに歪められていた。今まで淡々とした、つまらなさそうな表情しか見せなかった端正な顔に、初めて感情が浮かんだ。
「おやすみ——空人君」
霞む視界の中で捉えた男は、異形の如く美しかった。
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