夢珠綺譚
海月らいと
プロローグ
自分がこんなにも哀れな人間だと思い知らされたのは初めてだった。
俺が今まで生きてきた中で、これほどまでに他人に無遠慮で悪意に満ちた言葉をかけられたことなどあったであろうか。そんな言葉の数々を未だに吐き続ける目の前の男は、どこからどうみても変人であったが、その内容は俺の心を踏み躙り、そして隠してきた本音をぐちゃぐちゃに掻き乱していく。
しかし、今の俺に宿るのはそこから生まれた感情は他人から説教じみた言葉をかけられたことへの怒りではなく、それらに対して妙に腑に落ちて納得し、そしてこれからどうしたらいいか分からなくなった迷いという感情であった。
「つまり君は、死んでいるんですよ」
言い切った目の前の男の言葉は、可笑しかった。何を言っているのだろうか。俺は確かに生きている。足だってついているし、心臓もちゃんと動いているという。
だと言うのに、それなのに、この男は俺を死んでいると言い切ったのである。
「俺は……俺はちゃんと生きている……」
反論しようと口にした言葉は、ひどく震えていた。間違ったことなど何一つ口にしていないはずなのに、とんでもないことを口にしてしまったのでは無いかという焦りと言いようのない不安に駆られ、喉がひりつくのを感じた。呼吸が乱れていく。
「ちゃんと生きている人間であれば、これは必要ない」
そう言って男が見せたのは、俺が求めていたものであった。まるで偽物の様な美しい輝きを纏うその白い物は、男の手の中で俺のことをせせら笑う様にキラリと光に反射した。俺は、咄嗟にそれに手を伸ばした。欲しくて堪らないのだという激情に襲われた。それがあれば俺は——。
「こんなものがあるから、人間は人間でいられなくなるんですよ」
男のその言葉は、この時の俺の耳には入ってこなかった。後から思えば、それは彼の本心であったのだと分かったであろうが、この時の俺は、目の前の人物からいかにそれを手に入れるかの方が重要だと思っていたのである。目の前の『売人』からどうやってそれを奪い取るか、と。
無情にも、男はその白絹に覆われた細長い指の隙間からそれを地面に滑り落とした。
睡魔と疲労により霞切っていた視界であっても、それが悠然と落ちていく姿がはっきりと捉えられた。その時の俺を支配していたのは、最早焦りではなく、諦観だったのかもしれない。それとも、希望だったのか——。
働かない頭であっても、目は釘付けになったかのようにそれを追いかけ続けたが、それも一瞬。それはカランという小さな音を一つ弾くと、次の瞬間にはぐしゃりと目の前の男の質の良さそうな革靴に踏み潰されていた。
「……あぁ……!」
思わず這いつくばり、男の靴の裏にあるその存在を確かめようとした俺の顔に、その靴先が迫っていた。そのまま、靴先で顎を持ち上げられた俺は、それの安否ではなく、男の表情を確認することを強いられた。
「君には、もっと極上の夢を見させてあげますよ」
そう言った男の顔は、ひどく愉しそうに歪められていた。今まで淡々とした、つまらなさそうな表情しか見せたことがなかった端正な顔に、初めて感情が浮かんだ。
それは、彼の背後に映る満月と同じくらい、美しかった。
「おやすみ——」
思わず見惚れてしまった俺は、この時彼が細指に挟んでいた別のそれに気付くことはなかった。それが、創り主と同じ異様な美しさを孕みながら月の様な白さで光っていたことにも。霞んでいく目に美しい月白の男を刻みながら、俺は意識を手放した。
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