15 ただ栄光を
フランス側からの全権大使は、ドゼ将軍と民間人のプシエルグの二人だった。プシエルグは財務のスペシャリストだという。
トルコ側からも2名の大使が参加した。
話し合いが始まる前にひと悶着あった。ボナパルトが兄に宛てた
この件に関しては、シドニーが、彼の妻に対する愛情にイギリス人は感動した、とかなんとか言って、この財務担当者を言いくるめ、プシエルグも機嫌を直した。
洋上のティグル号で話し合いが始まった。
まず、負傷者の輸送がスムーズに決まった。
次にフランス側から、マルタ島の封鎖解除(エジプト遠征に行く途中でボナパルトはこの島を占領した)とイオニア諸島の返還要求が出された。だがこれは、代将であるシドニー・スミスには権限外ということで、その場で却下された。
残りはフランス側の撤退に対するトルコからの見返りだが、そもそも総司令官のクレベールとプシエルグは撤退に乗り気だ。大した困難はないと思われた。
ただ、もう一人の全権大使ドゼがどうなのかはわからない。上エジプトでは、彼はボナパルトに絶対の忠誠を誓っているように見えた。
「あんなに急いで帰国して、ボナパルトは一体、どうするつもりだろう」
大枠が決まり、余談が始まると、トルコ大使が首を傾げた。
「いずれにしろ、ろくなことではないな」
もう一人の大使が煙管から丸い煙を噴き出した。
「フランスはライン河畔をオーストリアのカール大公に、イタリアをロシアのスヴォルフ元帥に取られ、今まで得た領土の大半を失いました。北の低地地方には、わがイギリスとロシアが陸海軍を派遣し、アムステルダムまで到達しています。加えて、国内では再び王党派が息を吹き返し、蜂起の兆しを見せている。今の総裁政府は、倒れる寸前です」
きっぱり言い切ったのはシドニーだ。
「政権は、ボナパルトが握るでしょう。総裁政府が剣の楯として雇った男が、政府に取って代わるのです」
しん、と全員が静まり返った。控えの間で話を聞いていた俺は、体が震えた。
「そうであるならば、彼は独裁者になるだろう」
沈黙を破ったのは、フランスのプシエルグだった。
「あの男は、血も涙もない冷血漢だ。シリア遠征ではペストに罹った兵士らにアヘンを渡し、置き去りにした」
「ヤッファで、降伏したわがトルコ軍を皆殺しにしたことを忘れて貰っては困る」
断固とした調子でトルコ大使が捻じ込む。
さらにプシエルグは続ける。
「アッコでは戦争とペストで、多くの兵士が死んだ。戦友を亡くした兵士が、ボナパルトに食って掛かったことがある。それに対してボナパルトは、ああいう感情は自分には理解できない、もしあと一言でもあの兵士が付け加えたなら、自分は彼を銃殺してただろうと幕僚への手紙へ書いて寄こした」
プシエルグはドゼに向き直った。
「ボナパルトの非道については、ドゼ将軍、君もクレベール将軍やレーニエ将軍から話を聞いているだろう?」
それまでドゼは、気配を消しておとなしくしていた。プシエルグに声を掛けられ、彼は曖昧に頷いた。
俺は意外に思った。あんなにボナパルトに心酔していた男が、反論もしないなんて。
やがて会議は終わり、集まった人々は散開していった。
「ドゼ将軍。貴方に会わせたい人がいるんです」
プシエルグについて部屋を出て行こうとしているドゼに、シドニー・スミスが声を掛けた。
「会わせたい人?」
立ち止まり、ドゼは振り返った。
「うん。貴方がどう思うかわからないが……それに、信じてくれるかも未知数だが……」
「先に行きますよ、ドゼ将軍」
声をかけて、プリエルクは去っていった。部屋には、シドニー・スミスとドゼの二人きりになった。
「あなたのフランス語はとても達者だが、今おっしゃったのはよく聞き取れなかった」
ドゼは首を傾げた。
「誰です? 私に会わせたいというのは」
シドニーの合図で、俺は部屋に入った。
ドゼの目が丸くなった。
「バキル! バキルじゃないか! イスマイルが心配していたぞ。なぜここに?」
みるみるその目が険悪になった。
「さては、シドニー・スミス代将。あなたが誘拐、」
「違う」
皆まで言わせず、シドニーが遮った。
「それから、今は彼はバキルじゃない。フェリポーだ。彼は、私の親友だった亡命貴族、フェリポーなのです」
「フェリポー? ……亡命貴族!?」
「ドゼ将軍。黙っていて悪かった。俺はフェリポーとして死んで、このバキルという少年の体に転生したんだ」
素直に俺は謝罪した。もっとも彼にはさっぱり伝わっていないようだが。
「彼とは、細部まで記憶が一致しました。エミグレとしての秘密の活動の記憶です。我々には、彼がフェリポーであることを疑う理由はない」
差し支えない範囲で、シドニー・スミスは出会いから脱獄、そしてアッコ包囲戦までの一連の話をした。
ドゼは無言だった。その目は、彼がこの話を信じていないことを物語っていた。
「ドゼ将軍。貴方にはエミグレの親族がいるだろう? 彼らとは、コンデ軍(亡命貴族軍)で一緒だったよ」
俺が言うと、ドゼの顔色が変わった。
「兄や弟、従兄弟や叔父達の消息を知っているのか?」
彼らの特徴や、軍での活躍を俺は話した。もっとも、最終的には手製の武器をふりかざして戦っていたのだ。大した活躍はできていない。
「みんな元気だ。だが、兄上は少し、健康を害しておられたようだ」
「なんだって? だが、兄と弟は許されて、帰国しただろう? 彼は無事なはずだ」
「帰国? 聞いてない」
「馬鹿な。それが条件だったはずだ」
「条件?」
言い過ぎたという風に、ドゼが口を噤んだ。
だが遅すぎた。
ドゼは、ライン軍総司令官という名誉ある地位を捨て、ボナパルトのエジプト遠征に加わった。当初、第二指揮官を拝命していたが、これは臨時のものだった。今、帰国したボナパルトの後任に任命されたのはドゼではない。クレベールだ。
「総裁政府は君との約束を守らなかったようだな」
シドニーが口を挟んだ。
「君の兄弟は、未だに亡命中だよ」
ドゼは青ざめた。
「なら、母さんは? 母さんの年金の約束は?」
「それも聞いてない」
深いため息をドゼはついた。
沈黙の中、俺は宣言した。
「君が信じようが信じまいが、俺はフェリポーだ。革命軍に残った君と違い、王に従い国を出た」
痛々しいほどの表情が、傷のある顔に浮かんだ。国に残った彼は、臆病者と母に罵られた。相当の葛藤があったはずだ。その葛藤は、革命軍の将軍として名を挙げた今でも、決して和らいではいないのだと俺は悟った。
「君は、誰かを守るために国に残ったのか?」
「母と姉を守るためだ」
俺の問いにドゼは答えた。
少し早すぎた。
だから、わかった。「マルグ……」だ。彼が臆病者のそしりを受けながらも国に残ったのは、母と姉はもちろんだろうが、更に「マルグ……」を守るためだ。
「もし、誰かを守るために国に残ったのなら、俺は君を許せると思う」
「マルグ……」なんとかのことを出さなかったのは温情からだ。ドゼとて、恋人のことを他人に口にしてもらいたくなかろう。ましてや俺は、彼の敵だ。
「本来なら貴族である君は、王の為に戦うべきだった」
「君は……フェリポーなのか。亡命貴族なのだな」
とうとうドゼは言った。
俺は頷いた。
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