13 アッコ包囲戦
「アッコの要塞がどうなったか、知っているか、フェリポー」
改まった口調でシドニーが尋ねた。
「ボナパルトがアッコから引き上げたのは聞いた」
ドゼから聞いた。
「君とジェッザール・パシャが無事なのも。だが、詳細については聞けなかった」
俺はドゼを殺すつもりだった。だから彼には、俺が亡命貴族の転生者だということは明かしたくなかった。
アビシニアの少年バキルがアッコ包囲戦について根掘り葉掘り尋ねるのは危険だった。どんな疑惑を持たれるかわからない。
「ジェッザール・パシャなら、ぴんぴんしているよ。今はトルコ大帝の敵に回っている」
血の気の多いあの爺さんなら、そうあってもおかしくない。
「アッコの外壁は崩れなかったのか?」
俺が問うと、シドニーは笑った。
「気になるか?」
「当たり前だ。資材が足りなくて、綿を濡らして詰めた箇所もある。あれがどうなったか心配でしようがない」
「残念ながら外壁は崩れてしまった。だが、君が造った半月堡のお陰で、船からの攻撃が奏功した。敵は側面攻撃を受け、数を減らした」
半月堡は、半円形をした障害物だ。前面に出るには側面に回らねばならず、分散しなければならない。
アッコの要塞は、陸路からの進入路以外、三方向を海に囲まれている。海にはシドニー・スミスの戦艦、ティグル号とテセウス号が待機していた。
半月堡を迂回し、分散させられた敵は、海からの攻撃にさらされた。
だが頼みの綱の外壁が崩れ、フランス軍はアッコ城内に侵攻したという。
「フェリポー、君は外壁の内側にも遮蔽物を造っておいたろ?」
「あれは……」
俺は言い澱んだ。土塁は、それが完成する前に、俺は死んだ。
決然としてル・グランが顔を上げた。
「大佐の跡は、俺がしっかりと引き継ぎました。土塁は完成し、敵の侵入を阻みました」
「よくやった、ル・グラン」
副官の頼もしさに、唸るぐらい安堵した。
シドニーが微笑んだ。
「すぐにキプロスからトルコ皇帝軍を呼んだ。なにしろ現地徴収兵は役に立たないし。使えそうなのはパシャの兵士達しかいなかったが、勇敢な彼らは無謀な突撃で壊滅しかかっていたし」
彼らの信仰は深い。突撃をかける際には必ずアラーの名を叫ぶ。勿論、奇襲の際にも。これでは奇襲にならない。
「スミス卿は、トルコ皇帝の命令だと言って皇帝軍を召喚したのだ。皇帝を騙って、三日月刀で首を切られないのは、スミス卿くらいのものだ」
ヴィスコヴィッチは呆れているようだった。
「だが、最初に呼んだ皇帝軍は、ボナパルト軍に叩かれてな。
シドニーが嘆くと、すかさずヴィスコヴィッチが突っ込む。
「それはあれだ。君がネルソン提督に嫌われているからだろ」
ネルソンは、スウェーデンでの件の他にも、シドニーに含むものがあった。彼はアブキールの海戦でフランス艦隊を破った。にもかかわらず、当然与えられるべき地中海での指揮権、トルコ近海でのそれは、6歳も若いシドニー・スミスに渡されてしまった。
ネルソンは、スミスには、彼が元から率いていたティグル号とテセウス号以外は与えるべきではないとロンドンに書き送っている。
シドニーは肩を竦めた。
「そのうちにフランス軍にペストが流行り始めた。そこへトルコ大帝軍の第二陣がやってきて、数の上で有利になった。そういうわけで、ボナパルトは撤退を決意したんだ」
「ボナパルトは、シドニー・スミス卿がフランス軍にペストを流行らせたのだ、と言っているそうです」
トロムリャンは、憤懣やるかたないという風だ。
「あいつならやりかねない……」
士官学校時代の幾多の確執が甦る。
飄々とシドニーが嘯く。
「もちろん、俺も仕返しをしたさ。周辺のイスラム教徒のパシャやシェリフには、ボナパルトの書いたキリスト教徒を擁護するという布告文を複写して送ったし、コプト(エジプト人のキリスト教徒)の皆さんには、フランス軍はイスラムの教義を重んじるという布告書を差し上げた」
エジプトとトルコ近辺の、イスラム教徒にはキリスト教擁護の布告を、キリスト教徒にはイスラム擁護の布告を渡したというのだ。
勿論、両方ともボナパルトが発行したものだ。
「シドニー……。君、やるじゃないか」
思わず俺はつぶやいた。
「だが、君が渡した布告は、どちらも真実だ。実際にボナパルトが発布したものだ。君がペストをばらまいたのだと言いふらすのとは、全く質が違う。二枚舌を使ったボナパルトは、卑怯だ」
「そう言ってくれて嬉しいよ、フェリポー」
シドニーはほんのりと頬を赤らめた。
お気楽で破天荒なこの男も、多大な死者を齎した疫病の原因と名指しされ、深く傷ついていたのだと俺は察した。彼を傷つけたボナパルトが憎くてたまらない。
「そうそう。彼は君を恐れていたよ、フェリポー」
思いがけないことをシドニーが言う。
「休戦協定の折、ボナパルトは、こちらからの全権大使は、
「へえ」
「彼は、君と会いたくなかったのだ」
たとえ会いたいと言ってきても、その時にはもう、俺は死んでいたわけだが。
憎み合っていたが、それでも同窓の仲だ。死ぬ前にぜひ会って、あいつの間違いを正してやりたかった。もっともあのボナパルトが素直に聞くとは思えない。
シドニーがにやりと笑った。
「エミグレはいやだとの仰せだ。しかたがないから、イギリス人の部下を遣わした。フランス語の新聞を持たせてな。ついでに、我々が途中で略取した総裁政府の指令書には、ボナパルトに早く帰って欲しいと書かれていたと教えてあげた」
そういえばイギリス海軍は、しきりとエジプトからのフランス兵の手紙を横取りしていた。ボナパルトが妻のジョゼフィーヌの浮気を知り、離婚したいと兄のジョゼフに書き送った手紙を横取りし、新聞に載せたこともある。本国では大ウケだったそうだ。
「そうだ! シドニー、君、なぜフランスの内情をやつに知らせたんだ? ボナパルトのやつ、尻に帆をかけて帰っていったじゃないか」
激化する王党派の蜂起、ドイツとイタリアでの敗北、そしてロシアとトルコの参戦。
相次ぐ内憂外患に、フランスの総裁政府は揺らぎつつあった。軍人が名を上げるのに、絶好の機会だ。ましてボナパルトは、総裁政府の剣と言われている。
シドニーの答えは、意外な物だった。
「ネルソン提督に花を持たせてやろうと思ってな」
「は?」
「ほら、俺って、彼に嫌われてるだろう? だがもし俺の情報を基にボナパルトを捕獲できたら、彼は俺に感謝するようになると思ったんだ」
俺は憤慨した。
「何言ってんだ。君がやつを捕まえるべきだ」
「アッコ砲撃で、ティグル号もテセウス号も武器や物資が尽きてしまったんですよ」
ぼそりとトロムリャンが告げた。
あまりのことに、俺は一瞬、言葉に詰まった。
「……で、ネルソン提督は、君に感謝してくれたのか」
「いいや。彼は間に合わなかった。俺の手紙を、ロンドンの上官が伝達し損なったらしい。だがな」
嬉しそうにシドニーはにんまりと笑った。
「アッコを守り切ったことに関してお褒めの言葉を頂いたよ。これでもう、彼との確執は雲散霧消したはずだ」
「それは……良かったな」
「うん。フェリポー。君のお陰だ。君が命をかけて造った半月堡と、城内に造営した遮蔽物のお陰だ」
「いいや。勇敢なるトルコ兵らと英国海軍に帰すべき栄誉だ」
「それと、エミグレの諸君に」
静かにシドニーはグラスを掲げた。
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