12 ロンドン帰着


 ……。

 フェリポーは周到にも、別の馬車を用意していた。それに乗り換え、西の海岸へ向かう。

 海岸には、筏が待機していた。イカ釣り用の舟だ。二人を乗せた筏はフランスの海岸を離れ、すぐに航行中のイギリス艦に発見された。

 イギリスの船に救助されたスミスとフェリポーは、ポーツマスへ上陸した。

 そこからロンドンへ向かった。




「ただいま、母さん!」

 元気よく飛び込んで来た息子に、スミス夫人はたたき起こされた。

「シドニーじゃないの。幽霊かしら」

早朝だった。彼女はまだベッドにいて、寝ぼけていた。


「本人だよ! 幽霊なんかじゃない」

「だってあなたはフランスの革命政府に捕まって、悪名高いタンプル塔に収監中……シドニー、あなたはとても勇敢でよく頑張ったのに、お国は助けてくれなくて」

「だから脱獄してきたんだよ!」


意気揚々とスミスは答えた。後ろを振り返った。

「母さん。紹介するよ。この人はフェリポー。僕を脱獄させてくれた人だ」

「まあ。息子がお世話になりました」

ベッドで半身を起こしたスミスの母は、丁寧に頭を下げる。


 へどもどと、フェリポーはお辞儀を返した。


 スミスの母親はまだ、完全に目が覚めていないようだ。異国に監禁される息子の身を案じて暮らしていた彼女は、夜眠っている間しか、忘却の縁に安らぐ暇がなかった。そのあまりに長い心労の時間を減らすべく、体が長い睡眠を必要としているのだ。


「そういうわけでね、母さん。これから先の人生を、僕は彼と共に生きることにしたから。彼は、僕の船に乗ってくれると言ってくれた。海の上では、一蓮托生だからね」

「仲がいいのね」

スミス夫人は大あくびをした。

「あなたたち、ご飯は食べたの?」

「まだだよ、母さん」

「なら、食堂へ行くといいわ。少ししたら、私も行くから」

「その前に、父さんにも挨拶してきます」




 まだ寝ぼけ気味のスミス夫人を寝室に残し、二人は庭へ出た。

「今の時間、父さんは、温室で薔薇の手入れをしているんだ」


 「シドニー! 夢じゃなかろうな。シドニー! シドニーじゃないか!」

 丹精込めた薔薇の間から息子の姿を認めると、スミス氏は飛び上がった。

 自分より背の高いシドニーを抱きしめる。息子が抱き返すと、体を離し、しげしげと顔を覗き込んだ。それから、両手でばんばんと肩や背中を叩き始めた。


「シドニー。確かにシドニーだ!」

てて。そうですよ、父さん」


 ひとしきり息子の全身を叩くと、スミス氏は、後ろに佇んでいたフェリポーに気がついた。


「この人は?」

「僕を脱走させてくれた人です」

「なんだと? シドニー、お前、タンプル塔から脱獄してきたのか」

「いつまで経ってもイギリス政府が助けてくれないものですから」


 「初めまして、スミス大尉。ルイ=エドモン・ル・ピカール・ド・フェリポーです」

 ぶっきらぼうに差し出された手を、フェリポーは握った。

「フランス人だな。すると君は、王党派か?」

「はい」


 フェリポーの手が振り放された。燃えるような眼差しをスミス氏は息子に向けた。


「シドニー。お前は、よその国の揉め事に首を突っ込みおって。トゥーロン湾でフランス戦艦や倉庫を焼き打ちしたことといい、王党派の亡命を手伝っていたことといい……。牢に繋がれて少しは懲りたかと思っていたのに。なぜ、イギリス政府がお前の捕虜交換に積極的でなかったか、考えてみろ」


「ネルソン提督が反対されたからだと聞いています」


 ネルソンは、シドニー・スミスの上官に当たる。

 彼は、何かにつけ、自分より6つ若いスミスを敵視していた。


 シドニー・スミスは、かつてスウェーデンの海軍に仕え、騎士の称号を貰った。しかしこの時の戦いでは、イギリスの海軍将校が大勢戦死した。その中には、ネルソンの知己も多かった。


 息子の口からネルソンの名が出ると、スミス氏の顔が真っ赤になった。

「それならなぜ、お前の上官は、お前を助けようとしなかったのだ!? ネルソン提督は、この国の英雄だ。俺はおまえが、彼の部下であることを誇りに思っている。いいか、シドニー。お前は俺と同じ、イギリス軍の兵士だ。兵士は、イギリス国王陛下の為にだけ戦えば、それでよいのだ」


「でも、父さん。あのまま牢にいたら、僕は暗殺されていたよ。フェリポーは、命の恩人だ」

 静かにシドニーは言った。


 赤くなったスミス氏の顔から、すうーっと血の気が引いていく。無言で彼は後ろを向いて屈みこみ、薔薇の剪定を始めた。


「安心して、父さん。僕は海軍に戻る。僕の陛下への忠誠は、ネルソン提督も、きっとわかってくれるさ」

「あの方は、お前に、性格的な難があるとおっしゃっているそうだ」

背を向けたまま、スミス氏が言う。

「そう? 僕に言わせれば、ネルソン提督の方が大概、」

「口を慎め!」


 一喝され、シドニーは口を噤んだ。すぐに続けた。


「僕らの敵はフランス革命政府だ。そして、ナポレオン・ボナパルトだ」

「ボナパルト? ハプスブルク帝国を打ち破った、常勝将軍と言われているあの男か?」

「トゥーロン湾を焼き打ちにした時の、フランス側の砲兵隊長だよ。彼は、人じゃない」


 死刑囚に希望を与えてから、再びの砲撃で、彼らを虐殺したボナパルトを、シドニーは忘れることがなかった。

「彼は悪魔だ」


「私も、貴方のご子息と共に戦います」

力強い声がした。背後にひっそりと控えていたフェリポーだ。


 シドニーの目に光が宿った。

「フェリポーは優れた将校だ。彼をわが英国海軍に紹介し、相応のランクを与えてもらうつもりです」


 立ち上がり、スミス氏は、フェリポーに向き直った。

「君は、イギリス国王の為に戦うのか? フランスの王党派の為ではなく?」


 真っ直ぐな問いに、しかしフェリポーは即答を避けた。

「シドニーは王党派の為に尽力してくれました。僕は彼を信じ、共に戦いたいのです」


 「イギリスは、王党派の味方だ。アルトワ伯(ルイ16世の下の弟。後のシャルル10世)の亡命を受け容れたし、フランスの西海岸で王党派の救助にも乗り出している」

シドニーが割って入った。

「王党派との共闘は、我らが陛下のご意志でもあるのです」


 深いため息を、スミス氏はついた。俯き、再び薔薇の世話に専念する。

 その父の背に向かい、スミスは宣言した。


「父さん。フェリポーは、国や上官が見捨てた僕を助けてくれた。今の僕は、自分の祖国への愛より、王党派の友人が国を憂うる気持ちの方に、より強く共感しています」


 鋏を握ったリール氏の手元から、咲きかけの薔薇の蕾が、ぽろんと落ちた。


 「さてと」

 にっこりとシドニーは笑った。ストレス……もし彼にそんなものがあるとしたら、だが……から解放された、晴れ晴れとした笑みだった。

「これで両親への顔合わせは済んだ。さ、行こう、フェリポー。君を推薦しに、軍司令部へ行かなくては」


「シドニー!」


 憤りに掠れた声でスミス氏が叫んだ時には、彼の息子は、王党派の友人フェリポーの肩を抱くようにして、温室の外へ出て行った後だった。

 ……。






「俺は途方に暮れていたんだぞ、シドニー。ロンドンに着くと、君はいきなり大きな邸宅に入っていくし、しかも向かった先はご婦人の寝室で……」

「ご婦人? 母さんだぞ?」

「ご婦人だ! その上、父君の心を傷つけるようなことを言うし」

「父さんなら、わかってくれたさ」


 「ありがとう」

改まった声で俺は言った。

「ロンドンに着くと、君はイギリス政府に対し、俺を大佐に推薦してくれた」


「そして僕を大尉に」

「俺も大尉にしてくれました」

 トロムリャンと俺の副官、ル・グランが同時に言う。


「何を言っている。君たちは俺をタンプル塔から救い出してくれたじゃないか。それに、勇敢な将校を取り立てるのは当然のことだ」

 シドニーは言って、長い吐息を吐いた。

「君たちは、俺に命を預けてくれた。俺と同じ船に乗り、地中海を渡り、トルコまできてくれた。そして、フェリポー。君は……」


「俺はどうしても、君と一緒に戦いたかったんだ」

きっぱりと俺は言い放った。


 当初、フェリポーだった俺が任命されたのは名誉大佐だった。けれど俺は、どうしてもシドニーと行動を共にしたかった。それで彼のティグル号に乗り、トルコへ同行した。

 そして疲労と熱病で死んだ。


 2年前の牢獄生活で、俺の体はぼろぼろになっていた。

 名誉大佐という役柄は、シドニーの気遣いだ。にもかかわらず、暑く乾燥した過酷な気候での戦いの道を選んだのは、俺自身だ。

 繰り返すが、俺の死は俺自身の選択の結果だ。これだけは、どうしても彼にわかって欲しい。


 しばらく沈黙が座を支配した。

 最初に口を切ったのは、やっぱりシドニー・スミスだった。


「今話したのは、当事者しか知らない極秘情報ばかりだ。君は正確に俺達の話についてきたな。よかろう。俺は君を信じる。どのような神の気まぐれか知らないが、確かに君はフェリポーだ」


「僕も信じます」

「貴方は俺の上官です」

 勢い込んでトロムリャンとル・グランが同意する。


 全員の視線が、ただ一人、沈黙を貫いているイタリア人スパイに落ちる。

「疑う理由はないな」

 ヴィスコヴィッチは渋い顔をした。が、すぐに破顔した。

「どんな形であれ、俺だって、君に生きていて欲しいんだよ、フェリポー」


「ありがとう、みんな」

俺の目に涙がにじんだ。







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