11 脱獄


 ……。

 数年後、王党派貴族を逃がそうとしていたスミスは、ちょっとした立ち回りを演じた後(それは、船上でブドウ弾の炸裂する華々しい活劇だった)、とうとう、捕えられてしまった。


 即座に彼は、その時、同行していた亡命貴族のトロムリャンを、自分の召使だと言い張った。僅かな時間に、部下達にもそう言うよう、徹底した。

 王党派の亡命貴族だとわかれば、トロムリャンは即処刑されてしまったろう。しかし、英国将校の召使とあれば、そうはいかない。彼はシドニー・スミスと共に逮捕され、収監された。


 海軍将校であるスミスは、当然、母国が捕虜交換を申し出てくれると信じた。自分が処刑されるなどありえないと、たかをくくっていた。

 しかしフランス革命政府は、捕虜交換に応じなかった。その時スミスは、半給の身で、いわば、半分休職扱いだった。また、3年前のトゥーロンでの焼き打ちは、革命政府にとって、許しがたい暴挙だった。彼は、英国海軍将校ではなく、海賊として、パリのタンプル塔へ収監された。


 タンプル塔は、「処刑の控室」と呼ばれ、重罪犯が収容される監獄だ。ルイ16世夫妻が斬首されるまでの間、監禁生活を送ったことでも有名だ。



 塔の向かい、シドニー・スミスのいた上層階の向かいには、3人の娘たちが住んでいた。

 牢獄暮らしのつれづれに、スミスは彼女たちと、信号で連絡を取り合っていた。女の子たちが窓辺へ出す文字板に、彼が手を振って答えるという方法だ。


 試みに、亡命貴族エミグレ軍のリーダーの名を伝えたところ、数日後にはトロムリャンの新婚の妻が、娘たちの隣に並んでいた。


 彼女を通じて、シドニー・スミスは、外部、英国大使やエミグレ軍と連絡を取ることができた。



 皮肉なことに、それから間もなく、トロムリャンは釈放された。革命の精神は、下働きの召使に寛大だったのだ。


 出獄した彼は、スミス救出に全力を尽くした。イギリスにわたって熱心に政府上層部に釈放を働きかけ、また、フランスに残った彼の妻は、エミグレのリーダー、フロッテと連絡を取り合った。


 そうこうしているうちに、日の出の勢いのナポレオン・ボナパルトが、戦争を勝利に導いた。彼は祖国へ凱旋し、民衆は熱狂の裡に、彼を出迎えた。

 民の人気を独り占めしたボナパルトは、革命政府に対し、強い影響力を持つようになった。


 なんとも間の悪いことに、ボナパルトは、トゥーロン包囲戦の砲兵隊長だった。戦いでは勝利を収めたのだが、シドニー・スミスに多くの艦隊や兵站(前線基地)を焼かれ、船だけではなく武器弾薬を始め、必要物資を失った。


 トゥーロン包囲戦は、ボナパルトの砲兵隊長としての初めての戦いだった。その輝かしい勝利につけられた、汚点。彼の、シドニー・スミスへの恨みは深かった。



 やがてスミスの元へ、タンプル塔へと暗殺者が向けられたとの情報が入った。


 ……今、政府を牛耳っているのは、あのだもんなあ。


 もはや悠長に構えてはいられなかった。このままでは、ある日食事に毒を入れられ、暗殺されてしまうかもしれない。その場合、スミスの死は、単なる病死として片づけられるはずだ。



 を、スミスは、とあるアイルランド人女性が経営するパブで伝えられた。


 ラルフの看守ボニフェイスは、この英国海軍将校を、ほとんど崇拝していた。彼の妻もまた、ひっきりなしにシドニー・スミス卿を優遇するよう夫を説き伏せていた。

 そういうわけで、悪名高きタンプル塔に監禁されていながら、スミスはかなり自由な暮らしをしていた。定期的な入浴はもとより、時折は、看守と共に町へ出て、飲食することさえあったのだ。


 実際の所、酒に弱い看守ボニフェイスが酔いつぶれてしまい、スミスが監獄まで連れ帰るといったこともあった。

 看守の彼に対する信用は高まるばかりだった。監獄で暴動が起きた際には、彼はスミスと共に地下に立て籠ったりもした。



 このアイルランド人女性が経営するパブで、酔い潰れたボニフェイスを隣において、スミスはについて知らされた。ただ、確証はなかった。



 計画を伝えられ、2週間ほどした頃。

 シドニー・スミスを移送させる命令を携え、革命軍の将校と従者が、タンプル塔を訪れた。


 看守のボニフェイスは、危惧を覚えた。今までに移送された囚人たちは、例外なく、消息を絶っていたからだ。


「ああ、どうしましょう。貴方は殺されてしまうかもしれないわ」

 スミスの回りをぐるぐると回りながら、看守の妻が嘆いた。彼女は、今にも泣き出しそうだった。


「私は大丈夫」

 にっこりとスミスは笑った。アイルランド人女性のパブで伝えられた情報が正しいのなら、迎えに来たのは味方のはずだ。

 彼は監獄を移るのではない。脱獄するのだ。


「そんなことを言って、もし、貴方に何かあったら……」

 看守の妻は、もはや半泣きだ。

 自分を心配してくれる看守夫妻を前に、スミスの心は痛んだ。とはいえ、これが脱獄だと教えることは、彼らの立場を危うくするだけだ。心配し続けてもらうしかない。


「出発のお時間です、シドニー・スミス卿」

監獄の中に、迎えの将校が入ってきた。


 彼の持ってきた引き渡し命令書は本物だった。きちんと、革命政府の海軍大臣のサインが入っている。

 将校は堂々と振舞い、引き渡しの書状に派手なサインをした。


 将校も従者も、知らない男達だった。事前の情報では、彼らは王党派の友人であるはずだが、もしかしたら、本当に革命政府からの使者なのかもしれない。

 その場合は……。


 「ああ、ムッシュ・スミス。もう二度とあなたに会えないのかしら」

 看守の妻の涙声で、はっと我に返った。


 ……「大丈夫。この人は王党派だから。どうか脱獄の無事を祈っていて下さい」

 もちろん、そんなことが言えるわけがない。代わりに彼は、背中に回した手で、OKのサインを送った。自分は大丈夫。心配しないで。


 「タンプル塔から、6人の護衛をつけます」

ボニフェイスが言った。


 ……まずい。

 スミスは危惧した。もしこれが、本当に脱走計画だったとしたら、6人の従者は邪魔になる。恐らく塔を出たところで殺されてしまうだろう。


「いやいや、市民ボニフェイス。心配は無用だ。私は将校だ。そして、シドニー・スミス卿も。彼は名誉にかけて脱走などしないだろうから、護衛など無用だ」

 ボニフェイスの提案を、革命軍の将校は居丈高に退けた。


「私をどこへ連れて行くつもりだ?」

スミスは尋ねた。

「フォンテーヌブローだ」

将校は答えた。

「サー。私は私の名誉にかけて、どこへなりとも貴方の連れて行くところへついていくつもりです」

スミスは誓って見せた。

「うむ。私もわが名誉をかけて君を守ろう」

胸に手を置き、将校は誓った。思いがけず温かい声だった。


 一連のやり取りを見て、ボニフェイスは護衛をつけようという申し出を引っ込めた。


 ……危機は去った。

 だがこれは、本当に脱獄なのだろうか。その疑問が払拭できない。


 将校と従者は、スミスを馬車に連れて行った。御者台の横には黒ずくめの服装を着た男が乗っていた。ひどく不吉な雰囲気だ。


 ……もしかしたら。

 ボニフェイスの言うように、自分は革命軍の将校に人知れず殺されてしまうのか。


 迎えに来た将校は馬車を開け、スミスを中に押し込んだ。

 馬車の中には……スミスは安堵の余り座り込みそうになった。


 そこでは、トロムリャン、彼と共に拘束され、召使と偽って命を救った王党派の貴族が微笑んでいた。召使であるゆえに早々に釈放されたトロムリャンは、妻と共に、スミスの脱獄に協力していたのだ。

 ……。






 「タンプル塔に入ってきた将校は、我々が雇ったダンサーだった。俺とトロムリャンは、タンプル塔では顔を知られていたからな」


 その2年前にフェリポーは、ベリーでの王党派の反乱を組織して逮捕され、脱獄していた。自慢じゃないが、刑務官の間では有名だ。

 トロムリャンはシドニーと一緒に逮捕され、タンプル塔にいたことがある。彼は、召使だからという理由で早々に釈放されていた。


「その獄中暮らしで君は体を壊したのだろう?」

 シドニーは傷ましそうな顔をした。

「そんなの、すぐに元に戻ったさ」

 軽く俺は受け流した。本当は、不潔で寒く、湿気のある牢獄暮らしで体を弱らせ、それが死に繋がったのだが、過酷な気候のトルコに連れて行ったことについて、彼に責任を感じて欲しくなかった。


「ダンサーを雇ったことは、我ながら英断だったと思うよ。大尉に化けるなんて、こういうことは芸能関係者に任せるに限る。書類にサインした時の派手な仕草は名演技だったと、君は言ったな、ヴィスコヴィッチ」

 俺はイタリア人のスパイに向き直った。

「ヴィスコヴィッチ、君の役割は、海軍大臣の署名入りの用紙を盗むことだった」

「ああ。出張があるとかで、署名だけをした白紙の命令書があると聞いたのだ」

「その白紙の部分に、俺が、シドニー・スミス卿の移送命令を書いた。緊張したぞ、あれは。なにしろ失敗できないからな」






 ……。

 一切の首謀者は、御者台の横にいた、黒っぽい服装の男だった。走り出す直前に、彼は馬車の中に入ってきた。

 それが、フェリポーだった。

 不吉な雰囲気を漂わせていた彼は、話し出すと礼儀正しく、強い意志の力を感じさせた。

 ……。






 「どうしてもシドニー、君を救い出す覚悟だった。馬車の周りに、警邏の警官がたくさんいたろう? 彼らも仲間だった。もし失敗したなら、あそこで派手な銃撃戦が始まる手筈だった」






 ……。

 「スピードを上げろ」

 馬車から首を出し、フェリポーが叫ぶ。

 「へい!」

馬丁は張り切り、馬車は猛スピードで街を駆け抜けた。


 ……飛ばし過ぎだ。

スミスは心配になった。


 彼の不安は的中した。角を曲がろうとしたとき、馬車の一部が、果物屋の台に触れた。

「あっ! イチゴが!!」

叫び声が聞こえる。馬車の窓から、ころころと赤い粒が転がっていくのが見えた。


「ひでぇ。商品が台なしだ!」

「弁償させろ!」

「逃げてくぞ。警察を呼べ!」

野次馬達が集まってくる。


「飛び降りるぞ」

フェリポーがつぶやいた。

「え?」

「いくぞ!」


 次の瞬間、男たちは、一斉に馬車から飛び降りた。


「おおい、お客さん! 運賃! 運賃を払ってくれ!」

置いてけぼりを喰らった馬丁が喚く。

「ほら!」

 警官に化けていた一人がコインを放った。うまく馬丁がキャッチする。


「貴方はこっちだ」

 フェリポーがスミスの手を掴んだ。冷たく乾いた手だった。

 そのまま全速力で走りだす。

 二人は、フェリポーが予め用意していた馬車の中継地点の小屋に飛び込んだ。

 ……。






 「あの後、ダンサーの彼は、何食わぬ顔でパリに戻り、舞台に出たのだそうだ」

「うん。彼には月決めで謝礼を送るよう手配しておいた」

 シドニー・スミスが俺に応じた。


「貴方は、私の妻も匿ってくれている」

 新婚のトロムリャンは瞳を潤ませている。

「君は、あっという間に子どもを作っていたな」

 笑みを含んだ声でシドニーがからかう。トロムリャンは真っ赤になった。

「私はそんなに長い時間を妻と過ごした訳ではありません。だってスミス卿、貴方の味方になってくれる人を探しにイギリスへ行かねばならなかったわけだし……」


 「御者にルイ金貨を2枚も投げたのはやりすぎだった」

 真っ赤になったトロムリャンを見るに忍びず、俺は話をそらせた。

「運賃は、銅貨で支払うべきだった。金額が多くて疑われるのではないかと、心配したものだ」

「それはさんざん、貴方に怒られましたよ、フェリポー大佐」

 今まで黙っていた副官のグランが言った。アビシニア人の少年おれをフェリポーと認めた彼の目は、潤んでいた。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る