10 トゥーロン包囲戦
全部を信じるには、荒唐無稽な話だった。フェリポーだった俺が、肌の色の黒い、アビシニア人の少年に転生したなんて。
だが、いくつかの記憶の一致から、ド・トロムリャンは、俺をティグル号へと連れて行ってくれた。
ド・トロムリャンには、新婚の妻がいた。亡命中、
妻子の無事を確かめたかったのだろう。下船のわずかな時間に彼が郵便局へ来たのに、俺は出くわしたというわけだ。
俺は、ティグル号のシドニーの部屋へ通された。
そこには華美ではないが、そこそこの調度が設えられていた。バネのきいた長椅子が置かれ、床には、凝った織のトルコ絨毯が敷かれている。
部屋には、シドニーとトロムリャンの他に、二人の男がいた。ル・グラン、俺の副官だった男と、イタリア人のヴィスコヴィッチだ。二人とも
「ド・トロムリャン。お前、何をやっている。こんな部外者を連れてくるなんて!」
ヴィスコヴィッチは憤っていた。
彼は、ヴェネチアの熱烈な愛国者で、国際的なスパイでもある。疑うのも無理はない。
シドニーが立ち上がり、グラスに琥珀色の液体を満たして戻ってきた。
無言で全員に配る。
俺にも渡そうとするから、首を横に振って断った。
「そうか。未成年か」
残念そうに彼はつぶやいた。
「ここに集まったメンツの紹介は不要かな」
シドニーが口を切った。全員から、猜疑の視線を感じる。
一人一人の名を当てる必要を感じた。
「俺をここに連れてきたのはフランスの
俺は全員の名前を並べた。いい当てられても、その場の人々の猜疑の色は濃くなるばかりだ。
無理もない。だが、信じてもらうしかない。
「驚かないで聞いて欲しい。僕は、見かけ通りの少年じゃない。いや、体はそうだけど。転生したんだ。この場合は転移かな」
大きく息を吸った。
「俺は、ルイ=エドモン・ル・ピカール・ド・フェリポーだ」
「嘘だ! だって俺は、俺達は、フェリポー大佐を埋葬した。彼の体を……」
それまで黙っていたル・グランが叫んだ。血を吐くような声だった。
彼はフランスにいた頃からの俺の副官だ。
「転生したんだよ、ル・グラン。この少年の体に」
俺は言ったが、彼はいやいやをするように首を横に振るばかりだ。
ヴィスコンティは顔をそむけた。俺をここに連れてきたトロムリャンも俯いてしまっている。
「フェリポーの勇敢さと熱心さは、友たちに深く愛された。だがそれが、彼の命を奪った。自分の築いた堡塁の成功を見ることなく、彼は疲労と高熱で死んだ。フェリポーの死は、友人たちにより、深く悼まれた」
シドニーがつぶやいた。
「今、ここに彼がいるのなら、俺は、全てを捨て去ったっていい」
その目は潤んでいた。
「だが俺は、イギリスの海軍将校だ。トルコの
「昔話?」
「俺たちに共通の話さ。なんといっても俺達は、共に戦ってきたのだから」
一座の面々が頷いた。
「まずは、俺がなぜ、ボナパルトと戦っているかわかるか? 彼との因縁の最初を、フェリポーなら知っているだろう?」
……。
それは、今から七年前のことだ。ロベスピエールの弟の引き立てで、ボナパルトはトゥーロンでの戦闘で負傷した大尉に代わって、砲兵隊長となった。トゥーロンは、フランス南部にある海に面した軍事要塞都市だ。フランス上陸を目論むイギリス軍との間で、熾烈な戦いが繰り広げられていた。
スルミナ近海にいたシドニー・スミスが、自費で購入した「
「このまま黙って撤退する気か?」
トゥーロン沖合で開かれた海軍の会議で敗北の経緯を開かれたシドニー・スミスは激昂した。
「栄えある英国海軍が。軟弱大陸国家フランスに、おめおめと背中を見せるというのか!」
「じゃ、お前に何ができるんだよ! 陸軍はもう、撤退したんだぞ」
撤退を進言した将校は怒鳴り返した。フランス軍の要塞からの激しい砲撃に船体と誇りを傷つけられ、彼は苛立っていた。
不敵に、スミスは微笑んだ。
「敵の船を焼く。一隻でも多く。もちろん、海辺にある武器貯蔵庫も、悉く」
彼の豪語したこの作戦は、瞬く間に、トゥーロン湾作戦の司令官、フッド卿の耳に届いた。
「やれ」
歴戦の強者、海軍司令官は一言、命じた。その数年前のアメリカ独立戦争で、フッド卿は、シドニー・スミスと同じ艦隊にいた。彼が型破りな実力者であることは、よく知っていた。
「3隻の護衛船をつける。できる限り敵艦を破壊するのだ。いいか。これは国王陛下の命令だ。できる限り敵の戦艦と武器を焼き尽くせ」
まずは、兵站の破壊から始める必要があった。
僅かな部下を連れ、スミスは下船した。武器庫に火薬を仕掛けるのだ。
極秘の任務を終えて外に出た時、丘の上から、賑やかな音楽が流れてきた。シドニーも節だけは知っている革命の歌だ。
「丘の上で王党派の処刑が始まるようです」
部下の一人が告げた。
フランスではあちこちで革命政府に反対する王党派の蜂起が起きていた。ここトゥーロンも例外ではなかった。王党派は捕まり次第、ろくに裁判も受けられぬまま処刑されていた。
「よし、見に行こう」
「へ?」
「ルイ16世が考案したギロチンとやらをこの目で見てやろうじゃないか」
丘の上では、「ラ・マルセイエーズ」は最高潮を迎えていた。見物の市民達が曲に合わせて歌い出す。彼らは革命政府派だ。敵を殺せ、血を見せよと、何度も繰り返している。その敵の中には、彼らと同じフランス人の王党派も、イギリスも、そしてスミス自身も含まれている。
随分残酷で野卑な歌だと彼は思った。
不意に、楽器の音が途絶えた。
「大砲準備!」
張り上げた大声が叫んだ。
スミスは耳を疑った。大砲? マスケット銃ではなく? 大砲で死刑囚を砲撃するというのか?
信じられない。
彼は人垣を掻き分けていった。見物人の肩と肩の間から、身を乗り出す。
指揮官の姿が見えた。
小柄で痩せた男だった。胸を張り、虚勢を張っているが、どう見ても、
「おいあんた、押すなよ」
スミスに押しのけられた見物人が、不満そうに振り返った。
「いやあ、すまんすまん」
言いながら彼は、さりげなく帽子の庇を下げた。
囚人たちは、一列に並ばされていた。大砲準備の合図に、たまらず座り込んでしまった者もいる。
「発射!」
爆音が轟いた。まるで直近に雷が落ちたようだ。砂埃が巻き上がり、硝煙の匂いが立ち上る。凄い威力だ。しばらくは何も見えないし、何も聞こえなかった。
硝煙の霧が晴れた。
耳を塞ぎ、しゃがみ込んだ見物人の向こうに、大きな穴が見える。死刑囚達は、穴の近くに、折り重なって倒れていた。恐ろしいことに、彼らの体はばらばらだった。
しかし、少し離れていたところに座り込んでいた者たちは無事だった。彼らは、大地に突っ伏し、生きて延びていた。
……一度の砲撃で、全員を殺せるわけがないんだ。
端の方であんな風に地面に突っ伏されたら、大砲では殺すことができない。
全員が死ぬまで砲撃を繰り返すとしたら、生き残った死刑囚にとって、これほど残酷なことはない。弾や火薬だって、無限にあるわけではないだろう。いったいどうするつもりなのか。
隊長の大音声が轟いた。
「これで、革命政府による制裁は果たされた。王に加担するという不正は正されたのだ。残った者は、速やかに立ち上がり、家に帰るがいい」
スミスは感動した。
政府に逆って囚人を助ければ、この隊長自身が罪に問われるだろう。ライン方面では、司令官クラスの将校が何人も斬首されたのを、スミスは知っている。
だからこのような形で、彼は、囚人を救ったのだ。
「あの隊長の名は?」
近くにいた見物人に、スミスは尋ねた。
「知らないのかい。彼こそが常勝将軍、ナポレオン・ボナパルトさ」
大砲の音に驚き、尻もちをついたくせに、見物人は、得意げに答えた。
「ボナパルト……」
それは、新しい砲兵隊長の名だ。イギリス軍を撤退に追い込んだ……。
恩赦と聞いて、うつ伏せていた囚人たちが、もそもそと立ち上がりはじめた。
「発射!」
再び轟音が轟いた。
一発目で生き延びた囚人たちは、その全員が、二発目の砲撃で殺された。
シドニー・スミスは、ボナパルトの本性を見た気がした。
……。
「ボナパルトはそういうやつだ。俺は、彼の学友だった。あいつは昔から、そうだった」
俺の胸に苦い思いがこみ上げた。
ゆっくりとシドニーが頷く。
「あの時トゥーロンで俺は、ボナパルトの本質を知った。それまでは革命の精神に賛同していた面もあった。だがあの残酷な処刑を見て、革命政府の敵になろうと決意したのだ」
「そして貴方は、僕ら王党派の味方になってくれた」
ド・トロムリャンがつぶやく。
「シドニー卿、貴方は、処刑される運命だった僕を救ってくれた」
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