5 遠くの村のキャラバン隊


 遠くのオアシスの村の族長が会いに来た。


 俺とイスマイルは、接客に駆り出された。

 炊事当番から、カップに入った水を渡された。水は貴重だから、零さずに運ばねばならない。凄く緊張した。


 年老いた族長は、顔は皺で覆われ、日に焼けた肌は、なめした皮のようだった。それでも彼は矍鑠かくしゃくとしていた。片膝立てて座り、張りのある声でしゃべっている。

 土着の言葉だったので何を言っているのかわからない。彼の言葉は、同席した通訳が訳した。どうやら、聖地巡礼の帰りに立ち寄ったらしい。外には、大規模なキャラバン隊が待機していた。


 「****」


 何か言って、族長は、布でくるんだ包みをそっとドゼの方に押し出した。

 無言でドゼが押し戻す。

 それをものともせず、族長が再び押し付けてくる。が、今回もドゼはそれを族長の手元に戻した。


 結局、族長は包みを自分の供回ともまわりの者に託した。不思議なやりとりだった。

 何事もなかったかのように族長はドゼに向き直り、何か言った。通訳によると、首都との往来について相談したいことがあるという。間もなく3人は、別室へ移動していった。


「正義のスルタン」


 静かになった部屋の隅からトルコ語が聞こえた。今まで気がつかなかったが、そこには俊敏そうな少年がいた。


「君は?」

イスマイルが尋ねる。

「エスム。族長の息子だ」

あの年寄りの息子かと驚いた。孫か、ひ孫くらいに見える。


「18歳だ」

 俺の様子を見て、エスムが白い歯を見せた。


 再びびっくりした。この民族は、本当に若く……というより、幼く見える。年端のいかない少年のように見える彼は、バキルとしての俺より4つも年上だ。


「僕はイスマイル。こちらはバキルだ」


 イスマイルの名を聞くと、エスムは片眉を吊り上げた。

「総督の愛妾か?」

「違う!」


 イスマイルが一喝すると、エスムが意外そうな顔になった。

「なぜ怒るのだ。彼は、偉大な支配者だ。君は、彼の手がつかないことを嘆くべきだ」

「……」


 イスマイルはバキルおれの仲間だ。彼に加えられた侮辱に憤りを感じた。

 イスマイルが肩を竦めた。さりげなく手をあげ、エスムに飛び掛かろうとする俺を制する。


 それにしても客人の息子を殴ろうとするなんて。亡命貴族のフェリポーおれには考えられないことだ。バキルは、相当やんちゃだったのに違いない。


 「『正義のスルタン』とは、どういう意味だ?」

気持ちを切り替え、俺は尋ねた。

「言葉通りだ。彼を讃えている」


 驚いた。

「だがドゼ将軍は、君らの征服者だろう? 彼は君の部落を制圧し、税を吸い上げている」


黒い大きな瞳が、俺に向けられた。

「その税の使い道を、君は知っているか?」


「フランス軍の維持費になるんだろう? 彼らの食料とか、軍備費とかに消えるんだ」

 大抵の遠征軍は、占領地からの税で維持される。


「違う」

きっぱりとエスムは否定した。

「去年、俺たちが支払った税は、俺たちの村の道路を整備するのに使われた。今年はDJERMを買うそうだ。母なるナイルを行き来して、大量の荷物を運べるように」


 意外だった。


 同じフランス軍の総司令官、ボナパルトの所業を、俺は思った。

 カイロに駐屯していた彼は、付近のオアシスの村々から吸い上げた税で、豪奢な生活を送っていた。やがてその金で軍備を整え、シリアへの遠征を実行した。


「ドゼ将軍は、君らから吸い上げた税を、君らの為に使っているというのか?」


 信じられない思いで、俺は繰り返した。エスムは大きく頷いた。


「税とは本来そうあるべきだと、彼は言った。支払った民の為にこそ使われるべきだと。村の長老たちは驚いていた」


「それはそうだろう。千年以上もの間、君らは搾取され続けてきたのだから」

 イスマイルが言う。ドゼそっくりの口調だ。

「君らエジプトの民は、トルコ大帝に税を払い、時折襲って来るマムルークにも馬や武器を強奪され続けてきた。いわば、税を二重取りされていたのだ」


 イスマイルの言葉に、エスムが頷いた。

「ドゼ将軍は、公正な支配者だ。俺達は彼の支配を歓迎している。それにフランス軍が監視しているから、マムルークが村を襲ってくることもなくなった」


「隣村へ行く。そんな簡単なことさえ、かつては、マムルークの襲来に怯えずにはできなかったんだよ」

 唖然としていると、イスマイルが教えてくれた。


 フェリポーだった頃に知った情報とのあまりの落差に、俺は戸惑いを隠せない。

「同じフランス軍のボナパルトの軍は、そうではなかったぞ。彼らは略奪し放題だった」


エス厶の顔が、嫌悪に歪んだ。


「彼は神の存在を信じない。そして、たくさんのトルコ兵を殺した。降伏したトルコ軍の兵士を、まるごと処刑したのだ」


 それも知っていた。ヤッファから逃げてきた兵士らが伝えた。


 エル・アリシュとヤッファで降伏したトルコ兵達を、フランス軍は海辺へ連れて行った。椰子の木の揺れる、美しい浜だ。

 そこで彼らは、自分たちに降伏したトルコ兵達を狙い撃ちした。浜辺で処刑したのは、弾丸や火薬を節約する為だ。海へ逃げたトルコ兵らは、狙撃するまでもなく溺れて死んだ。


 ヤッファから逃げてきた仲間の話に怯え、アッコの兵士らも逃げ腰になった。それを制し、軍に留まらせたのがシドニー・スミスだ。


 エスムが口を歪める。

「その上ボナパルトは、味方の兵士達も虐殺した」

「なんだって?」


 耳を疑う。

 フランス兵の大半は、徴兵された市民兵だ。プロの傭兵ですらない。彼らは市井の人々だ。それを……殺した?


「流行り病に罹った者を戦場に置き去りにしたのだ。病院に収容した患者には致死量のアヘンを渡した。軍に疫病を流行させない為に。ボナパルト自身が生き延びるために」


 言葉もなかった。

 俺達が立てこもっていたアッコ要塞をフランス軍は包囲していたフランス軍。上から撃たれても外壁をよじ登って来る兵士らは勇敢だった。敵ながら大したものだと、同じフランス人として誇らしく思った。


 その彼らが、そんな過酷な状況にあったなんて。

 勇気ある猛攻の裏側で、ペストに罹った兵士は見捨てられ、戦友の手で殺されていたとは。軍を維持し、戦いを継続させるために。


 イスマイルが頷いた。

「同じようにフランス軍の侵略を受けながら、上エジプトが平和なのは総督がドゼ将軍だからだ。上エジプトは彼に護られている。マムルークから。そして、フランス遠征軍総司令官ナポレオン・ボナパルトの支配から」


 意外な気持ちで、俺は彼の言葉を聞いた。

 上エジプトの平和をドゼが守っている? マムルークから、そして、総司令官オーディン・マークス自身から。


「ドゼ将軍になら、俺達も喜んで従う。さっき、お前らも見たろう? 彼は、賄賂を受け取らない」

「賄賂?」

「父が差し出した。だが、彼は拒否した」

「ああ!」


 不可解な布の包みがドゼと族長の間で行き来していたことを、俺は思い出した。最終的に族長はドゼに受け取らせることを諦めていたが、あれは賄賂だったのか。


「港町で父は、女奴隷を買った。若く、見た目も大層美しい。父は彼女をドゼ将軍に献呈したいと言っていたが……」

エスムはじろりと俺達を見おろした。

「彼は、少年を集めているそうじゃないか」


 イスマイルだけでなく、俺まで同類にされた。不愉快極まる。


「俺はラクダ部隊の兵士だ!」

「俺は文官候補生だ!」


俺とイスマイルは同時に叫んだ。







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