3 ハーレムと奴隷
「良かった、バキル。意識が戻ったか」
顔に傷のある将軍がにっこりとほほ笑む。彼はひどく痩せていた。来ている服がぶかぶかなところを見ると、急激に痩せたに違いない。
その服も、軍服ではなかった。なんというか、ひどくみすぼらしい服だった。
それでいて彼は、かつてライン方面軍の英雄だった。軍歴では、ボナパルトをはるかに上回る。
この外見は、罠に違いない。彼は、恐ろしい男だ。
俺は一歩退いた。
「将軍様は、私のような者でもお気にかけて下さるのですか?」
「当たり前だ。軍は俺の家族だ。君は、大切な仲間だよ」
「仲間……」
変なことを言うと思った。異国の少年が、家族? しかも俺は奴隷だ。そもそもこいつはフランスの貴族で、将軍じゃないか。
「あの、」
自分がフェリポーだったことは、隠しておくつもりだった。だがこれだけは、聞かずにはいられない。
「アッコ包囲戦はどうなりましたか」
「うん、戦闘に興味が出てきたのだな。いいことだ」
何か勘違いをしているらしく、ドゼは満足そうだった。
「フランス軍はアッコから引き上げ、カイロに帰着した。その後、アブキールでイギリス・トルコ連合軍を破った」
「えっ!」
ボナパルトの狙いは、コンスタンティノーブルのはずだ。引き上げたということは、アッコは持ち堪えたのか?
俺の驚愕を、またしてもドゼは別の意味に捕らえた。
「そうだよ。召喚状が間に合わなくて、俺が参戦できなかった戦いだ。その頃は上エジプトの奥地にいたからな。
ボナパルトなんか、どうでもいい。
「それで、あの……」
シドニーの名を出すのは危険だろうか。敵の総大将、英国海軍将校の名を。
「まあ、アッコの太守は捕まえられなかったようだが。お節介なイギリス将校も」
長い吐息が漏れた。そうだ。あの剽軽な男が簡単に殺されるわけがない。
ドゼは怪訝な顔になっていたかもしれない。俺にはそれを見届ける勇気がなかった。
「ドゼ将軍! 奴隷商が来ました」
そこへ副官のサヴァリが声を掛けた。
「男の子をたくさん連れています」
「よし」
どうやら気のせいだったようだ。そわそわと彼は腰を上げた。
「早速見に行こう。バキル、今日までラクダの教練は休め。俺のハーレムへ行って、女の子たちが面倒を見てもらうといい」
そそくさと立ち去っていった。
何て男だ。ハーレムに(複数の)女の子たちを囲っておきながら、少年奴隷の品定めに行くなんて。
貴族社会が品行方正だったと言うつもりはない。しかし、革命軍のこの堕落ぶりは、それを遥かに上回る。
ドゼのハーレムなど、一向に興味がなかった。だが今は、フェリポーとして覚醒したことを悟らせるわけにはいかない。少年奴隷バキルとして行動しなければ。
バキルにとって、ドゼは主人だ。主人の言うことは聞かねばならない。しぶしぶ俺は、ハーレムへ向かった。
「バキル!」
走ってきたのは、サラだった。俺が意識を取り戻した時、そばにいた少女だ。ラクダから落ちてから、ずっと看病してくれていたらしい。
「心配したのよ」
背の高いすらりとした美少女が笑う。彼女はファトマ。
隅にもう一人、二人より幼い、素朴な感じの女の子がいる。名前は、マラ。
すらすらと、女の子たちの名前が浮かんでくるのに、我ながら呆れた。ドゼのハーレムで暮らすうちに、バキルはすっかり彼女たちに馴染んでいたらしい。
「あれ、アスティザは?」
勝手に口が動いて尋ねている。ここにいる3人の少女たちは、いずれも肌が褐色かもっと濃い色だが、アスティザは違った。グルジア人の彼女の肌の色は白く、目を瞠るような豪華な金髪を持っていた。
「ご主人様が売っちゃったわ」
ファティマが言う。
「は? 売った?」
「凄くいいお金になったらしいわよ。まだ14歳だし、美人だから」
「売ったって、」
衝撃だった。奴隷を買うだけでなく、売る? そもそもそれは、人類平等を謳った革命の精神に反するのでは?
隅にいたマラが近づいてきた。潜めた声で囁く。
「怖いんですって」
「怖い!?」
仮にも、司令官で将軍だぞ。それが、14歳の異国の少女が怖いとは!
別の意味で見下げ果てた男だと思った。
さりげなくマラは付け加えた。
「アスティザがいなくなって、サラは喜んでるよ」
「お黙り!」
ぴしゃりとサラが命じた。
「私はあんな女のことなんか、これっぽっちも気にしてなんかいなかったんだから!」
「サラの方が、1つ年上だもんね」
とりなすようにファティマが言ったが、これは逆効果だったようだ。むっとした声が言い返す。
「将軍様は、私を遠征に連れて行ってくれたのよ? アスティザじゃなくて。私が一番、彼に愛されているの。それなのに、なによ、あの子。彼が眠っているところへ忍び込んだりして! 私達を出し抜いて、将軍様を独り占めしようとしたんだわ!」
頭がくらくらしてきた。
「つまり、君らは、そのう……」
ドゼ将軍を取り合っていたわけ? あの頬に傷のある、みすぼらしいなりをした男を?
信じられなかった。
そして、積極的に彼に迫った美少女は、他ならぬドゼによって売り飛ばされたという。
「自分の職域を越えて奉仕するのはどうかと思うわ。だってわたし達のお仕事は、彼のお世話だもの」
おっとりとファティマが言う。
「お世話……」
ここにいるのは、10代前半から半ばくらいの少女たちだ。
ドゼのそれは、犯罪ではなかろうか。
「彼の体を拭いたり、お風呂に入れたり、それから、入念にマッサージしたり。ちょっと特別なマッサージだけど。ヨーロッパの人って、こういうサーヴィスを知らないのね。体がほぐれてよく眠れるって、将軍様は、すごく喜んでらしたわ」
「……」
別の意味で衝撃だった。ハーレムに囲っておきながら、手を出さないって……?
「いいえ! いつの日か私は、将軍様の愛を手に入れるの!」
サラが叫ぶ。
「遠征についてくるなんて、将軍様はサラのことを、お転婆な女の子だと思っているよ」
マラが御注進に及んだ。
「私は、いつだって彼の側にいたいの! だっていつ死んでしまうかわからないでしょ?」
べそべそと、サラは泣き出した。
まあそうだ。それが、軍人というものだ。
副官が彼を呼びに来たことを、俺は思い出した。
「ドゼ将軍は、男の子の奴隷を買うようだぜ?」
「まあ。また可哀想な境遇の子がいたのね」
ファティマがつぶやいた。
「将軍様は、親に虐待されたり、貧困から売り出されたりした子達を、積極的に集めているの。あなただってそうでしょ、バキル」
「あ……」
確かにそうだった。両親は子どもたちを養い切れず、一定の年齢になると奴隷商に売っていた。その代金が、下の子たちの為に使われる。
あのまま俺、つまりバキルが親元にいたら、一家は餓死するところだった。
「少年たちを集めて、どうするんだ?」
嫌な予感しかしない。
「決まってるじゃない。ラクダ部隊を作るのよ!」
さっきまで泣いていたのに、サラが叫んだ。興奮している。
「将軍様は仰ったわ。いつまでもフランス軍に頼るのではなく、自分たちの手で国を護らなくちゃいけない、って」
「自分たちの手で……」
民の啓蒙。これもまた、革命の精神だ。
そもそもフランスは、エジプトをマムルークの支配から解き放ち、トルコ
どういうわけか今、ボナパルト軍はシリアへ遠征し、トルコと戦っているが。
「特にかわいい子は、ハーレムに入れるのよね」
マラが言い放つ。
「マムルークのイスマイルは天使だって、将軍様は言ってるわ」
「……………………」
「彼はラクダの教練に行ってるわよ」
ラクダの教練なら、俺も参加している。いったいどいつが美少年だったか、俺はバキルとしての記憶を探り始めた。
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