2.ハルと友香

「それじゃ、またねー」

 手を振る経理部の女の子に同じように手を振りつつ、彼女が寮に戻っていくのを見送ると、

「……さて、と」

 と呟き、僕――監察部副官、ハリー・オコーネルは背後を振り返った。

「で。友香ちゃんは、何で隠れてるの?」

「……ばれてた?」

 のんびりと訊ねると、あはは、と渇いた笑いをあげながら、彼女――公安長、中山友香が影から顔を覗かせた。

「そりゃあね」

 訓練生時代を相棒として過ごした彼女の気配は、もはや消していたって感じ取ることができる。肩を竦める僕に、友香ちゃんはパタパタと埃を払いながら小首を傾げた。

「相手の子に誤解を与えちゃまずいかなー、って」

 予想通りの台詞に、思わず口元に苦笑が浮かんだ。

「誤解も何も、ただのだってば」

 訓練生時代からもう何百回となく繰り返した言い訳を、この旧友は訳知り顔で軽く流す。

 彼女が公安長の座を勝ち取り、僕とロンが監察の副長に収まって。

 互いの立場も生活も変わったけれど、顔を合わせた時のこんなやりとりはいつまでも変わらない。それが何となくくすぐったくて心地よい。

「お友達っていうか、いつものあれでしょ?」

「ま、ね」

 僕の元にはよく、女の子からの恋愛相談が来る。幹部候補生時代に何度か、他部署の候補生や訓練生からの相談に乗ったら、たまたまそれが続けざまに上手くいった。それ以降、僕に相談すると恋愛成就するという噂が立ってしまって、なぜかそれが一人歩きしたまま今に至る。

 さっきの経理部の子も、そんな相談者の一人だ。

「ハルもまめだねー。仕事も忙しいのに、休みにわざわざ相談に乗ってんの?」

「可愛い女の子は人類の財産だからね。あ、もちろん友香ちゃんも可愛いよ」

「んー、ありがとー」

 慣れたやりとりを交わしながら、何となく肩を並べて向かった先は、カフェテリアだ。

「でもさその割に、自分には彼女できないよね、ハル」

「……言っちゃいけないことを言うねえ、君は」

 セルフサービスのトレイを手に戻ってくるやの問題発言に、僕は友香ちゃんのトレイに乗ったパフェを取りあげた。

「あ、それ私の」

「太るよ、公安長?」

 慌てて手を伸ばす彼女からパフェを遠ざけ、てっぺんのアイスを一口。ミルキーな甘みを味わいながら、殊更にっこりと笑ってみせる。

「運動してるから大丈夫だもん。ハルこそ、最近デスクワークの方が多いでしょ」

「僕は体が大きいから大丈夫――あ、これ結構美味しいね」

 ぷ、と頬を膨らませる彼女にパフェを返すと、そうでしょ、と笑う。そんな表情には、泣く子も黙る公安長の威厳など、欠片もない。

「でももったいないよねー。ハルって背高いし優しいし、力もあるのにね」

「え、何。そこに戻るの?」

 ひとしきり互いの近況や仕事の話をした後で、不意に話題が転回するのも彼女の癖みたいなものだ。

「それを言ったら君だってそうでしょ」

 僕の返しに、友香ちゃんはきょとんと目を丸くする。

「背? 高くないよ」

「知ってるよ」

 こういう会話になると、わざと話をずらすのもいつも通り。速攻で返す僕の方も、慣れたものだ。

「友香ちゃんこそ、彼氏いないのもったいないよねって言ってるの、僕は」

 年相応の女の子の顔でパフェを頬張っていた彼女は、びしっと指を突きつけられると、目をぱちぱちと瞬いた。逃げ道を探してるな、これは。

「ないない、私はないって」

 やや間を置いて、あははは、と快活に笑いながら顔の前で手をパタパタと振る。どうやら逃げ道が見つからなかったらしい。

「何でさ?」

「だって相手を探すような時間もないし」

「いや別に、そんなことしなくても、周りにいくらでもいるでしょ」

 僕の言葉に、友香ちゃんは「うーん」と呟いて、眉間にしわを寄せる。

「あ、『いるけどみんな部下だから』とかって逃げはなしね」

「……うっわ、ハル意地悪」

 先手を制した僕の言葉に、彼女は嫌そうに顔を蹙めた。

「やっぱり言うつもりだったんだ?」

 予想通りの反応に、僕は大げさに溜息を吐いてみせる。

「――いい加減、自信持ってもいいんじゃないの? 今更、君の生い立ちをどうこう言う奴なんていないでしょ?」

 他人に対して一歩引いてしまうのは、彼女の悪い癖だ。それには彼女自身の複雑な生い立ちが影を落としているのだけれど、そろそろそこから自由になっても良い頃なんじゃないかと僕は思っている。

「……うー……」

 僕の言葉に、友香ちゃんは低く唸って頭を抱えた。

「……分かってはいるんだけどねー」

 顔を隠す手の隙間から、自嘲気味に笑う口元が垣間見える。

「まだ怖い?」

「……うん」

 小さな声とともに頷いて、彼女は机に突っ伏した。

なっさけないよねえ……」

 横を向いた顔の半分を、長い髪が隠している。

「無理にとは言わないけどさ」

 以前、何かの折に、彼女がぽつりともらしたことがある。心を許した相手が離れていくこと、その可能性自体が怖いのだと。

 その恐怖心を抱いている限り、それは彼女の自由を奪う枷となる。

「でもさ。君のそんなとこまで知ってて、受け容れてくれる相手だっているでしょ?」

 彼女の抱えるものを知っていて、それでも彼女を望む人がいることを、僕は知っている。でもその名を挙げることはしない。

 ぼくは軽く握った拳の先で、こつんと小さな頭をこづいた。

「しっかりしなよ。僕らを押しのけて公安長になったんだから、その分幸せになってもらわなきゃ」

「……何それ、意味分かんないよ、ハル」

 机に突っ伏した姿勢のまま、ほんの少しだけいつもの口調に戻って友香ちゃんが応じる。

「だから。経験豊富なおにーさんが恋愛相談くらいなら聞いてあげるよって言ってるの」

「えー、ハルじゃなあ……。結局彼女できてないし」

「君ね……減らず口叩く元気があるなら、ちょっとそこに直りなさい」

「えーやだ」

 そう言いながら、のっそりと身体を起こした彼女の口元には、いつも通りの微笑が浮かんでいた。

「ありがとね、ハル」

「お礼はいいから、さっきの言葉を撤回しようか?」

「それは嫌」

 悪戯っぽく笑いながら、少し溶けかけたクリームを口に運ぶ。

 そんなたわいもないやりとりをしながら、そのたった数ヶ月後に、再び彼女の上に過去が暗い影を落とすなんて、その時の僕たちは予想すらしていなかった。

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