3.経理長と開発長

「はあ……」

 気候は穏やか、窓からは緩やかに日射しが差し込む静かな午後。

 仕事も順調――ただ一点を除いては。

「……はぁぁ~」

 書類を広げた執務机の前に突っ伏し、経理部長官ルイーセ・リンドバーグは長々と溜息を吐いた。

「――何、溜息なんか吐いてんのさ?」

「きゃぁぁっ!?」

 突然頭上から聞こえた声に、ルイーセは大声を上げて飛び上がった。

 バサバサと、机上の書類が宙を舞う。

「騒がしいなぁ」

 執務机に軽く腰を掛けた姿勢で、開発部長官レイ・ソンブラは、慌てるルイーセを他人事のように眺める。

「い……、いつの間に!?」

「さっき。ノックしたけど、返事がなかったから勝手に入った」

 それではノックの意味がないだろうとは思ったが、口に出すことはできずに、ルイーセは溜息だけを返した。

 ただでさえ苦手な相手だというのに、こうして不意を突かれてしまっては、まともに対応するのも難しい。呑み込んだ言葉が胃に落ちて、キリリと鈍く痛む。無意識に胃を押さえるように、鳩尾に手をやった彼女の仕草を無言で眺め、レイは口を開いた。

「で? 何の用?」

「え?」

「呼び出したのはそっちでしょ。用件は何?」

「――あ! ああ、そうでした!」

 我に返り、ルイーセはバタバタと机上に舞い散った書類をかき集める。

「ちょっとは落ち着いたら? 慌ただしい」

「だ……、誰のせいだと……」

 纏め直した書類の枚数を確認しながら、ルイーセは口の中だけで小さく返す。

「お呼び立てしたのは、これです」

「? 何?」

 差し出された書類を受け取ると、レイはそれを一瞥しただけでルイーセに戻した。

「これがどうかした?」

 平然としたその声に、再び胃がキリキリと痛む。仕事、仕事と心の中で呪文のように唱えながら、彼女は深く息を吸い込んだ。

「どうかした、じゃありません。何ですか、この金額は」

「何って、必要経費」

「平然と返さないで下さい。どうして緩衝具ひとつ作るのに、こんなに必要なんですか」

「だからそれは、萩原専用の奴だって。ゲートつなげたり、本部に連絡入れたりする機能つけたから」

「それでも、こんなにかかりません」

 何年も、この開発長の相手をしているのだ。大まかな相場くらいは把握している。

「細かいこと言ってると早く老けるよ。もう若くないんだから」

「余計なお世話……っ」

 言い返そうとした拍子に胃が痛み、ルイーセは息を呑んで俯いた。

「ほら、いわんこっちゃない」

「……っ」

 淡々とした口調に応じる気力もなく鳩尾を押さえる同僚を眺め、レイは小さく嘆息する。

 そして――

「経理長。口開けて」

 言葉と同時に、伸びてきた指先が彼女の顎を掴んで持ち上げた。

「……んな……っ!?」

 顔が近い。驚きで開いた口に、ぽんと何かが押し込まれる。

 口の中に控えめな甘みが広がり、ルイーセは目を白黒させながらも不信のこもった視線を開発長に向ける。

「何を……」

 日頃から誰彼構わず試薬やら新術やらの被験体にすることで有名な彼のことだ。下手に呑み込んだら、後でどんな目に遭うかわからない。

「嫌なら吐き出せばいいのに」

 疑惑の目を向ける彼女に、表情ひとつ変えることなくレイは肩を竦める。

 彼の言葉はもっともだが、一度口に入れたものを人前で吐き出すのは、これまで彼女が受けてきた教育に反する行動だ。

「……」

「――そんなに心配しなくても、ただの飴だよ」

 口内のものを呑み込むことも吐き出すこともできずに袋小路に陥ったルイーセを眺め、レイは空々しく溜息を吐いた。

「で、これはこれくらいの金額ならOK? OKだよね?」

 さらさらと書類にペンを走らせて金額を修正し、その横にサインをすると、彼はルイーセの答えを待たずに立ち上がった。

「じゃね。後はよろしく」

 ひらひらと手を振って、レイの白衣が扉の向こうに消えるのを見届けてから、ルイーセは深々と溜息を吐いた。

 毎度のことながら、開発長とのやりとりは神経を使う。まったく何を考えているのか解らないどころか、予想を上回る行動に不意を突かれてばかりだから、余計に胃が痛む。

「――あら?」

 無意識に、いつものように鳩尾を押さえて、ルイーセははたと声をあげた。

 開発長とやりとりした後にはしばらく痛むのが常なのに、知らぬうちに胃痛が収まっている。むしろ、じんわりとした温かさが胃を包んでいるように感じる。

「……」

 ふと目を落とした机の隅に、小瓶が転がっている。レイが落としていったのだろうか。

 そっと持ち上げてみると、ラベルには「簡易気療試薬:開発中につき極秘」の文字。

 そういえば随分前に、開発部と医療部の薬事課で、医療用の呪を練り込んだ飴を共同開発すると報告を受けていたことを思い出す。

「もしかして……気を遣ってくれたのかしら」

 小瓶のラベルを眺めながら、ルイーセは呆然と呟いた。

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