5

 人気のないロビーの隅のソファに腰を下ろし、友香は溜息を吐いた。

 さっきまで泣き続けていた少年は泣き疲れて眠ってしまった。隣のソファに寝かせた幼い寝顔を眺め、友香はもう何度目かも判らない重い溜息を吐くと、両手で顔を覆った。

「――どうにか落ち着いたようだ」

 静かな声がして、ソファが軋んだ。バサリと頭の上にコートが掛けられる。

「どうして…………」

「――事実を告げたことか?」

 静かな声に、頭からコートを被ったまま、友香はかぶりを振った。

 そんなことは――自分の甘さは、訊くまでもなく解っている。

 聞きたいのは、そんなことではない。

「どうして……こんな事になるの?」

「……そうだな」

 被ったアレクのコートから、仄かに煙草の匂いが漂う。滅多に吸わない筈のその匂いが――アレクもまた辛いのだと、友香に告げる。

「どうして? ただ、友達を喜ばせようとしただけじゃない」

「…………そうだな」


 精界の者が力を使えば、「反動」が生じる。

「光」も「闇」も――善意と悪意すら分け隔てることなく、それは人界のあらゆるものに影響を与える。

 それが――この世界のシステムだ。


 自分1人が――いや、世界中の全ての人間がそれに反対したところで、このシステムは決して変わらない。その位のことは、言われずともよく解っている。

 だが理解していることと、目の前の残酷な現実を許容することは、全く別の次元の問題だ。


 無条件で与えられるはずの庇護者も、安心できる居場所も持たず、たった独りで生きてきた彬。

 幼いころから、たった独りで病気と闘ってきた暁。

 孤独を抱えた幼子たちが偶然出会い、互いの孤独を埋め合うように寄り添った。


 ただ、それだけの事なのに。


 どうして――、辛い境遇の中でようやく友を得た幼い子供たちが、こんな目に遭わなくてはならないのか。

 こんな小さな子供たちの幸福すら守れないのに、どうして世界を守ることなんてできるだろう。


「……仕方ないですませられるの?」

 自分が駄々を捏ねているという自覚はある。これはただの八つ当たりだ。

 そう頭では理解していながらも、行き場のない苛立ちをぶつけるように友香は声を尖らせた。そんな彼女に、怒るでもなくアレクは淡々と答える。

「――すませられなくても、俺達にはどうすることもできない」

 静かなその言葉は、正しい。正しいからこそ、腹立たしい。

「でも……だって、こんなの…………っ!」

 声を荒らげ、友香は己の膝に拳を打ち下ろした。

「――友香」


 がんがんと立て続けに自分の膝を殴りつける友香の手首を掴み、アレクは静かに呼びかけた。

 固く握られた拳を上からそっと包むように握ると、彼女の体からゆっくりと力が抜けていく。


 やがて――アレクが手を離すと、彼女は再びのろのろと両手で顔を覆った。

「…………傷つけたく、なかったのに」

 震える声で友香がぽつりと呟く。

「――知ってる」

 アレクが答えた。


 これまで散々傷ついてきた幼気な子どもに、これ以上、罪の意識を植え付けたくはなかった。

 それが甘い考えだと、友香自身も理屈では解っている。解っていて尚、認められずにいることを、アレクは知っている。


「――誰も傷つけず丸く収める、なんてのは夢物語だぞ」

 ややあって、アレクは呟いた。

「わかってる。でも――出来れば、傷つくのは私だけで済ませたかった」

「――お前1人が辛い思いをしても、何も解決しないよ」

 そう言うアレクこそ、その「夢物語」の実現を本心では望んでいることを、いざとなればそのために全てを背負う覚悟すら抱いていることを、友香は知っている。

 だがそれを指摘することは敢えてせず、彼女は頷いた。

「そうね……」


 2人の少年のどちらにも辛い思いをさせず、どうにか事を運びたかった。

 けれど結局、自分の甘さが、少年達ばかりかアレクにまで辛い思いをさせることになった。

 どうしても少年を傷つける言葉しか見つけられず、だがそれを告げる覚悟を持たぬまま、躊躇するばかりだった自分。

 そんな自分に代わって、アレクは当然のように悪役を引き受けてくれた。


「ごめんなさい、アレク…………」

 友香が声を詰まらせる。

 アレクは何も言わず、ただ彼女の頭に手を乗せた。ほんの少しだけ、指先に力を込めて小さな頭を引き寄せる。

 無言のまま、コートに隠れた頭をぽんぽんと軽くあやすように叩いてやると、押し殺した嗚咽には気付かない振りをして、彼は窓の外に目を向けた。


 *


 夜が白み始める頃、2人はまだ眠っている彬を連れ、病院を後にした。

 雪は既に止んでいたが、優に数十センチに達する積雪を掻き分けるようにしながら、薄暗い道を進む。あれからずっと黙りこんだままの友香を眺め、アレクは軽く溜息を吐いた。

「――おい」

 声を掛けると、彼女はゆっくりと振り向いた。

 泣きはらした目の縁が未だに赤い。アレクは傍らの樹に積もった雪を一掴みすると、ひょいと放り投げた。

 雪玉が、反応の一瞬遅れた友香の頭に命中する。

「ちょ……っ、いきなり何……っ!?」

「いや、ぼーっとしてるから、つい」

 首を振って髪についた雪を祓い落とす友香にニヤリと笑って返すと、少しの間の後、彼女は「全くもう」と唇を尖らせた。

「……そういうことするわけね?」

 とアレクをひと睨みして、友香はおもむろに周囲の雪を掻き集め始める。

 ざっざっと手早く固められていくそれは、もはや雪玉というより雪だるまにできそうな大きさだ。

「――ちょっと待て。俺はそこまでしてないよな?」

「問答無用」

 焦るアレクの制止も聞かず、友香は雪を堅く押し固めた特大の雪玉を両手で持ち上げ、おもむろに振りかぶる。

「待てって、こいつ背負ってたら避けられないだろ」

 背中におぶった少年を示して言うアレクに、「避けられなくて結構」と、友香は思い切り雪玉を投げつけた。

「――――!」

 咄嗟に避けて直撃は免れたものの、深い積雪に足を取られてバランスを崩し、アレクは盛大に尻餅をついた。

「……お前なぁ」

 背中の少年を落としていないことを確かめ、溜息を吐いたアレクに、友香はくすくすと笑った。

「ゴメン、そんなに派手に転ぶとは思わなくて」

 そう言ってしゃがみ込むと、友香はおもむろに真顔に戻る。

「アレク……ありがとう」

 殊勝な表情でそう言った彼女を静かに見つめ、アレクはゆっくりと手を伸ばす。

 しゃがみ込んでいる彼女の手をそっと掴むと――――思い切り引き倒した。

「――隙あり」

「――――!」

 バランスを崩して雪に埋もれた友香を眺め、アレクは笑いながら立ち上がる。

「ひっど……もう、人が折角……」

「礼を言われる覚えはないよ」

 そう言うと、アレクはおもむろに背中の少年を振り返った。

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