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「…………じゃあ、この5日間ずっと、この病院で暮らしてたの?」
友香の問いに、少年はこくりと頷いた。
人目を盗んで病院内の空き部屋に入り込み、リネン室からくすねてきた毛布にくるまって過ごしていたのだという。食事は、施設を出るときに持ちだしたわずかな金で買った少しのパンを食べていた。
「………………」
予想もしなかった話に、友香は重い心持ちで目を伏せた。
彬の生い立ちが、両親を知らない自分と――いやそれ以上に、兄のそれと――重なる。こんな幼い子供が、だれにも頼ることができずに、どれほどつらい思いを抱えてきたか。
しかも彼の特殊性は、彼がこの世界の住人ではないことに起因するのに、その事実を誰も知らない――それが故のさらなる不遇。
友香の中に、この少年を何としても守らなければという強い思いが沸き上がる。
「彼は、彬君の力を見ても驚かなかったんだね?」
「喜んでくれた。すごいねって」
無邪気な喜びの混じったその声に、友香は暗鬱な表情を少年に悟られまいと視線を逸らした。
ただでさえ傷ついているこの少年を、これ以上傷つけるようなことはしたくない。
だが――彼が取り返しのつかない事態を招いてしまう前に、せめて暁の前で力を使うことだけはやめさせなくてはならない。
そのために彼女はここに来たのだ。
彼の力は、友香から見れば本当に弱いものだ。
だが、その弱い力でも、人界で使えば、必ず「反動」が生じる。それが――世界の理だ。
情報部が彬の力によって生じた「反動」を関知していないのは、「反動」が起きていないからではなく、それが単に弱すぎるからに他ならない。
彼女が裏庭で自ら計測した時に機械が反応しなかったのもまた、「反動」がおきていないためではなく――――あの計測器で測ることができるのは、空間に生じた異常だけだからだ。
ならば、「反動」はどこに生じていたのか。
最初に気になったのは昼間、暁が突然咳き込むのを見たときだった。
それまでの元気そうな様子から一変した、その急激な悪化に、嫌な予感を覚えた。
予感が確信に変わったのは、先程の看護師達の会話を聞いてからだ。
確かに、無菌室を出たばかりで抵抗力のない少年が突然外に出れば、症状が悪化することもあるだろう。それだけでも十分に説明は可能だ。
だが――――。
もしも「反動」が暁の体内に生じているとしたら――?
ありえない話ではない。
健康な一般人なら、このレベルのごく弱い力であれば体に「反動」がおきたところで何ということもないだろう。
けれど、ただでさえ体力の衰えている病気の子どもにとっては――――わずかな衝撃ですら、決定的な結果を招きかねない。
抵抗力のない少年を外に連れだしたこと。
その少年の前で力を使ってしまったこと。
そのどちらがより悪かったのか、判断することなど出来ないし、それを断罪したくなんてない。
だが――友人を思ってしたその行為が、最も望まない結末を招いてしまうその前に、止めなくては。
「……彬君」
意志の力を総動員しても尚、重い口をようよう開き、友香は少年に呼びかけた。
「その力は……」
「使っちゃだめだって言うんでしょ」
大人びた口調で彬は言った。責めるような視線に、友香は目を伏せる。
「これは化け物の力だから」
「! 違う――そうじゃないの」
思いもよらない言葉に、友香は慌てて首を横に振る。
だが精界や人界という概念を持たないこの子どもに、他にどんな説明の仕方があるだろうか。
友香は必死に考えを巡らせた。
だが、少年を傷つけることなく彼を説得するどんな言葉も、彼女は持たなかった。
悔しさに唇を噛み、だが意を決して、ゆっくりと口を開く。
「その力は、この世界では使ってはいけないの。使うと、どこかに……」
「どこかに……?」
不安げな表情で彬が言葉を促す。
だが、これまで散々傷ついてきた少年に対して、「お前の力が友人の病状を悪化させた」などとは、どうしても言えない――言いたくない。
「どこかに……どこかに、負担が……」
悪あがきにしかならないと知っていながら、友香はどうにか表現を和らげようと言葉を探す。
その時だった。
「――――その力を使うと、おまえの友達の身体に負担がかかるからだ」
不意に頭上から降ってきた声に、友香は弾かれたように振り返った。
いつ来たのだろう。見慣れた黒衣の男が、階段の踊り場に立っていた。
「――アレク! どうして…………!」
思わず、非難の声を挙げる。そんな友香に、彼女がどうしても言わずに済ませたかった言葉を冷厳と告げた上官は、静かな視線を返した。
「知らなければ、何度でも同じ過ちを繰り返すことになる。大事になってから『知らなかった』では通らないだろう」
「判ってる。だけど……、そんな言い方……!」
「曖昧な言い方でぼかせば、優しいのか?」
「――――」
直截な表現を避けようとした自分の卑怯さを突きつけられ、返す言葉もなく友香は俯いた。
カツンと靴音を立てながら、アレクがゆっくりと非常階段を下りてくる。俯いたままの友香の脇を抜け、小さく震える少年の前に立った。
「……嘘だ」
震える声で大きく頭を振って少年が言った。蒼ざめたその顔には、苦悶の表情が浮かんでいる。
「嘘じゃない」
ゆっくりと膝を折り、アレクは少年と視線を合わせた。
「……あれを見たら、元気が出るって言ったもん」
「それは気持ちの問題だ。体の問題とは違うんだ」
彬の手を取り、静かに諭すようにアレクは言う。
「だって……だって……」
小さく体を強張らせ、涙ぐむ少年の姿に絶えきれず視線を逸らした瞬間、目に入ったものに友香ははっと息を呑んだ。
ほぼ同時に、小さな声が辺りに響く。
「違うよ、彬のせいじゃない」
いつから聞いていたのだろう、裸足のつま先が赤い。
素足のまま、薄く開いた非常口から雪の積もった階段に身を滑らせて、暁はそう言った。
「先生達に駄目って言われてたのに、僕が外に出たから……、僕がいけないんだ」
途中で何度も咳き込みながら、病気の少年は縋るような目でそう言い募る。
「暁君……」
「僕が悪いんだ。彬のせいじゃ――」
そこまで言ったところで、暁少年は激しく咳き込み、崩れるようにうずくまった。
「熱い――病室に!」
「いやだ!」
慌てて抱き起こすアレクに、この病み衰えた体のどこにこんな力があるのか、と驚くほどの力で抵抗し、少年は立ちすくむ友人に声を掛ける。
「彬、僕は大丈夫、だから……もっかい、あれ――見せて」
「おい――」
「彬」
止めようとしたアレクの声を遮り、暁は怯えた表情で小さく頭を振る
雪が瞬く間に溶けるほどの高熱に、ぜえぜえと荒い呼吸。苦しげに身を折りながらも、少年はたった一人の友達へと必死に手を伸ばそうとする。
その姿に、アレクが諦めたように小さく溜息を吐いた。
「――友香」
と、自分の手首を指す彼のジェスチャーを見て、友香は弾かれたように、手首に填めていた細い銀のバングルを外す。
一見、ただのアクセサリーにしか見えないが、精界人である彼らが、仕事で力を行使する際に「反動」を引き起こさないための道具だった。
「これを持って。そうしたら大丈夫だから」
震える小さな手にバングルを握らせ、友香は囁いた。
「大丈夫。怖がらないで」
勇気づけるように肩を抱くと、彬はおそるおそる雪に手を翳した。
ぽ、と牡丹雪に火が灯り、白い花に姿を変えては友人の上に降り積もる。
苦しい息の下、嬉しそうにそれを見上げ――少年は掌に墜ちた花を握り込むと同時に意識を失った。
さっと少年を抱き上げたアレクが、非常口から中へと駆け込んでいく。
「僕の…………せい……?」
「………………」
バタンと音を立てて閉じた非常口の扉を瞬きすらせずに見つめながら、彬が滂沱の涙を流す。
そんな少年にかけてやる言葉を見つけることができず、友香は黙って彼を抱きしめた。
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