3
「…………の具合は?」
目的の階に辿り着くと、壁越しにそんな声が漏れ聞こえてきた。この隣は確かナースステーションだったなと、ついさっき見たばかりの配置図を思い出しながら、友香は耳を傾ける。
「さっきまで辛そうだったけど、ようやく寝たみたい」
「今日もまた病室抜け出してたんだって?」
「そうなのよ。雪が降ってるのに裏庭で遊んでたのよ」
あの子のことだ、と友香は悟る。
「この5日程、毎日よね。外に出たらいけないって言ってるのに、いつの間にか出てるでしょ」
「うん、友だちと遊んでるんだって言い張ってるけど、誰もそんな子見たことないのよね」
「考えてみれば、遊びたい盛りなのにずっと病院暮らしだもんね。こないだまで無菌室にいたから病院に友だちもいないし。寂しいのはわかるんだけど……」
「かわいそうだけど、仕方ないよ。今日も結局悪化しちゃったでしょ。病室抜け出すようになってから、日に日に悪くなっていくみたい」
壁越しに聞こえるそんな会話に、友香は重い気分で溜息を吐いた。
「…………やっぱり……」
取り返しのつかないことになる前に、あの少年を見つけなければ――――だが、どうやって?
非番は明日の昼までだ。何の手がかりも無しに、それまでに彼を見つけることが出来るだろうか。
「やっぱり、あの子を張るしかないか……」
ひとりごちると、友香はそっと非常口から廊下を覗いた。ナースステーションの灯りを気にしつつ、人目がないのを確かめて、ゆっくりと廊下に足を踏み入れる。
気配を消し、周囲を見回しながら廊下を進む。知っているのは、「あきら」という少年の名前だけ。
ひと部屋ひと部屋、扉の脇のネームプレートを確かめながら進んでいると、廊下の奥からたたっと走る軽やかな足音が聞こえてきた。反射的に振り返ると、1人の少年が、ある部屋に入っていくところだった。
その姿には見覚えがある。昼間の「闇の者」の少年だ。
友香は極力気配を殺したまま、少年の入っていった病室に駆け寄った。
「細谷暁」と名前が書かれた病室の扉に手を掛けたその瞬間、室内から力が使われた気配が漂う。慌てて扉を開くと、眠っている暁少年のベッドの脇に、こちらに背を向けたあの少年が立っていた。
静かな部屋の中で、ぽうっと小さな火が灯っては花に変わる。
「――こんばんは?」
小声で呼びかけると、少年は弾かれたように振り返った。
「大丈夫。何もしないから、安心して」
たっと彼女の脇を抜けて逃げようとした少年の腕を掴むと、口元に人差し指を当てながら、友香は言った。ちらりと見やったベッドの上では、もう一人の少年が眠っている。
「ちょっと、話がしたいだけなの。いいかな?」
友香の言葉を不審げな表情で聞いていた少年は、渋々ながらもゆっくり頷いた。
「じゃあ、ちょっとあっちにいこっか」
さっき入ってきたのとは反対側の非常口を指して言うと、少年は警戒しながらも頷く。
少年の手を引いて、友香は非常口へ向かう。部屋を出るとき、暁少年の枕元に小さな雪だるまがおかれているのに友香は気付いた。
外に面した非常階段に出ると、雪が一気に吹き込んできた。すっかり階段が覆い尽くされるほどに積もった雪を払い除け、友香は階段に腰を下ろした。その脇に、少年も腰を下ろす。
「寒いし、ちょっと風除け作るね。」
小さく言うと、友香は中空に手を翳した。ふわりと挙げられた手から広がった光が結界を形成する。あっけにとられた様子で見上げる少年に笑い掛けると、友香は口を開いた。
「名前は? 何て言うの?」
「…………あきら」
躊躇する気配の後、少年は小さく答えた。
「あの子と同じ名前なんだ。」
無言で彼は頷く。字を問うと、指先で雪に「彬」と書いた。
「――何してたの?」
「……あいつ、雪で遊んだことないって言うから」
「そっか。だから雪だるま持って行ってあげたんだ?」
小さく頷いた彬の顔を覗き込むようにして、友香はそっと言葉を継いだ。
「あの――――花は?」
今度は、長く間が空いた。
答えない少年に、無理に答えを促すことなく、友香は黙って答えを待つ。
「昼間、喜んでくれたから」
やがて、ぽつりと言った少年に、胸の疼きを感じながら、友香は重い口を開いた。
「……どこからきたの? お父さんかお母さんは?」
「いない」
質問の矛先がずれたせいだろうか。即答した少年に、友香は眉を寄せる。
「いない?」
「お母さんはわかんない。お父さんは……いたけど、いない」
予想外の答えに言葉を失う友香に、彼は淡々と話した。
どのような経緯があったものか、彼は物心ついた頃には既に、この世界の養護施設にいたらしい。
それ以前には父と過ごしていたような記憶もあるが、そうした思い出はどれも朧気で、空気を掴むよりも心許ない。
ただひとつ――――彼を施設に預けて去っていく父を追いかける夢を見る、という。
彼はそうして人界の施設で育てられた。
だが、何故か強い日差しが苦手な彼は、施設でも学校でも他の子ども達と同じように外で遊ぶことが出来なかった。
大人達はそんな彼を変わっていると評した。
何度か、里親の所に引き取られたこともあるらしい。
だがしばらく暮らすと、大人達は彼の「不思議な力」に気付き、彼を怖れるようになった。その度、彼らは陰で彼のことを「化け物」と呼び、最終的には施設に返された。
幾度かそんなことが続く内、施設の職員達からも不審な目で見られるようになった。
大人達が自分を見る時の怯えた視線に、彼は怯え、そしてある日、こつこつと貯めていたなけなしの金を持って施設を飛び出した。
「…………」
施設を出たその日、辿り着いたのがこの病院だった。
同世代の子ども達の声につられるように、ふらふらと小児病棟に入り込んだ彼は、忍び込める部屋を探して回る内、個室で独り、窓の外を見つめる暁少年を見つけた。
小さく孤独な背中が自分のそれと重なり、思わず声を掛けていた。
それが――5日前のことだという。
「…………じゃあ、この5日間ずっと、この病院で暮らしてたの?」
友香の問いに、少年はこくりと頷いた。
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