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「…………」

 小さく溜息を吐くと、友香はペンを置いた。

 あの後「ランブル」に戻ってはきたものの、報告書を書く手は先程から全く動いていない。

 帰り際に遭遇した、あの一件がどうしても気に掛かって仕方がない。


 確かに少年の1人は「闇の者」だったが、公式に「事件」として取り扱う程のことをしていたわけではない。

 むしろ他愛ない子どもの戯れ、微笑ましさを感じても良いようなものだ。


 だが――――、どうしても引っ掛かることが、ひとつだけある。


「…………参ったなあ」

 頭を抱え、小さく呟くと、友香は意を決して卓上の電話に手を伸ばした。

「もしもし? レオ? 忙しいところごめんなさい。ちょっと確認したいことがあるんだけど」

 電話の相手は情報部長官のレオ・チェンだった。今日確保した男の件でと前置きして、友香は訊ねた。

「あの周辺地域で、報告書にあがってた以外の『反動』って確認されてる? どんな小さいのでも良いんだけど」


 「光の者」でも「闇の者」でも、精界人が人界でその力を使う時には「反動」と呼ばれる現象が起こる。その多くは空間に影響を及ぼし、精界との境界に亀裂を入れることがある。それを防ぎ、悪質な力の行使を取り締まるため、情報部には人界の空間に発生する「反動」を記録する機器が備えられている。


 電話口でレオが書類を捲る音を聞きながら、友香は相手が「イエス」と答えてくれることを切実に願っていた。だが、ややあって返ってきたのは『記録にはないな』という否定の答えだった。瞬時に、暗く重い感情が胸に広がり呼吸を塞ぐ。

「そう……うん、そうなのよ。報告書に書く前に確認しておこうと思って。ありがとう」

 なんとかそう言って電話を切ると、友香は頭を抱えた。

 深く溜息を吐いてから、首を振って気分を変える。


 あれだけ微小な力だ。「反動現象」が記録されていない事は、はじめから予想の範囲内だった。

 ただ――万が一の望みに掛けて確認してみただけだ、と自分に言い聞かせる。

「仕方ないわね……」

 幸い、3日間の連続勤務のおかげで、報告書さえ提出してしまえば明日の昼までは非番だ。小さく頷いて、友香は報告書にペンを走らせ始めた。


 *


 1時間後、報告書を書き終えた友香は司令部の扉を叩いた。

「失礼します――あら、睦月。来てたの?」

 応接セットに寝そべって本を読んでいる萩原睦月の姿を認め、友香は声を掛けた。

「向こう、雪が降っててさー。あんまり寒いから避難しに来ちゃった」

 大学のテキストらしいハードカヴァーから目を上げて言った睦月に、奥のデスクでアレクが笑った。

「雪が降ったって大喜びする奴もいるってのにな」

「それは物好きだね」

「――だ、そうだが?」

「物好きで結構よ。まだ雪降ってる?」

 彼女の声に、「何だ物好きって友香さんか」と笑って、睦月は身体を起こす。

「降ってるなんてもんじゃないよ。今夜は今年一番の大雪だって。明日の朝までには相当積もるみたいだよ」

「へえ、いいじゃない。それならアレク、私ちょっと遊びに行ってきてもいい?」

 良い口実があって良かったと思いながら、報告書をアレクに渡し、さり気ない風に友香は訊ねた。

「構わないが、遭難するなよ」

 苦笑しつつ報告書に目を落としたアレクに「しませんー」と返す。

「――行って何するの?」

「雪を眺めたり、散歩したりするの」

 首を傾げた睦月の問いに内心ひやりとしながらも、すらすらと答えが出たことに安堵する。

「……うっわ、ほんとに物好きだ」

「風流と言って。睦月も来る?」

「やだよ、寒いもん。僕は、今夜はこっちに泊まり」

「それはそれでどうなんですか?」

 静観していた佳架の声に、「寒いの苦手なんだよね。僕、冬生まれなのに」と睦月は笑った。

「ま、じゃぁ行って来るわ」

 軽く笑いながら手を振った友香に、アレクが声を掛けた。

「おい――風邪引くなよ」

「大丈夫、寒さ対策は万全にしとく」

 どうにか皆の不信を招くことなく、この場を切り抜けられたことにほっとしながら、友香は司令部を後にした。


 *


 再び訪れた病院の裏手には、先程の比ではない位、深く雪が積もっていた。

 まださほど遅い時間ではないが、辺りは既に薄暗い。

 ふくらはぎの辺りまで雪に埋まる裏庭をゆっくり歩きながら、友香は計測器を取り出した。公安部の備品で、目視できない細かな空間の異常をかなり精密に調べることの出来るすぐれものだ。

「さて、と……」

 昼間少年達が遊んでいた辺りで立ち止まると、友香は計器を作動させる。先ほどの力の行使が原因で、空間が歪んでいたり亀裂が入ったりしていれば、何らかの反応を示す筈だ。

 だが周囲をいくらくまなく計測してみても、一向に異常は発見されなかった。

「…………それじゃぁ、やっぱり?」

 小さく洩らして友香は傍らの建物を見上げる。


 消灯時間はまだなのか、あちこちの部屋から光が漏れている。重い気分を引きずりながら、友香は夜間通用口を見つけ、そっと内部に忍び込んだ。人気のないロビーで病院内の配置図を調べると、彼女は暗い非常階段を上り、小児病棟に向かった。

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