第167話 恩返し

 種族特性。人間族以外が持つ稀有な能力。


 通常は1つの種族に付き1つしか特性を持たない。だがハイサキュバスであるクラリスは種族特性を2つ保有していた。


 飛行と敏捷性向上。前者は言わずもがな、後者は平時の2倍を記録できる。種族特性の中でもトップクラスに有用と言える。


 しかしおいそれと発揮できなかった。使用後の後遺症が酷く、1歩も動けなくなる。また数日間興奮状態が続き、異性を見境なく襲いそうになる。奥の手というべき代物だった。


「GYAAA!!!」


 ブラックドラゴンと相対して1分ほど経過している。クラリスは希望と絶望を同時に感じていた。


 まず初めに分かったことは、敏捷力はクラリスに軍配が上がるという事だ。ドラゴンの攻撃を避け続けるだけならば、不可能ではないように思えた。


 そしてさらに僥倖だったのは、ブラックドラゴンに意思がある点だった。かのドラゴンはコバエのように周囲をウロチョロするクラリスが気になって仕方ないらしく、地上への攻撃を止めて彼女1人に集中していた。これが完全な操り人形だったら、クラリスを無視して王国軍への攻撃を続けていたはずだ。


 一方で打ち破ることが出来ないことも分かった。何度か黒い鱗に剣を振り下ろしてみたものの、弾き返されてしまった。いくら物理攻撃に弱いとはいえ、個人の一振りではどうにもできない相手だった。


 勝てはしないが負けもしない。今の状況ではそれでも十分だった。


「ふっ、ふっ」


 ブラックドラゴンの攻撃手段は主に3つ。腐食ブレスによる遠距離攻撃、長い尻尾による中距離攻撃、鋭い爪による近距離攻撃。いずれも予兆があり、クラリスは早い段階で特徴を見抜いていた。


 躱す。ただただ躱す。雑念は持たない。少しでもノイズが走ると一瞬でやられる。全ての意識をブラックドラゴンに向けていた。


 だからこそ、気づくのが遅れた。


「GYA………A?」


 ドラゴンの視線が外れる。下方を向いていた。辿る。


 兵士の集団があった。統一されたアーマー色には見覚えがある。彼らは一様に弓を構えていた。


「ロイド……」


 ロイド領軍に間違いなかった。


 最前線のウィングス領軍がレニウス軍の猛攻をしのぎながら撤退の準備をして、中軍のエレガンスイブ領軍、後軍のマーガレット領軍が撤退を開始する最中、ロイド領軍だけは未だ戦場に身を置いていた。


 クラリスはロイドの考えが理解できなかった。彼は何がしたいのか。まさか弓部隊ごときでブラックドラゴンを倒せるとでも思っているのだろうか。世間知らずの貴族様なら有り得てしまうのが悲しかった。


 弓部隊が矢をつがえる。ブラックドラゴンの視線は下方に向いたままだ。クラリスには数秒後の光景が容易に想像できた。


「ちっ…‥!」


 助ける必要などない。戦場の趨勢を見誤った馬鹿共など放置すればいい。


 心ではそう思っていても、体は勝手に動いてしまう。騎士道と言うべき厄介な義侠心がクラリスの意に反した行動をとる。


 空を駆け抜ける。その先にドラゴンの大きな口があった。まさに腐食ブレスを地上に放つところだった。


「ふっ!」


 クラリスは全体重を乗せた一振りをドラゴンの上顎に叩きつけた。その瞬間、口内から溢れ出たブレスが右腕にまとわりつく。振りほどく間もなかった。


 すぐに距離を取り、地上へ視線を送る。クラリスの放った一撃によって腐食ブレスは僅かに方向を変え、無人のエリアに放出されていた。ロイド領軍に犠牲は出ていない。


 右腕に目を落とす。手首の手前から先が無くなっていた。腐食効果は絶大だった。気持ちが高ぶっている影響か、痛みが全く感じられないのは僥倖と言えた。


 ドラゴンが身体ごとクラリスの方を向いた。誰が邪魔をしたか気づいたようだ。


「…………」


 ドラゴンの攻撃を避け続けるだけなら不可能じゃない。先程までは。そう、剣さえあれば。


 完全回避できるのは予備動作の大きい腐食ブレスのみだった。鋭い爪と尻尾による攻撃は、剣でいなすことで直撃を避けていた。


 ドラゴンが口を開ける。腐食ブレスではない。明らかに嗤っていた。


「……」


 クラリスの脳裏に逃亡の2文字がよぎる。一瞬の素早さなら勝るものの、長距離移動は向こうに分がある。逃げ切れるとは思えない。


 もしくはドラゴンがクラリスへの追走を諦めた場合。標的が地上を向き、大虐殺が始まるだろう。未だ撤退中の本軍、マーガレット領軍ともに甚大な被害を被るはずだ。


 ほぼ詰んでいる。ここからの挽回は不可能だった。まさかとは思うが、ロイドは先日の腹いせにワザとドラゴンに無意味な攻撃を仕掛けたのだろうか。そんなはずはないと分かっていても、クラリスには彼の愚行が許せなかった。


 ドラゴンがクラリスの周囲を旋回する。舌なめずりする音が聞こえてくるかのようだった。


 片手を失い、剣も無くし。ハイサキュバス化で消費中の魔力も底が見え。全ての状況が絶体絶命を確証する。


 ヒトの身体とは不思議なもので、今頃寒気が全身を包み、右腕の先もジンジンと痛み出した。一瞬で北部の豪雪地帯に飛ばされたかのような寒さだった。


「生きている」


 クラリスの思考はクリアだった。寒さと痛みを感じられる限り自分は生きている。命ある自分がすべきことは何か。決まっている。最後まで足掻き続けることだ。自分の運命は変えられないが、王国軍の行末は変えられるかもしれない。


 ブラックドラゴンが動き出す。当然ブレスの兆候は無く、一直線にクラリス目掛け飛んできた。振り下ろしの爪を間一髪回避する。


 右腕と左腕、ときには鋭い牙の噛みつきを織り交ぜた攻撃をギリギリで避けていく。雑念はない。今までの人生で一番集中していると言っても良かった。


 だからこそクラリスには、自身の背後から迫る尻尾も察することが出来た。そして正面の横薙ぎと尻尾、どちらかは確実に当たってしまうことも理解できた。


 反射的に爪の横薙ぎを回避する。それと同時に背中へ強烈な衝撃が走った。息が出来ないほどだった。クラリスは空中でバランスを崩し、地上への落下運動を始めた。


 目が霞む。空の青が次第に色を失っていく。身体の感覚が無かった。復帰が不可能であるのは明白だった。


 ドラゴンと対峙していたのは地上から数十メール離れた位置だった。このまま地面に落ちてしまえばまず助からない。もしくはブラックドラゴンの追い打ちが先かもしれない。いずれにせよクラリスに成す術は無かった。


 後悔はない。達成感もない。ただただ虚無が広がっていた。


 自分のために生きたことなど1度も無かった。正しいことを正しくするためだけの人生だった。正しさがクラリスを動かし、この結末を生んだ。ハイサキュバスという特殊な種族と、ヒトとして尊敬できない父親の影響が彼女を清廉な性格に仕立て上げた。


 ふと身体から何かが抜けていく心地がした。形あるものではない。責任、重圧、成果。彼女をボボン王国、マーガレット家に縛り付けていたものが霧散していくようであった。


「あぁ」


 そうかと気づく。


 私はやっと自由になれたんだ。




「GYAAAAOOO!?」


 空の主が雄叫びを開ける。先程とは様相が異なる音だった。しかしクラリスには聞こえていなかった。


 顔に何かが当たった気がした。目を閉じている影響で分からない。背中にも何かの感触がある。分からない。膝裏もだ。当然分からない。


 彼女の疑問は目の前の声で全て解消された。


「やべぇ、主人公すぎる」


「え」


 目を開ける。空を遮る形で何かがある。顔だ。ヒトの顔。見覚えがあった。


「これは、完全にクラリスルート入っただろ」


 相も変わらずよく分からないことを言っている。クラリスは何が何だか分からなかった。


 視界の端を何かが通り過ぎる。黒っぽい何か。黒の中に水色があった。


 視線を向ける。黒っぽい物体はブラックドラゴンだった。そして彼の胴体には巨大な水色の固形物が突き刺さっている。ドラゴンはピクリとも動かない。そのまま自由落下に身を任せていた。


「なにが起きて――」


 問いかけようとした最中。


 男が小さく呟いたかと思えば、一瞬で視界がブラックアウトした。

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