第166話 ブラックアイズブラックドラゴン

「GYAAAAAAAOOOOO!!!!!」


 戦場に似つかわしくない獣の叫びが兵士を強襲する。


 身の丈巨大。以前遭遇したレッドドラゴンは優に超えている。フォルムは他のドラゴンと類似しており、名が示す如く全身がブラックでコーティングされていた。


「な、なんだあれは」


 赤ら顔のつぶやきは全兵士の代弁だった。


 クラリスも何とか落ち着こうと深呼吸を試みるものの、深い呼吸とは対照的に心音は早くなるばかりだった。


 ドラゴン種はそれぞれ色によって特性が異なる。ブラックアイズブラックドラゴンの特性は3つ。物理攻撃が通りやすく、魔法攻撃が通りにくいこと。腐食効果の遠距離攻撃が存在すること。防御力がドラゴン種でもトップクラスであること。


 ドラゴンというだけでも対処困難だというのに、遠距離に特化した防御型のドラゴンは人間族にとって天敵のような存在だった。


「落ち着け。まずは状況を……」


【―――――ボボン王国の諸君、私はハイデンベルク。レニウス帝国の将であり遠征軍の総指揮官である。まず初めに謝意を表する。野戦を選択してくれてありがとう。お陰で余計な手間が省けた】


 声が拡声する。魔具を用いているのは明らかだった。


【君たちに放ったドラゴンは我が帝国の秘密兵器だ。存分に楽しんでほしい。では、戦争を始めよう】


 声が切れる。それと同時に背後から異様な空気を感じた。振り返る。


 ドラゴンが空中に制止して大きく口を開けていた。口の中からは黒い靄のようなものが零れ出ている。


 次の瞬間には、黒い靄が地上に向けて放たれた。放出地点にいたのはマーガレット領軍の兵士だった。


『ぎゃあああああ!!』


 断末魔が響き渡る。明らかに兵士達の声だった。彼らに黒い靄が接触するや否や、人体の形が徐々に崩れていき、最後には跡形もなく消えてしまった。


「…………」


 恐ろしい光景だった。クラリスは自身の唇が急速に渇いていくのを感じた。


「クラリス様!」


 赤ら顔が切迫した声で自身の名を口にした。クラリスは自分がやるべきことを思い出した。


「全指揮官に通達。即座に戦場から離脱せよ。合流地点は昨日野営した地点。決してドラゴンに立ち向かってはならない。以上、行け!」


 伝令がクラリスの元から去っていく。


 クラリスないしボボン王国第一騎士団にはドラゴンを討伐した過去がある。色の違いがあるとはいえ、騎士団の数百倍の兵士を抱えているのに倒せない道理はないように思えた。


 しかしクラリスは撤退を決めた。空の覇者へ攻撃を届けるには魔法が不可欠であり、王国連合軍の魔法部隊はレニウス帝国との前哨戦で消耗していた。つまり攻撃手段がない。


「お前も戻れ。自分の部隊を指揮しろ」


 赤ら顔に命令する。


「クラリス様はどうされるのですか」


「私は……」


「クラリス名代!」


 振り返る。煌びやかな鎧に身を包んだ青年が立っていた。


 胸元のエンブレムに視線を移す。エレガンスイブ家の紋章が描かれていた。


「公爵より伝令。後方戦線を維持せよ。繰り返す。後方戦線を維持せよ」


 エレガンスイブ総指揮官からの命令だった。予想よりも早い出現に舌打ちが出そうになる。


 クラリスの優先順位は変わらない。まずはマーガレット領軍、次にその他領軍、最後に自分。だったらやる事も変わらない。


「公爵に伝えてくれ。マーガレット領軍はブラックアイズブラックドラゴンへの対抗手段が皆無。ゆえに戦線の維持は不可能。前線に敵兵士が存在する以上、殿を務める道理も皆無。しからば撤退を開始する。今より生き残る道は潰走にあると知れ」


 断られると思っていなかったのだろう。伝令兵士の顔色がみるみる赤くなっていく。彼が口を開こうとした瞬間、クラリスは右手で発言を制した。


「戦線の維持も勝利も得られない。ただし、時間を稼ぐ努力はする。その間に撤退を。行け!!」


 伝令兵士は何か言いたげに口をモゴモゴさせたが、クラリスをひと睨みした後、踵を返していった。


 再び赤ら顔に向き直る。


「お前もだ。自分のやるべきことをやれ」


「……もう1度伺います。クラリス様はどうされるのですか」


「会話は聞いていただろう。時間を稼ぐ。一瞬で消し炭になるかもしれんが、その時は運が悪かったと思って諦めてくれ」


「クラリス様!」


 視線を交わす。断固たる決意を秘めた瞳だった。マーガレット家の血が流れているのは間違いなかった。


 止めることは不可能。そして助力が足手まといになることも分かっていた。


 赤ら顔はグッと何かを堪える仕草をした後、一言だけ伝えた。


「ご武運を」


「ああ」


 自身の部隊へ戻っていく赤ら顔の背中を見つめる。責任感が強い男だ。彼もこの戦場で命を落とすかもしれない。


 それでもいいとクラリスは思っていた。わけもわからず死ぬ事ほど後悔を覚えることは無い。彼の場合は自分の部隊を守るために死ねる。誰かのために命を賭す行為は、そう悪い事ではない。


「さて」


 ドラゴンに視線を移す。空を旋回しながら領軍を見下ろしていた。三度腐食のブレスを仕掛けてくるのは間違いない。


 嗤えてくるほど絶望的な状況だった。流石はハイデンベルク将軍と思えた。常勝不敗は伊達じゃない。


「足掻けるだけ足掻こう」


 剣を抜く。白く美しい剣身が太陽に照らされた。


 クラリスは自身に課したハイサキュバスの制約を解除した後、ゆっくりとドラゴンの元へ近づいていった。

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