災厄
第120話 The Beginning
首都マリスの夜。
二度目のダンジョン探索を終えた私たちは、街外れのバーで酒を酌み交わしていました。二次会ということもあり、この場には私とシンクさん2人きりです。他の団員は団員同士で夜の街に繰り出していきました。
「今回もジークさんがいてくれて助かりました。ここまでダンジョンに詳しい方は初めてですよ」
「よせ。昔取った杵柄だ。大したことではない」
ダリヤ商業国は比較的魔物が住みやすい国です。多少の迫害は免れません。ただ表立って敵対してくることは少ないです。それこそレニウス帝国やボボン王国に比べたら天国と呼べるでしょう。彼らの国では問答無用で剣を向けられます。
私が過去ダリヤもといマリス周辺に滞在した期間は3年です。その間にダンジョンも挑戦しました。その経験が生かされる時が来たようです。
「最近はドラゴン退治やダンジョン探索により訓練と収益を両立できています。大変素晴らしい傾向です。副団長としても鼻が高いですよ」
「少しでも役に立てたなら光栄だ」
目の前のお酒を口に含みます。オークは種族柄、酔いにくい体質です。人間族の飲む量では滅多に酔いません。もちろん私もほとんど素面です。しかしシンクさんはだいぶ酔われているようでした。
「あぁー………仕事はいいですよ、仕事は。順調ですし」
「では何がよくないのか」
「私生活ですよ!もう僕は、どうすればいいのか分かりません……」
そう言うとカウンターテーブルに両肘をついて頭を抱えました。シンクさんのこんな姿は初めて見ました。確かに1次会からペースが早いとは思っていました。この場に部下がいないのも影響しているかもしれません。
「とりあえず話してみろ」
「えー。誰にも言いませんか?」
「言わん」
「本当かなぁ」
「本当だ」
「うーん。どうしようかな」
なんでしょう。非常に面倒くさいです。イケダさんが繰り出す謎の小ボケよりも数倍面倒です。私が温厚なオークで無かったら、殴り倒していたかもしれません。
「実はその、ずっと好きな人がいるんですよ」
「ほう。初めて聞いたな。貴殿ほどの容姿ならば、相思相愛で間違いないだろう」
「それがそうもいかないんですよ!僕の好きだという気持ちが、本気だと思われてなくて。なんかあれ、種族特性からくる錯覚というか。いわゆる身体目当てってやつです。でも違う、違うんです!僕は心の底から彼女を愛しているんです!信じてください」
「貴殿は先程から何を言っているんだ」
まるで意味が分かりません。支離滅裂にもほどがあります。やはり酔っ払いの話は真面目に聞くものではありませんね。
「今日だって僕の気持ちなんて知らずにイケダさんと一緒にいるんです……羨ましい」
「………ん?」
何やら聞き覚えのある名称です。気のせいでしょうか。確認してみましょう。
「イケダといると言ったか?」
「ええ。魔物狩りで遠征に行ってるはずです」
「そうなると貴殿が好いている女性は、セリーヌ殿なのか」
「………」
沈黙です。つまりは肯定です。
私は開いた口がふさがりませんでした。理解できないと言ったらウソになります。確かに彼女からは妙な色気を感じます。普通の女性にはない魅力があります。
ただそれ以上に容姿が酷いです。オークの私が言うのも失礼ですが、まるで雌オークのような容貌をしています。シンクさんのような、世界レベルのイケメンが選ぶ対象ではありません。今もバーの女性客から視線を集めています。
「なるほど。いや、それは、大変だな」
「大変ですよ。全く相手にされていないですし。最近はイケダさんばかり構っているし。団長も団長だ。なんでセリーヌ様じゃなくて、僕をイケダさんの目付け役に任命しないかなぁ。マイケル殺人事件では良いコンビだったのに」
団長不在の今、誰が騎士団を指揮するんだとツッコみそうになりましたが抑えました。酒酔いに正論を吐いても聞く耳を持ちません。
「あ、お代わりください」
シンクさんがカウンターにグラスを置きました。マスターが無言で持っていきます。中々のダンディです。
マスターが戻ってきました。再び無言でグラスを置きます。シンクさんが手を伸ばしました。その時です。
ズドン!!!!!!!
「うおっ!」「なっ」
突然大きな振動が私たちを襲いました。抵抗する間もなくカウンター席から地面の木目へ身体を放り出されます。それと同時に頭上から冷たい液体が降りかかりました。
「………………」
数秒を待って、恐る恐る顔を上げます。まずは自身の身体を確認しますが、特に異常は見られません。ひとまず安心です。
次に室内を確認します。グラスやらお酒の瓶やらの割れた破片が地面に散らばっています。カウンター席のイスやボックス席のテーブルも転がっていました。
地面にうずくまっていた客が続々と立ち上がります。幸いなことにどなたも大きなケガを負っているようには見えませんでした。
「皆さん!まだ立たないでください。余震が来るかもしれません」
シンクさんが大声を上げました。どうやら酔いから冷めたようです。見事なまでのリーダシップぶりは、先程までの痴態が嘘であるように思えます。
シンクさんの指示に従い、全員がしゃがんだまま息をひそめました。10秒、20秒、30秒、そして1分程経過した後、シンクさん自らゆっくり立ち上がりました。他の人も続きます。
「地震、でしょうか」
「それにしては揺れが唐突だった」
シンクさんが首肯しました。彼も同様の意見をお持ちのようです。ただその先が分かりません。地震でなければ何なのか。思い当たるものが無いのです。
「判断に迷いますね。ひとまず室内の片づけを手伝い――」
〖カカカカカ!首都の防壁とてこの程度か。温い仕事だな、ニンゲン共!〗
『!?』
声です。女性の声が聞こえました。ですが音源は特定できません。
「…………」
マスターも驚きの表情を浮かべています。未だに無言を貫き通しているのは意味が分かりませんが。
周囲を見渡します。建物の中からでしょうか。違います。では外か。それも違うように思います。まるで脳に直接伝達されたような心地でした。そう、直接に。なにか以前にも同じような経験をした覚えがあります。
「防壁……そして振動………まさか」
シンクさんはそう呟くや否や入口の方へ歩き出し、そのまま勢いよく表へ飛び出していきました。
「お、おい、どこへ行く!ぬぅ。マスター、片づけを手伝ってやれなくてすまない。勘定はここに置いていくぞ」
カウンターテーブルに硬貨を数枚置いて、彼の後を追うように外へ出ました。
★★★★
「なんだこれは」
バーを出てすぐです。そのような言葉が自然と零れました。
深夜と呼べる時間帯にも拘らず、大通りは人で埋め尽くされていました。至る所で怒声が飛び交っております。
皆が皆、動揺を隠せない様子でいるようです。長年マリスに住んでいる人達がこれだけ騒いでいるということは、滅多に発生しえない事象なのでしょう。
果たして店を飛び出たシンクさんはというと、群衆の波に乗って南門方向へ向かっておりました。
「シンク!」
大声で呼びかけます。しかし反応はありません。どうやら有象無象の騒ぎにより声が届いていないようです。
仕方がありません。私も南門方向へ向かうこととします。未だに右往左往している群衆を掻き分け、前へ前へと進みます。昼間よりも歩きにくいように感じるのは、気のせいでは無いでしょう。
進みます。進みます。
するとまたあの声が聞こえてきました。
〖カカカカカ!もう1枚いっておこうかの〗
何のことを言っているのかサッパリ分かりませんが、胸のざわつきは抑えられません。十中八九、マリスにとって良くない事態が発生しているのでしょう。
周囲を見渡すと、皆が皆その場に立ち止まり頭を押さえています。私と同様に脳へ直接声が届いたに違いありません。
いったい何処から、誰が、どのようにして、マリス住人へ声を送っているのでしょう。魔法の類だとは思いますが、その中身までは見当がつきません。
それにしても先程から変な心地がします。何と言えばいいのか。既視感でしょうか。声色といい話し方といい謎の伝達方法といい、思い当たる節があるような、ないような。あと少しで思い出せそうなのですが。脳が拒絶しているのでしょうか。
ひとまず捨て置いて、引き続きシンクさんを追う事とします。南門へ近付くにつれて人の密度が増していました。この先にいったい何が待ち構えているのでしょう。
群衆に揉まれながらも確実に歩を進め、幾何の時を経てようやく南門付近へと辿り着きました。最初に感じたのは、僅かな違和でした。
いつもより空が広いように感じます。時間帯が深夜だからでしょうか。
「いや」
違います。原因は明らかです。ここまで晒されて目を背けることなど出来ましょうか。
堅牢さを誇る城壁の一角が、破壊されていたのです。
「おいおい」
マリス全体を囲う壁、通称八角城壁は世界一硬いと言われるバルザック鉱石で構成されています。今まで少なくない戦争を経験したダリヤ商業国ですが、首都マリスが破られたことは1度もありませんでした。それも偏に八角城壁のお陰だと言われています。
それが破壊されているのです。驚かずにはいられません。
「……あぁ」
そうかと。ここにきて腑に落ちました。先程の大地震は自然災害ではなく、壁の崩落による振動から発生したのでしょう。それならば余震が無かったのも頷けます。
原因は判明しました。しかし事態が好転したかと言えばそうではありません。むしろ悪化していると捉えていいでしょう。
「ジークさん!」
呆然としていた所に声が掛かりました。視線を向けます。群衆の中でもひと際目立つ騎士様が手を振っていました。
向こうが先に気づいてくれたようです。私自身珍しい容姿をしているとはいえ、何千人以上が集う場で再会できたのは幸運と言えましょう。
駆け寄ってきたシンクさんに声を掛けます。
「おい。これはどういうことなんだ」
「あれを見れば分かります」
空の一点を指さしました。南門と首都入り口を繋ぐ大橋の上空周辺です。本来は闇の空間が広がっている場所へ四方八方から光が放たれています。光魔法の類でしょうか。
徐々に目が慣れていきます。するとそこには、この世で一番再会したくなかった人物が空に浮かんでいました。
「…………」
覚えています。忘れられるはずがありません。
「恐らくアレが騒動の元凶かと思われます」
「そうか」
「……反応が薄いですね」
「いや。そんなことはないぞ。とても驚いている」
オーク族は生まれ付き眼が良い種族です。該当の人物もハッキリ目視できます。
あれは、彼女は、イケダさんと半日間にわたる激闘を交わした女性です。異次元の魔力を備えた超人でもあります。並みの冒険者では一瞬で消し炭となるでしょう。
どんな方法で城壁を消し去ったかは分かりません。ですが彼女の仕業と説明されれば信じざるを得ないでしょう。現にこの眼で超常の戦いを目の当たりにしています。
「あぁ」
もう一つナルホドがありました。先程から心へ直接語り掛けてくる謎の声は彼女に違いありません。どおりで聞き覚えのある声と口調だと思いました。無意識に記憶を封印していたのも頷けます。私にとっては思い出したくない過去です。
〖さて。そろそろいいか〗
時機を見計らっていたかのような口上で心に語り掛けてきました。一瞬で周囲のざわつきが静まります。皆が皆、空を照らす光の中心を見上げながら彼女の二言目を待っていました。どんな目的で首都を襲撃したのかが明らかになりそうです。
〖聞け、マリスの住民共。我は魔の者。貴様らの災厄となり得る存在ぞ〗
ざわざわ。ざわつきます。ざわついています。非常に戸惑いの声が生まれています。
「なり得る……?」
隣から呟きが聞こえました。シンクさんです。
確かに言葉の選択がおかしいです。断定ではなく可能性を示唆する意図とは一体何でしょうか。
〖見よ。貴様ら自慢の八角城壁なんぞ妾の手に掛ればこんなものだ。無駄な抵抗は身の破滅を招くこと、重々理解したであろう〗
ざわつきが増します。やはり壁を破壊したのは彼女だったようです。しかも壁破壊は目的ではなく手段でした。破滅衝動に駆られたわけではなく、何か意図した行動の結果だということです。
〖妾の要求はただ1つ〗
「……………」
何でしょうか。非常に嫌な予感がします。
いえ、たぶん、気のせいでしょう。1度出会っただけで彼女の全てを理解できるはずもありません。私の考えは杞憂に過ぎない。そうでしょう。
そうだと言ってください。
〖黒目黒髪の氷魔法使いをこの場に引きずり出せ。彼奴がマリスを拠点としているのは調べがついておる。今すぐに我の下へ連れてこい〗
「………う……ぐ」
思わず両手で顔面を覆います。こんなことがあっていいのでしょうか。考えうる限り最悪の展開と言っていいでしょう。
周囲の喧騒は留まるところを知りません。戸惑いの声が大半です。中には黒目黒髪を探し出そうとしている者も出てきています。幸いなのは性別まで明言されなかったことでしょうか。誰にとっての幸いなのかは分かりませんが。
「黒目黒髪で氷魔法の使い手…………いや、えーと。まさかですよね?」
シンクさんと目が合います。引きつった笑みを浮かべていました。恐らく私も同じ表情を浮かべていることでしょう。
「ジークさん、本当の事を言ってください。イケダさんではないですね?」
「え?」
「え?じゃなくて。あの女性が探している人物ですよ」
「いや、うむ。そうだな。何と言ったらいいか。分からんと言えばウソになる。だが我はウソをつきたい。ウソをつかせてほしい。例の女性が示す人物はイケダではない」
「ちょっと何言ってるか分かりませんね」
引きつった顔から苦笑へ変わりました。ここに至っては誤魔化すことに意味はありません。間接的に氷魔法の使用可否も伝えてしまいましたが、致し方ないでしょう。どうせ見当は付けていたはずです。
「もしかしてジークさんは、あの女性にお会いしたことがあるのですか?」
「ああ。マリスに到着する数日前だ。イケダと共に遭遇した。その際はイケダが氷魔法で撃退した。恐らくその件で彼に恨みを持ったのだろう」
「なるほど。レッドドラゴンを瞬殺したくらいですからね。撃退も可能………いや、でもちょっと待ってください。八角城壁を破壊した相手を撃退?本当ですか?」
「撃退は本当だ。だが例の女性は手加減したと言っていた。つまるところ彼女の本気を受け止めたとは言えん。八角城壁の破壊は本気の片鱗だろう」
「それは、まずいですね」
マズいです。非常にマズい状況です。規格外のイケダさんを追い詰めた規格外が首都に襲来したのです。しかもイケダさんはこの場にいません。いったい誰が彼女を止められるというのでしょうか。
「あ、おい。こんなところにいやがったか」
「え?アレックスさん……と、ナイツオブナイツの方々ではないですか」
冒険者ギルドの受付をしているアレックス氏に声を掛けられました。その背後には見覚えのあるパーティもあります。
「おいオーク!黒目黒髪で氷魔法ってお前の連れだろ。どこにいる?」
ナイツオブナイツのリーダであるケインさんが唾を吐きながら問いかけてきました。相変わらず蔑んだ視線を向けられています。
「ってこいつは言ってんだが。本当にイケダなのか?」
ケインさんを引き継ぐ形で、おじさんがシンクさんに問いかけました。シンクさんは一瞬だけ考え込む様子を見せましたが、すぐに顔を上げました。
「何とも言えません。本人に確認する必要があるでしょう。ただ今現在はセリーヌ様と遠征中です。マリスにはいません」
「だよな。依頼を受理したの俺だし。ただこいつがどうしてもレイ副団長に会わせろって言うから、仕方なく一緒に探してやったんだが」
「副団長。イケダが戻るのはいつだ」
「アレックスさん?」
「依頼場所と依頼内容から考えると、どれだけ早くても明日か明後日だろうな」
「だそうです。そもそもなぜあなたはイケダさんを探しているのですか?」
「決まってるだろ。マリス政府に引き渡すんだよ。中々の金になりそうだろ?」
そう言うと例の邪悪な笑みを浮かべました。相変わらず一方的に憎んでいるようです。
私ならまだ分かります。今までの言動からケインさんが魔物を排斥したがっているのは確実です。個人というよりは種族を受け入れられないのでしょう。
しかしイケダさんは違います。色々とおかしな部分はありますが、紛うことなきニンゲンです。私と一緒に行動していたからと彼に憎悪を向けるのは筋違いです。個人的に何かをしたわけでもありません。
ケインさんの言動からは全く論理性を感じません。こういう相手とはなるべく距離を置きたいものです。
「まだ政府が動き出したわけでもありません。飛躍しすぎではありませんか?」
「よーいドンで動いてたら遅いだろうが。先に確保しといて―――」
《えー、突然失礼します。私は政府の使者です。要求等があれば私が受け付けます》
男性の声が聞こえました。拡散するように周囲へ響き渡っています。魔具の類に音を拡散させるモノがあると聞いたことがあります。恐らくそれを使用しているのでしょう。
〖要求は既に伝えた〗
《ええ、存じております。現在鋭意捜索中です。他に願いはありませんか?その前にお名前をうかがってもよろしいでしょうか?》
交渉人の声は穏やかです。相手が感情的にならないよう配慮しているのでしょう。
「どうやらマリス政府は女の要求を呑むようだな。八角城壁を一撃で破壊されたのだ、従わざるを得んか」
「それはどうでしょうね」
シンクさんは別の意見をお持ちのようです。目で問いかけます。
「確かにマリス自慢の八角城壁は破壊されました。市民の心に影を落としたでしょう。これから一体どうなるんだと。ですが政府は違います。特にマリスのトップがこの程度の窮地で首を垂れるはずもありません。そう考えると交渉人の役割も明白です」
「なるほど、分かってきたぜ。つまり時間稼ぎだな?」
「私はそう思います」
シンクさんとアレックスさんで頷き合っています。私には何が何だか分かりません。
「時間を稼いでどうするのだ」
「1つは敵方の戦力をはかる。冒険者ランクで言うとどこに位置するか、単独での奇襲なのか。1つは敵方の真意をはかる。黒目黒髪を探しているのか、更に優先するべき目的が無いか。そしてこちらの戦力を整える。このように、ザっと考えただけでも3つの理由を挙げられます」
「マリスは彼女を退けると思っているのか」
「当然でしょう。最善は対話による平和的解決ですが、それが通じない場合は実力行使に出るほかありません。折しもマリスには冒険者ランクSSSが1名常駐しています。彼が出てきたらまず間違いないでしょう」
「まぁこの感じだと実力行使だろうな。黒目黒髪の氷魔法使いなんぞ、おいそれと見つかるもんでもねえし。俺たちの中で一番怪しいイケダもいねえし。その魔法使いが見つかるまで睨み合いを続けるわけにもいかんだろうし。今頃サザーランドがこっちに向かってるだろうよ」
察するにサザーランドという男性が冒険者ランクSSSのようです。シンクさんもアレックスさんも、彼が来たら安心だという雰囲気を出しています。
会話がかみ合わない理由が分かりました。この人たちはあのバケモノを何とかできると思っているようです。自分たちの手で撃退できると信じています。
危機感が足りないわけではないでしょう。今日に至るまで、全ての逆境を跳ね返してきた結果が世界第二位の都市を創り上げたのです。彼らには自分たちの家を守るという自負があります。
ですがどんな物事にも例外はあります。本物と出会わなければ、本物を知ることもないのです。間違いなく黒の女性は本物であり、そして例外です。
《すみません、名前を教えて頂けますか?》
〖…………〗
《えーと…》
一方で政府の使者は、未だ名前さえ聞き出せていないようでした。意気揚々と現れた当初の勢いは消え去っています。梨の礫です。
オーク特有の視力で黒の女性を見ると、小馬鹿にしたような笑みを浮かべていました。もしかすると使者の企みを見抜いているのかもしれません。見抜いたうえで動かない。それは余裕の表れに他なりません。
「ん?いや、待てよ。あの見た目は、もしかすると………」
アレックスさんがブツブツ言いだしました。いったいどうしたのでしょうか。
「どうしました?」
「ああ。ある依頼で、例の女に似た人物を討伐してほしい、というものがあったのを思い出してな。たしか、外見は女性型、ずば抜けた体躯、紫の肌、黒髪、2本の角、漆黒の服、という特徴だったから間違いねえと思うけど」
「そんなものがあったのですね。ちなみに報酬はどれほどでしょう」
「5億ペニーだ」
「ご―――」
シンクさんが驚きの声を上げるよりも先に、周囲がざわつき始めました。5億という数字が衝撃的だったのでしょう。私から言わせれば安過ぎますが、私以外の全員は正反対の考えを抱いたようです。
そして早くも行動に移した者まで現れました。
「5億はもらったぁぁ!」
群衆の中から男が1人飛び出しました。そのまま呆然とする使者の隣を走り去り、黒の女性へ近づいていきます。
「ツヴァイ!ちっ、あのバカ」
アレックスさんが悪態をつきました。ツヴァイという名前のようです。聞き覚えはありません。
「政府の思惑を無視して独断行動に出るとは思慮が浅すぎます。例え黒の女を倒したとしても、タダではすみませんよ。そもそも空に浮かぶ彼女をどうやって…………あ、魔法か」
シンクさんの視線を追います。ちょうど女性の真下あたりで立ち止まり、ブツブツと呟き始めました。詠唱をしているようです。彼の足元に赤色の魔法陣が出現しました。火魔法の類でしょうか。
それでも黒の女性は動きません。侮蔑の笑みを浮かべているだけです。
「むっ」
一瞬だけ彼女の手元が光りました。なんだろうと思った瞬間、ツヴァイという男性の姿が消えました。
「ちょ」
もちろんアレックスさんの制止が間に合うはずもありません。連続する衝突音とともに、町中の家屋や壁が倒壊していきます。その様子はまるで砂嵐が過ぎ去った後のようでした。
衝突音が止まりました。残ったのは一方向だけ抉られた都市の街並みです。優美な景気に水が差された心地です。
静寂。そしてざわつきが始まり、最後には叫び出す者まで出てきました。いよいよ黒の女性の恐ろしさを実感できたのでしょう。物見遊山でやってきた人達が我先にと逃げ出す姿が見えます。果たして彼らはどこへ逃げるつもりでしょうか。黒の女性がマリスの頭上に現れた時点で、逃げ場など無くなったというのに。
「おいおい……嘘だろ」
ケインさんも驚きを隠せない様子です。シンクさんも同じ表情を浮かべていました。ただ1人、アレックスさんだけは他2人と異なる様相です。
「大丈夫だ。それでも、それでもトリプルSなら何とかしてくれる」
ランクSSSに絶大の信頼を置いているようです。彼の言葉を聞いた周囲の人達も、一様に目の輝きを取り戻しました。
「………」
どうでしょう。私には黒の女性が敗北を喫する姿が想像できません。ただ皆が信じるSSSの実力も分かりかねます。もしかすると、もしかするのでしょうか。
多くの諦念とほのかな希望を抱きながらその時を待ちます。
「あ」
そう呟いたのは誰だったでしょうか。全員が一斉に同じ方向へ視線を送ります。人で溢れた大通りに一筋の道が出来上がっていました。そこを1人の男性が歩いてきます。
「サザーランドだ」
冒険者の頂点とも言うべきSSSランクの男、サザーランドの登場です。
★★★★
ルイス・サザーランド。シンクは彼を知っていた。
マリス政府お抱えのSSSランク冒険者にして、生ける伝説とも呼ばれる男だ。泰然自若に大通りを歩いている。年齢は40台後半で頭部には白いものがチラついている。それでいながら衣服からはみ出た筋肉は実に若々しい。現役で活躍する姿は想像に難くない。
「来たか!」
「大臣が動いたのでしょうね」
ここでいう大臣とは軍部大臣ではない。経済産業大臣を指す。
ダリヤに王はいない。その代わりに大臣職が置かれている。国家に関わる事案は各大臣の合議によって決定される。
名目上、大臣に差はない。ただし商業国というだけあって、経済産業大臣に権力が集中するきらいがある。特に今期の経済担当は非常に優秀であり、マリスひいてはダリヤの国営を一手に担っていた。
「見るからに強そうだな。しかし武器はどうした?まさかあの見た目で魔法使いなのか」
「違う。サザーランドの武器は、己の身体だ。超人的な身体能力に加え、鉄をも砕く鋼の筋肉を持つ。まさに全身凶器というやつだ」
「全身凶器……」
驚くジークフリードを視界に入れつつ、サザーランドを見つめる。彼程の傑物ならば問題ない。そう思わせる雰囲気があった。
一方で敵の沈黙に不安を覚えてしまう。サザーランド以上の余裕を感じるのは気のせいだろうか。まるで新しい玩具がやってきたかのような態度は、冒険者ランクSSSの強さを見誤っているのか。それとも。
シンク達だけではない。周囲の市民や冒険者達からも黄色い声援が飛ぶ。期待値はツヴァイの比ではない。既に安堵の表情を浮かべる者までいた。
人垣を抜けたサザーランドは、ゆったりとした歩調で水上の大橋を進む。向かう先では黒の女が待ち構えていた。
シンクはサザーランドひいては政府の真意を測りかねていた。八角城壁を破壊した相手に対する抑止力として、冒険者ランクSSSを召還したのは確実だろう。ただその先はどうするつもりなのか。黒の女を交渉の席につかせて話し合いに持ち込むのか、それとも問答無用で撃退するのか。
答えはすぐに出た。
「あ?」
アレックスの戸惑いは皆の気持ちを代弁しているようであった。
サザーランドが橋の上から消えた。文字通り姿を消したのだ。どこへ行ったのだろう。そう思う間もなく群衆から声が上がった。
「上だ!」
反射的に見上げる。黒の女が浮かんでいた。不動の態勢で眼下のニンゲンを嘲笑っている。しかし先程とは異なる点が1つあった。彼女の背後にもう1つの影が浮かび上がったのだ。
それは攻防と呼べるものではなかった。いつの間にか黒の女の背中からお腹にかけて、右腕が突き出ていた。その光景はサザーランドの完勝を示唆していた。
爆発的に歓声が上がる。明らかに致命傷だった。死は確実だ。
漠然と感じていた不安は杞憂に過ぎなかった。シンクもマリス陣営の勝利を確信した。彼女の表情を見るまでは。
「え…」
一瞬だった。見逃した者もいるだろう。黒の女が消えた。まるで暗闇に溶け込むように肉体が霧散したのだ。何度瞬きしても変わらなかった。空中では右腕を伸ばした状態のサザーランドが自由落下運動を始めるところだった。
「死んだ、のか?それにしては………あ」
ジークフリードはシンクと同じ方向を向いていた。落下を続けるサザーランドと、都市を流れる川の間に赤黒い巨大扉が出現していた。サザーランドは仰向けの態勢で落下している。扉の存在に気づいていない。声を掛けようにも間に合わないことは明白だった。
サザーランドは無抵抗のまま、パックリと口を開いた扉に吸い込まれた。扉は彼を収納した後、黒の女と同様にその場から霧散した。残ったのは観客の静寂だけだった。
〖ククク〗
反射的に見上げる。先程と同じ場所に黒の女が浮かんでいた。腹部に視線をやるも傷を負った形跡はない。サザーランドの奇襲を何らかの方法で回避したのは明らかだった。
〖余興は終わりかの。奴はまだか〗
『…………』
沈黙だった。使者でさえも声を上げられない。
冒険者ランクSSSは人類の到達点であり、その戦力は一個大隊に匹敵すると言われている。まず1対1で敗北することはない。そんなことはあり得ないし、あってはならないことだった。
「彼は、サザーランドとやらは、死んだのか」
「わ、分かりません。ただ事態が収束するまでに戻ってくることはないと、思います」
サザーランドは扉の中に吸い込まれて、それっきりだった。まさか扉の向こうがマリス周辺に繋がっているとは思えないし、そもそも現世とは限らない。もう亡くなっている可能性が高いとシンクは見当をつけていた。
驚きや油断はあっただろう。それにしても呆気なさ過ぎた。まるでベテラン冒険者がゴブリンを殺すような手際だった。それが意味するところを想像すると震えが止まらない。
〖はぁ……ほんに貴様ら人類は仕様もない。こちらの要求を呑むふりして攻撃するとは何たる卑劣感よ。更に失敗したと分かれば黙る始末。救いようのない愚かさだ。万死に値する〗
黒の女が右手を挙げた。シンクは思わず身構えた。しかし彼女が振り下ろした先は別の方向だった。
ズドン!!!!!!!
「うわっ」「ぬっ!」
酷い揺れで立っていられなくなる。轟音で鼓膜がおかしくなる。シンクは耳を抑えながらその場にしゃがんだ。
揺れが収まるのを感じたシンクはおずおずと立ち上がった。周囲も彼と同じ動作をしていた。
「おい、は?マジかよ」
最初に気づいたのはアレックスだった。彼の視線をたどる。最初は何に驚いているのか分からなかった。何の変哲もない大地と空が見えるだけだ。
群衆のざわつきが増していくとともにようやく分かった。思い出したと言ってもいい。おかしいものは何もない。何もないのがおかしいのだ。
八角城壁がまた1つ破壊されていた。
ここに至っては誰もが確信に至る。彼女はホンモノだと。SSSランクを一蹴し、巨大城壁を一瞬で消し去ったのだから認めざるを得ない。
そんな彼女が今、マリスへ矛先を向けている。状況は最悪だった。
シンクは騎士団副団長の立場で考えた。いま己がすべきことは何か。イケダを探し出すことか。騎士団員を引き連れて市民を守ることか。政府に従ってマリスの治安を守ることか。どれも正解だとは思えなかった。
「おいごらぁ!!イケダはどこにいんだよ。ここに連れてこい!」
「お、おい、落ち着け。胸倉をつかむな。というか我に言われても困るぞ」
ナイト・オブ・ナイツのリーダーがジークフリードに掴みかかっていた。まるで自分の行動が民意であるかのような振舞いだった。
「やめろやケイン。そいつに八つ当たりしてもイケダは来ねえよ」
「だったらどうするんだよ!あの女にマリスを滅茶苦茶にされるぞ!!」
必死の形相だった。普段のヒトを小馬鹿にしたような態度は鳴りを潜めていた。シンクは初めてケインという男を見直した。
「レイ副団長。何かいい案はあるか?」
アレックスの問いに対し、シンクは首を横に振った。
「ひとまずは市民の避難を優先しましょう。出来るだけマリスから遠ざけるべきです」
群衆においても黒目黒髪探しが始まっている。氷魔法は使えないのかと問い質される者、黒の女の前に行ってこいと背中を押される者、俺が本物だと吹聴している者など、様々だった。暴力沙汰に発展しているグループも散見している。まずは群衆を落ち着かせて、その後に避難誘導する必要があった。
「お前1人でやっても仕方ねえだろ」
「ええ。ですから保安に協力する形を取ろうかと思うのですが―――」
〖1つ、言っておくが〗
黒の女の声だった。嫌な予感を覚えつつも耳を傾ける。
〖貴様らの命は妾の求め人と同等よ。奴がこの場に現れぬ限り、貴様らも都市外に出てはならぬ。もしも約を破った場合は1人残らず皆殺しだ。塵一つ残さぬ。また今より夜が明けるまでに奴が現れなくとも同様の処置を取る。貴様らが生き残る道は1つ。夜明けまでに奴をこの場に召喚することだ。例外はない。交渉も受け付けぬ。善処せよ。カカカカカ〗
『………………』
再びの沈黙だった。誰一人として声をあげられるものはいない。衝撃が全身を貫いていた。
鳥肌が立つ。まるでシンクの考えを先回りしたかのような宣言だった。そして思いつく限り最悪に近い展開とも言える。
果たして彼女の言葉を聞いたうえで逃亡を図る者は現れるだろうか。もしいるとすれば狂人か勇者に違いない。正常な判断能力を持っていれば、彼女の言葉が脅しではなく、また実行可能であることは想像に難くない。
「なんなんだよ、ったく。これどうなってんだよ……」
ケインは恨み言を漏らした。涙声だった。パーティランクBのリーダーをもってしても悲嘆にくれる状況だった。一般人なら猶更だろう。
シンクはジークフリードへ視線を送った。彼はシンクの視線に気づいたものの、目を合わせることなく大きく首を横に振った。
こんなとき団長ならどうするだろう。シンクは想像を働かせたが、明瞭な答えは出なかった。彼女ほどの傑物でも如何にもできないと思う反面、彼女ならば何らかの突破口を開くのではないかという仄かな期待もある。残念なのは彼女もまた登場人物から外れていることだった。
《ちょ、な、何するんですか!これは……です……》
《……から、貸しな……いよ……せ、使わないでしょ》
声がした。顔を上げる。脳を揺さぶられる感覚はなかった。つまり黒の女ではない。
ガサガサと何かがこすれる音が断続的に聞こえた後、コホンと咳払いの声が聞こえた。
《えー、マリス市民に告ぐ。私はベアトリーチェ。ベアトリーチェ・ロスゴールド。経済産業大臣の娘にしてクラブビーチェのオーナー》
「ビーチェ……?」
聞き覚えがあった。シンク達が偶に利用しているお店の名前だった。もちろんオーナーも知っている。しかし彼女が大臣の親族だとは思わなかった。そして何故彼女が喋っているのかもわからなかった。
《黒目黒髪の捜索は諦めなさい。この期に及んで出てこないのは、そういうことでしょう》
「そういうこととは、どういうことだ?」
「本当にマリスにいないか、もしくは出てこれない理由があるか。どっちにしろ夜明けまでには間に合わないって言ってんだろ」
アレックスの言葉に首肯する。イケダが朝までにやってくるとは思えなかった。
《然して私たちに残された道は1つ。必然の死。逃れられない絶望。天災は突然にやってくるわ。交渉の余地はない。逃げ道さえ塞がれた。ならばどうする》
『…………』
《私たちはいつだって、どんな困難にも立ち向かってきたでしょう。負けられない戦いに打ち勝ってきたから今があるの。今は続いている。私が、私たちが生きる限り続くわ。今を終わらせてはならない。少なくとも明日が平和だと確信できるまでは。さぁ、魔法が使える者は水上大橋に集まりなさい。人類が地上の最高位に立つ理由は、高度な知能と強固な協力関係を築けるからに他ならない。ヒトの力を見せつけてやりましょう》
「……………」
熱気、いや熱風を浴びた心地だった。
いつの間にか汗ばんでいた手で額をぬぐう。感化されたのは自分だけか、いやそうではないだろう。
水上大橋を見やる。
そこには赤い服に身を包んだ赤髪の女性と、黒に紛れる白銀髪が立っていた。
★★★★
ベアトリーチェは物心がついた頃から父親が苦手だった。いつもニコニコしており、間違ったことは1つも言わなかった。一方で何を考えているか分からないヒトだった。
外から見ると、仕事が出来て家庭も大事にする人物に思えただろう。確かに不満を感じることはなかった。一方で幸せを感じることも少なかった。今ならわかる。彼は人類が元来持つ暖かな感情が抜け落ちたヒトだった。
クラブ経営を始めたのも過去が色濃く影響していた。ベアトリーチェは多くの感情に触れ合いたいと思っていた。そしてその夢はかなった。
では、なぜ自分はここにいるのだろうと自問する。まるでマリスの実権を握る父親の窮地を救いたいがための行動だった。
果たして自らの命を懸ける価値があの男にあるのか。そもそも自分は父をどう思っているのか。そして隣の娘は何故自分についてきたのか。
「全然分かんないんだけど」
「なにが」
「あなたがここにいる理由とかよ」
セレスティナは1度だけ災厄の女を見上げた後、再びベアトリーチェへ視線を戻した。
「ここに来たら彼に会えると思った」
「彼って?」
「イケダ」
聞き覚えの無い名前だった。ただピンとくるものがあった。イケダとはセレスティナの探し人に違いない。
閃きは連鎖する。こんなことがあり得るのかと思った。一方でこれほどの美貌を持つ女性が探している人物なのだ、厄介事を抱えていてもおかしくないとも感じた。
「もしかしてだけど、災厄の女が身柄を要求しているヒトって、あなたの探し人なの?」
「うん。ほぼ確実だと思う」
「えぇ……そのヒト何をしたのよ」
セレスティナは首を横に振った。彼女と離れてから何かを仕出かしたようだ。果たして八角城壁を破壊するまでの恨みを買う行為などベアトリーチェには想像できなかった。
「そもそも……」
イケダの身柄を確保するためだけに、ここまで大事にする必要があったのだろうか。セレスティナのように地道に探す方法はとれなかったのか。マリス全体を巻き込んでの人探しなど常軌を逸している。
ベアトリーチェはかぶりを振った。そもそもヒトの視点で考えるのが間違っている。相手はヒトならざるもの、災厄なのだ。マリス市民のことなど歯牙にもかけない。イケダという男がマリスにいると知ったから、見つけるのに一番手っ取り早い方法を取った。ただそれだけだ。
「おい、ロスゴールドの娘!」
背後から自分を呼ぶ野太い声が聞こえた。振り返る。そこには3人の男と1体の魔物が立っていた。真ん中のスキンヘッドに声をかける。
「アレックス。あなた、魔法使えたっけ?」
「使えねえよ!そんなことよりお前なにしてんだ。死ぬ気か?親父に命令されたのか」
「いいえ、自分の意思よ。たまには表舞台に立つのも悪くないでしょう」
「そんな柄じゃねえだろ、ったく」
アレックスには冒険者時代にお世話になっていた。強面だが優しかった。このヒトが父親だったらと思うこともあった。今も自らを危険に晒しながら忠告しに来てくれたことに、仄かな温かさを感じた。
アレックスの隣にいる金髪の騎士が前に出てきた。ベアトリーチェは彼を見たことがあった。何度かお店に足を運んでくれているはずだ。ボボン王国第一騎士団の副団長と記憶している。
「単刀直入にお聞きします。何をするつもりですか」
「さっきの演説通りよ」
「魔法使いを集めて、黒の女と戦うのですか」
「そうよ」
副団長は呆れたように首を振った。
「バカな、あり得ない。SSSランクを一蹴し、八角城壁を難なく破壊した相手ですよ?勝てるわけがありません。そもそも魔法使いが集結するのを黙って見ているはずも――」
「では何故攻撃してこないのかしら」
副団長はハッとした表情で空を見上げた。ベアトリーチェも続く。
月を背にした災厄は、当初と寸分違わぬ位置でマリス市民を睥睨していた。動き出す気配はない。
「今までの言動から察せられるでしょう。彼女は明らかに私たちを軽視している。虫以下だと思っているかもしれない。彼女からしてみれば、虫が何匹集まったところで虫に過ぎず、警戒を覚える理由にはならない。勝機があるとしたらソコよ」
一抹の不安はあった。魔具を用いて呼びかけた時点で攻撃されるかもしれない。Sランク相当の自分では抵抗する間もなく死に絶える。だが災厄は動かなかった。ホッとすると同時に底冷えする恐ろしさを感じた。彼女はどこまで余力があるのだろう。
「あ」
とぼけた声はベアトリーチェの隣から発せられた。セレスティナの視線をたどる。その先に立っていたのは、緑肌の魔物だった。
「ストーカー」
「む」
全ての視線がオークに集中する。ストーカー呼ばわりされた彼は、狼狽する様子もなくセレスティナを見つめていた。
「やはり、そうか。どこか既視感があると思っていたが、貴様はアレだ。紅魔族領でイケダと行動を共にしていた女だな。容姿が変わっていたゆえ分からなかったぞ」
「彼はどこ」
「今はおらん。明日か2日後に帰還する予定だ」
瞬間、隣から異様な空気を感じた。思わず視線をやる。彼女はいつもの無表情だった。今のはなんだったのだろうと思いつつ、ベアトリーチェは副団長に問いかけた。
「災厄の探し人は彼のようね。オークの話だとリミットの明朝には間に合わない。さてどうしましょう。私を否定したということは、もちろん代替案はあるのでしょうね」
「…………それは」
「災厄に事実を話してみればいいだろ。1日や2日だったら待ってくれるかもしれない」
副団長の背後に隠れていたキツネ眼の男が話しかけてきた。なんだこいつはと思いつつも、彼の発言を吟味する。
「意味ないと思うけど」
「やってみなけりゃ分かんねえだろ」
「うーん、まぁいいでしょう。これ以上悪くはならないだろうし」
ベアトリーチェは胸ポケットから筒状のモノを取り出した。金属製で中が空洞になっている。それを口元にあてた。
《えー、黒の女性に尋ねます。あなたの探し人ですが、現在マリスにはいらっしゃらないようです。ただ数日中に帰還予定です。それまでお待ちいただくことは可能でしょうか》
〖可能だぞよ〗
《え……》
想定外の反応に素が出てしまう。そもそも返事があるとは思わなかった。今までの流れならば、無視されて終わりだろうと初めから諦めていた。
しかし喜びも束の間、災厄は逆接を用いて言葉をつづけた。
〖ただし。発言は撤回せぬ。言の葉には命が宿っておる。1度発した宣言は、己の身を呈してでも遵守する必要があるからに。必定、貴様らの命運も変わらん。朝焼けとともに都市を壊滅させよう。その後、朽ち果てた地であやつを待とうではないか。カカカカカ〗
首都マリスは沈黙で返すほかなかった。本当はどの市民も喚き騒いで逃げ出したかった。だがそれは叶わない。何故なら災厄が言ったからだ。1人でも逃げ出した者がいれば皆殺しにすると。自分だけが助かるために全市民を犠牲にするという、究極の利己的行動に出る者も流石にいなかった。
ベアトリーチェは魔具をしまいつつ後ろを振り返り、小さな声で「ほらね」と呟いた。キツネ眼の男はバツが悪そうに舌打ちをした。
「ベアトリーチェ様!」
聞き覚えのある声だった。視線を投げる。そこにいたのは、父の側近メイワーズだった。
「メイワーズ」
「ご助力に参りました。それと御父上からご伝言があります」
反射的に耳を近づける。メイワーズは聞こえるか聞こえないかの声量で話し出した。
「敵を退ける算段が付いた。ただし準備に時間を要する。夜明けまでには間に合わせる。よって余計な行動は控えてほしい。こちらで全て片を付ける、だそうです」
「そう……なの。分かったわ」
一気に体の力が抜ける。
朗報だ。喜ばしい報告に違いない。マリスひいてはダリヤの実権を握る人物が、もう大丈夫だと太鼓判を押したようなものだ。
必死に打開案を探っていたのだろう。今まで沈黙を保っていたのも理解できる。政府の機能は失われていなかったようだ。
だがベアトリーチェは複雑な思いを抱えていた。災厄へ立ち向かう際はとてつもない勇気が必要だった。自分の偉大なる決意が汚されたように思えた。
もちろん父に非はない。彼は成すべきことを成しただけだ。一方で積もり積もった恨みをぶちまけたい衝動に駆られる。あの男はいつだって家族を一番下に置いて考えるのだ。
「なんだおい、死人みたいな顔しやがって。目の前の現実以上の悲報はねえだろ」
アレックスが話しかけてきた。気だるげにメイワーズへ視線を送る。彼は小さく頷いた後、アレックス達に経済産業大臣の伝言を伝えた。皆の表情が見る見るうちに明るくなっていく。やはり父への信頼は厚いようだ。
メイワーズは単身乗り込んできたわけではなかった。彼の背後には多くの男女が集結していた。ほぼ全員がゆったりとした服を着用している。ベアトリーチェの呼びかけに応じた魔法使い達だった。
本来ならば彼らと共に災厄へ立ち向かうはずだった。彼らは父の話を聞いてどう思うだろうか。自分以上に大切な存在がいれば、一安心するかもしれない。だが自分と同じような立場なら、抱えてはいけない考えに思い悩むこととなるはずだ。
ふとセレスティナの様子が気になった。隣を見る。いない。周囲を見渡す。いた。アレックスと共に現れたオークと言葉を交わしていた。
「なんであなたがイケダと一緒にいるの」
「成り行きだ。貴様こそなぜイケダと別れたのだ」
「置いてかれた」
「む。そうだったのか。なるほど。確かに地味生活を好む奴にとって、貴様のような目立つ容姿と行動を共にするのは、苦痛以外の何物でもなかっただろう。果たして女性は1日で変わるとよく聞くが、貴様は変わり過ぎた。イケダが逃げ出した気持ちも分かる。率直に言って貴様と奴では釣り合わん」
あんたも十分目立つ容姿なんだけど、とベアトリーチェは口を挟もうとした。しかしその前にセレスティナが動いた。突如手元に火球を出現させ、無言のまま振りかぶったではないか。
「ぬおっ、おま、気が短すぎるぞ!」
「ちょっとティア、余計な騒動は―――」
オークと共にセレスティナを止めようとする。だが2人の足は、脳へ届いた声によって踏み出せなくなってしまった。
〖……あ?〗
ゾワッと悪寒が走る。この段階で災厄から何か発せられる展開は、決して喜ばしいものではなかった。
〖今の魔力は貴様か。白銀髪の…………白銀にその容姿……。いや、まさか…………そうか、ククク。なるほど、なるほどぉ。理解した。繋がったぞよ。全てはトランスだったか!〗
ベアトリーチェは何が何だかわからなかった。
ただ停滞していた時間が一気に加速する感覚だけはあった。
★★★★
〖僥倖が過ぎる。いや偶然では片づけられぬ。これこそ運命よの〗
陶酔したような声が脳に届きます。果たして彼女は何に気づいたのでしょうか。
〖当初の目的は奴の大切な存在を殺めることだった。だが諦めた。情報も極小なら居場所も分からぬ。そもそもあんな規格外の男と釣り合うものなどいるはずもない。仕方なしに本人を探し始め、この地に至った。だが何ということだろう。奴よりも先に貴様に出会えるとはの〗
「…………」
恐らくほとんどの人が彼女の言葉を理解できなかったでしょう。アレックスさんやシンクさんも眉間にしわを寄せています。
ですが私には分かります。私だけが理解できます。何故ならイケダさんと黒の女性の戦いを唯一観戦した者ですから。
あの時、黒の女性は去り際にこうおっしゃいました。「貴様の大切な存在を奪い、憎しみを生むことで、遥かなる高みへ導いてやる」と。
つまり、つまりです。黒の女性はどうしてか白銀髪の彼女――トランス氏――がイケダさんの大切な存在だと見抜き、当初の目的を果たそうというのです。
私はどうすればいいのでしょう。
思い悩んでいたところで、ベアトリーチェさんが一歩前に踏み出しました。口元に拡声機能の魔具を持っています。
《あなたは、夜明けとともに行動を開始すると言ったわ。まさか自身の発言を撤回するはずもないわよね?》
ベアトリーチェさんが黒の女性へ問いかけます。今の言葉から察するに、トランス氏が黒の女性から目を付けられたことに気づいたようです。流石の洞察力です。クラブのオーナーをやっているだけあります。
黒の女性は〖ククク…〗と小さく笑った後、話し始めました。
〖言葉をすり替えるなニンゲン。妾はこう言ったのだぞよ。【奴がこの場に現れぬ限り、貴様らも都市外に出てはならぬ。もしも約を破った場合は1人残らず皆殺しだ。塵一つ残さぬ。また今より夜が明けるまでに奴が現れなくとも同様の処置を取る】とな。行動を開始するのが夜明けとは一言も言っておらぬ〗
《それは……》
〖メインが奴の登場、もしくは皆殺しならば、オードブルも必要だろうて。なぁに安心しろ、貴様ら市民に手は出さぬ。まだの。そこの小娘を差し出すだけでよいぞ。カカカ〗
周囲を見渡します。状況の変化に戸惑いの色を浮かべるヒトが大半の中、安堵する者も散見されました。自身に危害が及ばないことを理解されたのでしょう。
シンク氏やアレックス氏も落ち着いた様子でした。トランス氏を知らなかったのです。当然の反応かもしれません。
一方でベアトリーチェさんだけはヒトリ狼狽していました。先程までの自信満々な様子は見る影もありません。黒の女性とトランス氏へ交互に視線をやっては舌打ちを繰り返しています。
「ティア」
ベアトリーチェさんがトランス氏へ呼びかけます。するとトランス氏は右手を胸の前に突き出しました。まるでこれ以上近付くなと示したように感じました。
「災厄とイケダの因縁は分からない。だけど彼女の洞察は間違いない。私と彼は知り合い。それ以上かもしれない。そして私には彼に対して負い目がある。もしもその審判が下されるというなら、私は逃げも隠れもしない」
「あなたは、何を言っているの?」
気のせいでしょうか。トランス氏が薄く笑ったように見えました。
「分からなくていい。これは私と彼の問題だから」
トランス氏が橋の中央を目指して一歩踏み出します。
正直に申して、私もわけが分かりません。ですが私はイケダさんの友人です。彼の知人が危ない目に遭うのを、黙ってみていることが出来るでしょうか。たとえ1度殺されかけた相手だとしてもです。
「おい。無抵抗で己が身を差し出す気か」
「抵抗はする。無駄かもしれないけど」
「無駄だと思うなら逃げろ」
「もし逃げたら、マリス市民の殺戮が早まるかもしれない。ベアトリーチェのお父さんが準備しているモノも間に合わないと思う。私は、私が助かるために多くのヒトを犠牲に出来るほど、強くないから」
思わず呻き声を上げてしまいます。彼女の言葉が本当ならば、逃げる手段は持ち合わせているようです。ただし使わない、使えない。
ならばと。足を震わせつつも提案してみます。
「分かった。であれば我も貴様と共に行こう。盾くらいにはなれると思うぞ」
「いらない」
死を覚悟して伝えた言葉が一蹴されました。多くの戸惑いとともに、少々の安堵を覚えてしまうのは罪でしょうか。
「その代わりに彼……イケダに伝言がある。もしもあなたが生き残ったら伝えて欲しい」
こちらに近付いてきて、ボソボソと言葉を紡ぎました。大した内容ではありませんでした。ただトランス氏とイケダさんにとっては大事な意味があるのでしょう。聞き終えた後に大きく頷きます。
トランス氏は私と1度目を合わせた後、再び橋の中央へ進み始めました。白銀色の髪をたなびかせながら歩く姿は、まるで絵画の中から出てきた深窓の令嬢のようにも映ります。ただただ綺麗です。オークの私でさえそう思うのですから、人間族は更に感情が揺さぶられていることでしょう。
文字通り人身御供です。彼女を止める者や助太刀する者は出て来ません。クラブではあれだけ人気を博していたのに、今の彼女はヒトリです。この光景は、今でも彼女が孤独であることに他なりません。
トランス氏は大橋の中央で止まり、空を見上げました。視線の先には黒の女性が浮かんでいます。
〖ククク。まさか無抵抗なんぞつまらぬ真似はするなよ。少しは楽しませてくれるな〗
「…………」
トランス氏が右腕を真っ直ぐ上にあげました。どうやら舌戦をする気はなく、先制攻撃を仕掛けるようです。
こうなってはどうすることも出来ません。両者の戦いを見守るだけです。トランス氏が黒の女性を倒せるとは思えません。ただもしかすると、耐えられる可能性はあります。リミットの夜明けまで耐え抜けば、経済産業大臣の秘策により生き残る可能性が出てきます。
トランス氏が右腕を振り下ろします。それと同時か少し早く、ファイヤーボールが黒の女性を襲いました。が、見えない壁のようなものに阻まれ、火球は消滅しました。
「え?」
思わず声を上げてしまいます。ファイヤーボールが通用しなかったことに驚いたわけではありません。その出所が原因でした。
トランス氏の足元に視線を送ります。何も変化がありません。つまりファイヤーボールを放ったのは、彼女ではないという事です。
次に右斜め前へ視線を移します。そこには真っ赤な魔法陣が現れていました。
奇抜な衣装に身を包んだ眼帯の女性が、コツコツと地面を鳴らしながら橋の上へ向かいます。
〖ククク………なんだ。この娘と一緒に死にたいのかの〗
女性はピタッと立ち止まり、例の魔具を口元に持っていきました。
《そんなわけないでしょう。でもね、自分の死を超える後悔がこの世には存在するのよ》
クラブ「ビーチェ」のオーナー、ベアトリーチェさんが立ち上がりました。
★★★★
橋の上に出来た影が、もう1つの影へ近づいていく。一方は動き、一方は動かない。それぞれの心情を表しているのかもしれないとベアトリーチェは思った。
立ち止まる。視線が合う。見上げることも見下ろすこともない。女性にしては高い部類に入るベアトリーチェと同程度の身長だった。
「何がしたいか分からない」
「キャストを守るのがオーナーの役目でしょう?」
「そういうのはいい。どうして?」
建前を一蹴されてしまった。彼女にはどんな状況でも真っすぐな言葉しか届かないのだと理解する。
「あなたは、自分が生まれた意味を考えたことがある?例えば王のもとに生まれたなら王になり、農民の子なら農家になる。それが生まれた意味かしら。私は違うと思う。私が生まれた意味は、私が決めることじゃない。他人の人生に関与して初めて意味が生まれてくると思うの」
セレスティナは無表情だった。それで構わないと思った。
「私はこの街が好き。この街の人達が好き。時々変な奴らが紛れ込んでくるけど、それも含めて好き。今の仕事もみんなの笑顔が見たいと思って始めた仕事。みんなを幸せにしたい。そこにはあなたも含まれているわ」
「生まれた意味が、死ぬ意味になったら、それこそ意味がない」
「1人より2人の方が死なないかもしれないでしょ?」
「そういう次元の話じゃないことは分かってるはず。あなたのそれはただの自己陶酔。もしくは破滅主義のなれの果て。ハッキリ言って無意味な行動」
「無意味じゃない。何故なら、私が私の意思で行動したから。もしもあなたを見捨てたら、今まで築いた意味を貶すことになる。私の生まれた意味。そうなったらもう、死んだも同然よ」
「生きること。それ自体に意味はある」
「違う。どう生きたか。何をしたか。意味は行動から見いだされる」
ベアトリーチェは、セレスティナが何を伝えたいのか気づいていた。生きてさえいれば、後悔さえも乗り越えてゆける。一時の熱で命を投げ捨ててはならない。決して。
だが本能が許さなかった。彼女の性根が未来よりも今を選んだ。ベアトリーチェにとって目の前の現実はあまりに無慈悲だった。何の罪もない1人の少女が無造作に命を奪われる姿を黙認出来なかった。
全くの他人だったらと思う。ここまでの熱情は無かったかもしれない。災厄が口にした「運命」という言葉が頭に浮かんだ。自分もまた渦中に含まれるのだろうか。
「………分かった。もういい。結局はあなたの人生。私にどうこうできるはずもない。勝手にすればいいと思う。ただ、これだけは言わせて」
視線を交わす。碧く大きな瞳だった。
ベアトリーチェは身構えた。客やキャストに酷い言葉を浴びせられた経験は少なくない。だが好ましい相手に傷つけられるのはいつだって嫌なものだ。
そんなことを考えていたからだろうか、次の言葉に反応が遅れてしまった。
「あなたの行動に理解を示すヒトはほとんどいない。誰もが眉を顰める。だからこそ私はあなたに伝えたい。ありがとうと。あなたと出会えて本当に良かった。あなたはとても、素敵な女性だと思う」
「…………」
相変わらずの無表情だった。ただ声に力がこもっていた。
ずるいと思った。こんなことを言われたら頑張れずにいられない。ベアトリーチェは今まで異性を対象に恋愛感情を持つことはあったが、同性は皆無だった。少しだけ、女性が女性を好きになる気持ちが分かった気がした。
〖おい。妾の慈悲深さに甘え過ぎではないかの〗
体内に声が響く。見上げると災厄が腕を組んでこちらを睨みつけていた。流石の彼女も痺れを切らしたようだ。確かに周りを無視して話し過ぎた。
〖全ては些末よ。貴様らの間でどんな言葉が交わされて、どんな感情が沸き上がろうとも、結末は変わらぬ。貴様らはここで散る。今の時間など無駄で無意味で無価値というもの〗
無駄かどうかを他人が判断すべきじゃない。そう反論してやりたかったが、どうせ些末なことだと一蹴されると思い、開きかけた口を閉じた。しかし災厄はその逡巡を見逃さなかった。
〖赤髪の女よ、納得できぬか。ならばこれで分かろうて〗
反応する間もなかった。目の前に岩のようなものが見えた。それは着実に自分の顔へ近づいていた。避けられない。止められない。
そして暗闇が訪れる。
「………………はっ、は?」
呼吸する。正確には呼吸ができた。死んでいない。それどころか傷一つ負っていなかった。ベアトリーチェは何が起きたか理解できなかった。
暗闇が晴れる。それと同時に魔法陣が眼に入った。不明瞭な色だ。周囲と同化している。
「不意打ちは、らしくない」
〖カカカ。妾を待たせた罰よ〗
合点がいく。自分は災厄の不意打ちを受けた。だがセレスティナが防いでくれたのだ。彼女の足元では闇魔法を示唆する黒の魔法陣が回転していた。
「ティア、ありがとう」
「いい。それより集中して」
頷く。勝てるとは思えない。撃退もかなわない。ただ反抗することは出来る。
反抗した先に何があるのか。今は分からない。分かるのは、結局何を選択しても後悔が生まれることだけだ。
「だったら前向きに後悔しましょう」
両手に炎を現出させる。先端が鋭利に尖っていた。
俗にいうファイヤーランスが、2本同時に災厄へ放たれた。
★★★★
『おお!!!』
都合何度目かの歓声が上がります。ベアトリーチェさんの魔法が災厄に当たるか、もしくは災厄の魔法をトランス氏が防ぐたびに周囲は色めき立っています。どちらかというとプラスの反応です。
まさか、という思いが強いのかもしれません。八角城壁を破壊し、SSSランクを一蹴した相手です。誰もが瞬殺されると思ったはずです。ところが周囲の予想に反して善戦しています。
「あの2人って、今日初めて共闘されたと思うんですけど。それにしては息が合っていますね」
善戦できている理由の1つに役割分担があります。ベアトリーチェさんが攻撃を担い、トランス氏が防御を担当しているようです。それぞれ火魔法、闇魔法を駆使しています。片方が片方を邪魔することなく、スムーズに攻防展開がなされています。シンクさんのおっしゃる通り、息が合っています。熟練のパーティだと言われても違和感はありません。
「いやいや。ロスゴールドの娘は分かる。元冒険者でランクAまで昇りつめた女だ。続けていたらランクSに到達していただろう。だがもう一方はなんだ?あの銀髪女は、いったい誰なんだ。希少な闇魔法使い。それも高位に違いねえ。あんな逸材が市井に埋もれてたのかよ」
トランス氏が自分の前に闇を作ります。そこに災厄の放った石礫が吸い込まれていきました。石礫が全てなくなった後、闇が霧散します。トランス氏とベアトリーチェさんは傷1つ負っていません。
『おお!』
闇魔法にもいくつか段階があります。トランス氏が用いた空間干渉系は、中級から上級に分類されます。
アレックス氏が言った通り、闇魔法の使い手は少ないです。その中でも中上級を扱えるものは限られます。トランス氏もまた非凡な力をお持ちのようです。
しかし、と私は思います。紅魔族領で初めて出会ったときは、ここまでの使い手には見えませんでした。強者の備える雰囲気も持ち合わせていなかったように思います。2度目に邂逅した際も同様です。
獣人国首都で何かがあったのでしょうか。もしくは容姿の変化が影響しているのかもしれません。いずれにせよ私の知る彼女ではなくなっていました。
「ファイヤーランス」
ベアトリーチェさんの周囲に槍上の炎が3本現れました。間を置かずに空へ飛び立ちます。中々の速さです。3本は直線軌道で災厄へ襲い掛かりました。
しかし災厄の肌を傷つけることはありませんでした。彼女に衝突する瞬間、見えない壁に阻まれ消失したのです。溶けるでも破壊でもありません。文字通り消えて無くなりました。いったいどんな原理なのでしょうか。
「互角、でしょうか」
「ああ。善戦してるのは間違いねえ」
シンクさんとアレックス氏の会話は周囲の気持ちを代弁しているかのようでした。
確かに拮抗しているように映ります。両陣営とも未だ無傷であり、攻め手に欠けるとも捉えられるでしょう。
ですがそれは表面の事象を掬っただけであり、実情は全く異なります。私には分かります。何故なら以前にも災厄の戦いを目の当たりにしたからです。
災厄は、黒の女性は、手心を加えています。少しも本気が感じられません。イケダさんと相対したときとは段近いです。
いったい災厄は何を考えているのでしょうか。彼女のしていることは明らかに遅延行為です。そして時間が経てば経つほど有利になるのは私たちの方なのです。災厄は自身の身を不利な状況に置こうとしているのでしょうか。それとも他に目論見があるのか。私のような卑しい豚では皆目見当もつきません。
〖もちろん気づいておろうな〗
いつだって災厄の言葉は唐突です。全員が一斉に胸や頭を押さえます。彼女の魔法言語は身体中に響くのです。
〖妾は遊んでおる。無慈悲なまでの暴力を抑え込んでいる。何故か。奴が現れるのではと思ったからの〗
突然の告白に周囲がざわつきます。やはり彼女は本気を出していませんでした。その事実を周知するということは、状況を変化させる前触れと言えるでしょう。
〖どの時代も変わらぬ。追い詰められてヒトは華を咲かす。妾は絶好の機会を用意したつもりだった。だがここまで至っても現れぬ。なれば、もう用は無い。恨むなら奴を選んだ自分自身を恨め〗
災厄の視線はトランス氏へ向いています。今のは彼女に向けて放った言葉なのでしょうか。奴はイケダさんのことだと思います。しかし選んだとはどういう意味でしょう。分かりません。分からないことだらけです。
〖雷鳴〗
ゴロゴロと音が鳴ったかと思えば、激音とともに天上より雷光が振り下ろされました。物凄い光、そして物凄い音です。もちろん向かう先はトランス氏でした。
彼女は自身とベアトリーチェさんの頭上を覆い隠すように、黒い靄を張り巡らせました。恐らく闇魔法による防衛手段でしょう。雷が黒の中へ消えていきます。今まで通りの光景です。
しかしここからが違いました。雷光が一向に止む気配が無いのです。一定間隔で空から降り注いでいます。必然的にトランス氏は防御魔法を解除できません。
どれ程の時間が経過したでしょうか。やっと雷光が止まりました。余波によって橋の上はボロボロになっています。水の中も大変なことになっているでしょう。多くの生き物が感電したに違いありません。
それでもトランス氏とベアトリーチェさんは無傷です。今まで通りの元気な姿を見せていました。
災厄の攻撃は不発に終わったという事でしょうか。事象だけを見ればそうかもしれません。ですが頭の中では否定を繰り返しています。
〖カカカ。安心したか愚民共。大言壮語を吐いてこの程度かと。否、否。そこの小娘が一番分かっておろうて〗
周囲を見渡します。ほとんど全員がポカンとした顔を浮かべていました。その中でシンクさんが「まさか……」と呟きました。どうやら彼は何かに気づいたようです。
〖空間に干渉する魔法は強力よ。眼に見える大多数を対処できようて。それゆえに魔力の消費も段違いよの。果たしてあと何度使用できるかな。一方で妾は半日程度余裕だぞよ。カカカカカ〗
「…………」
恐ろしい。改めてそう思いました。
あくまで災厄は楽しみながら殺そうとしています。まるで真綿で首を締めるように、徐々に絶望を味わわせるつもりです。恐らくは一撃で仕留めることも出来るのではと思います。
災厄は「あと何度」と言いました。20回、30回ではそんな言い方をしません。10回もしくは一桁と見ているのでしょう。そして災厄ほどの人物が魔力残存の見立てを外すとは思えませんでした。
「トランス……」
自身の両手を見つめます。私ではどうすることも出来ません。せめてイケダさんがいれば状況は変わったでしょうが、彼を召喚することさえ叶いません。
八方塞がりです。手詰まりです。矮小な豚は、ただただ女性2人が嬲られる姿を見つめることしか出来ませんでした。
〖雷鳴〗
そして再び、災厄の攻撃が始まりました。
★★★★
シンクは迷っていた。
彼は魔法が使えた。セレスティナとベアトリーチェに助力することは可能だった。だが出来るとやるは違う。気の向くままに動けるほど子供ではない。
シンクの性根は善であり、今すぐにでも2人を助けたかった。しかし2つの考えが彼の足を止めていた。
1つは無意味であること。今更自分程度の魔法使いが加勢したところで戦況は変わらない。的が1つ増えるだけだと確信していた。
もう1つは更に状況を悪化させる可能性があることだった。災厄は気分屋だ。シンクが加わることにより、「貴様らはせっかちよの。ならば少々時間を繰り上げて、全員と遊んでやろうではないか」などと言い出しても不思議ではない。夜明けを迎える前に全てが終わる。
感情と理性のせめぎ合いは後者に軍配が上がる。彼はボボン王国第一騎士団の副団長であり、一般よりはるかに責任が強い立場にある。また首都マリスの発展に貢献してきた都合、都市の瓦解を加速させるわけにはいかない。
たとえ、2人が犠牲になったとしても。
「すみません、少しよろしいですか」
声を掛けられた。シンクは反射的にそう思った。だが違った。彼の方から声をかけていた。無意識だった。
正面の男は怪訝な表情を浮かべている。確か冒険者ランクAの火魔法使いだったとシンクは記憶している。ベアトリーチェの呼び掛けで集結した魔法使いを束ねていたのが彼だった。
「貴殿は、ボボン王国の騎士か」
「はい。第一騎士団の副団長を務めているレイと申します。1つ提言させていただきたく。ロスゴールドさん達に加勢しませんか」
火魔法使いは更に顔をしかめた。シンクの提案を耳にした背後の魔法使いもざわついている。
「王国騎士の副団長ともあろうものが、とんだ愚策を口にする。これ以上災厄の気分を損ねて何が得られるというんだ」
「おっしゃる通り愚かな選択です。このまま黙っていた方が助かる可能性は高いでしょう」
「ならば」
「マリス全都民が2人の女性を見捨てたという記憶は残ります」
火魔法使いは苦悶の表情を浮かべた。彼も助けたいという気持ちはあるようだ。だがシンクと同様に理性が勝っていた。
「そのために……2人を助けるために全都民を危険に晒すことはできない。それに災厄の言を聞く限り、ベアトリーチェの隣にいる銀髪女性にも襲われる原因があるようだ。自業自得と捉えられても仕方ない。更に言えば、我々が彼女たちの戦いに巻き込まれたとも取れる」
「真相は分かりません。1つハッキリしているのは、ロスゴールドさんだけが白銀の彼女に助勢したということです。私たちは、このままでよいのでしょうか」
「考え方を改めるべきだ。"たった"2人の犠牲で済むのなら、それに越したことはない」
「ダリヤ商業国の理念は共存共栄です。隣人が困っていたら助ける。それだけのことがどうしてできないのでしょうか」
「政府の指示は夜明けまで待てだ。たとえ冒険者というならず者の集まりだとしても、政府の命令だけは背けない」
「その政府長官の娘が危機に晒されているのですよ。命令を待っていれば手遅れになります」
「知るか!ベアトリーチェは自ら死地に飛び込んだんだ。どうして我々が自殺志願者を助けねばならん」
橋の上では、2人を包む黒い膜に雷が吸い込まれていく様子が見て取れた。
白銀髪の闇魔法は健在だ。未だ直撃は無い。だが災厄の話には説得力があった。確かに空間を操る魔法は魔力消費が膨大であり、白銀髪の魔力が尽きるのは時間の問題だ。
2人を助ける義理など無い。1人は顔見知り程度、1人は話したこともない相手だ。積極的に動かなければならない理由はない。
そもそもシンクは他国の騎士団に所属している。これ以上の問答は内政干渉と捉えられる危険があった。
それでも彼は止まらなかった。止まれなかった。性と言っていい。
誰かを守るために騎士になった。救えた命があった。救えなかった人がいた。でもいつだって全力だった。
「マリスが、たった1人に屈するというのですか。誇り高きダリヤの民が」
「八角城壁を破壊した相手だぞ!理屈じゃねえんだよ」
「何もしないうちから諦めるのは違う。これだけの民がいて、これだけの魔法使いが集まりました。幾多の困難を乗り越えたからこそ今があります。我々は、闘えます」
「俺らに犬死しろって言ってんのか?他国の騎士様が」
「災厄の言葉を信じているのですか。本当に夜明けまで攻撃してこないとでも?自身の欲求を満たすためだけに八角城壁を壊した女ですよ」
「それは…………」
「命は大事です。それ以上に命の使い方が大切です。明日死んでもおかしくない世界で、国のため誰かのために立ち上がることへ何を躊躇することがあるでしょうか」
「…………」
もしかしたら自分は不要な犠牲を生み出そうとしているのかもしれない。常に不安と恐怖が襲い掛かってくる。それと同時に沈黙を否定した己自身に安堵を覚えていた。
《………いい》
不意に聞こえた声が、魔具から発せられたものだと気づくのに時間はかからなかった。
今この時点で拡声型の魔具を使用するとしたら1人、2人しかいない。陰のある声色は銀髪の少女を指し示していた。
《もう、いい》
《なにが》
《もう無理だから。あなたは避難して》
少女はもう一方の女性へ話しかけている。周囲へ聞かせる意図が分からない。そもそも意図など無いのだろう。恐らく攻防の衝撃で誤作動でも起こしたのだと、シンクは見当をつけた。
《魔力が尽きそうなの?》
《うん。だから早く逃げて》
《だったら次は私の火魔法で守って見せるわ》
《火魔法は攻撃特化。防御は期待できない。戯言はいいから早く》
2人の姿は黒い膜に包まれており、シンクからは確認できなかった。その膜も限界が近づいている。白銀髪本人が言うのだから間違いない。そもそも幾度となく災厄の攻撃を防いでいたのがおかしいのだ。よく持った方だと言える。
《私は、ここに残るわ》
《どうして》
《なんとなく》
《なんとなくで死なれたら堪らない》
《んー、じゃあこうしましょう》
一時的に雷撃が途切れる。それと同時に黒い膜は霧散し、2人の姿が目視できた。
だがそれも長くは続かなかった。再び見えなくなった。雷撃が再開されたわけではない。黒い膜で包まれているわけでもない。
球体の火炎、いわゆるファイヤーボールが現れたのだ。それだけならまだ理解に及ぶ。シンクを驚かせたのはその大きさだった。成人男性数人分の直径はあるだろう。火球の陰になって2人の姿が見えなくなる程だった。
火球は一直線に災厄へ飛んでいった。流石に避けるかと思ったが、災厄はその場から一歩も動かなかった。そして直撃。全身が火の玉に包まれる。数秒が経過して火炎が霧散した。災厄は何事も無かったかのように空中で浮かんでいる。
続けざまに小爆発が災厄の周囲で引き起こされる。爆発音は途切れない。生身のニンゲンだったら身体が四散しているだろう。
今度は青白い炎が蛇のように災厄へ纏わりつく。炎の色からして明らかに上級魔法だった。それも希少部類に入るはずだ。少なくともシンクは初見の魔法だった。
火炎の攻勢は止まらない。ドラゴンの形をした炎が災厄を飲み込んだかと思えば、熱光線が縦横無尽に災厄へ向けて照射される。まさに上級火炎魔法のオンパレードだった。
だがしかし。
〖ほう、ほうほう。ニンゲンにしてはやるではないか。いずれも高位の魔法である上に、魔力操作も達者よの。これほどの火炎系魔法使いが市井に埋もれるとはな。だが。だが残念。貴様が相対している相手は人外ぞ。ヒトの範疇にある限り、傷をつける事すら能わん。ああ、そうさな、ただ妾を驚かせたのは事実だ。その褒美は与えよう。貴様もトランスの娘と共に葬り去ってくれようか。カカカカカ!〗
災厄は健在だった。本人の言葉通り、傷一つ負っていないように見える。シンクは信じられないという気持ちと同時に、どこかで納得している部分もあった。やはり無理だったかと。
《ふ、ふふ。通用しないと思ったけど、身体に当てる事すら叶わないとはね。まぁいいわ。ティア、これであなたと同じ立場になった》
《…………》
ベアトリーチェが敢えて全力の火魔法を使用した理由は、誰の目から見ても明らかだった。
彼女の真意は分からない。白銀の少女に同情しただけかもしれない。
事実として彼女は、白銀の少女と生死を共にする道を選んだ。その決断には皆の心を揺さぶる何かが秘められていた。
《同じじゃない》
《は?え、なにを……》
シンクのいる位置からだと2人の表情を確認することはできない。ただ一方が一方へ近づくのは見て取れた。そして接近を許した一方が、突如消えた。
「え……」
橋の上に残された影は1つ。相変わらず顔は分からない。だが髪の色は遠目でも視認できる。白銀髪が風でなびくのが映った。
シンクだけではない。周囲も動揺でざわついている。一体何が起きたというのか。ベアトリーチェはどこに行ったのか。
答えは意外な方向から出てきた。
〖ククク。転移系まで使えるか。流石トランスと言ったところかの。先祖に負けず劣らずではないか。初めから使用していれば、貴様だけでも逃げられたものを。その自己犠牲に免じて赤髪を始末するのは後にしてやろう。妾の慈悲深さに咽び泣くがよい。カカカ〗
「転移だと?あいつヤバ過ぎだろ」
希少な闇魔法、それも転移系は滅多にお目にかかれない。冒険者ランクで言うとA以上は確実だろう。かくいうシンクも目にしたのは初めてだった。
白銀髪がベアトリーチェをどこかへ転移させたのは分かった。その意図も察するのは容易い。シンクを混乱されたのは、災厄の「貴様だけでも逃げられた」という言葉だった。
橋の上に立つ少女は、初めから逃げる手段を持ち合わせていた。だが行使しなかった。殺されるのを分かっていて、自ら身体を差し出した。それは何故か。
何故かではない。明白だ。被害を最小限に抑えるためだ。彼女が逃亡していた世界を想像すれば分かりやすい。災厄は白銀髪が逃げたことに腹を立て、夜明けまで待つという約束を反故し、マリスを火の海に変えていた。少なくともそれに近い結果は招いただろうと予測できる。
「………っと、どきなさいよ!」
意思のある声だった。振り返る。立ち並ぶ群衆をかき分けて、1人の女性が近づいてくるのが見えた。特徴的な服装と容貌、そして髪色は渦中の人物に間違いなかった。
「ベアトリー―———」
魔法集団を率いるランクAの火魔法使いが声を掛けようとする。しかし彼女は全員を無視して、橋へ戻ろうとしていた。
「おい待て。落ち着け」
「ちょ……離しなさいよ!」
それを冒険者ギルドのアレックスが止めた。ベアトリーチェの右腕をシッカリ掴んでいる。もがいで外そうとするもビクともしない。
「あの銀髪娘がお前を移動させた意味は分かってんだろ?だったらここで大人しくしていろ」
「いいから、離しなさい!火魔法で焼くわよ」
「通用しなかっただろうが、お前の火魔法は!行って何ができる?何をしてやれる?今のお前は自殺志願者にしか見えねえよ」
「うっさいわね……それの何が悪いの?あんた達みたいに、誰かが動くのを待って、誰かが助けてくれるのを信じて、そんな人生まっぴらごめんだわ。生きるのと生かされるのは違う。私は生きる方を選ぶ」
「意味分からんこと言うな。お前の親父が、ダリヤの頭が、夜明けまで待てば助かるっつってんだ。無駄に災厄を煽るのはよせ」
「だったらティアはどうなるの?」
「それは……」
「………数十万を助けるために1人を犠牲にする。功利主義とも呼べるその決断は、ハッキリ言って正しい。反論の余地はない。それに災厄の言葉を信じるなら、ティアには襲われる原因があるようだし。そのうえで言わせてもらうわ。だからなに?と」
誰もが彼女の言葉に耳を傾けていた。魔法使いも冒険者も一般市民も。
「いつだってそう。あなた達は関わらなくていい理由を探し、それを必死に振りかざして自分の利益を守っているだけ。くだらない。それで得られたものにどんな価値があるというの?ねぇ……誰かを助けるために、理由なんて必要ないでしょ。私たちが今ここで生きていられるのは、他人と他人が助け合った結果よ。たかが1人?いいえ。たった1人!たった1人も助けられないで、何が世界第二位の都市よ!滅ぼされるのも当然の報いだわ」
『…………』
沈黙が広がる。ベアトリーチェの言葉を受け入れたというよりは、何と言っていいか分からない空気に感じた。
シンクは心の中で彼女の発した言葉を反芻していた。誰かを助けるために、理由なんて必要ない。理由は必要ない。
果たしてそうだろうか。疑問を呈する自分がいる。騎士団の副団長を務める彼は、理由が無ければヒトは動かないことを知っていた。他人のために労力を払うことを極端に嫌う民衆は大勢いる。見返りがあったとしても動かない者もいる。総じてヒトは他人のために頑張らない。
「…………」
掌に視線を落とす。汗が滲み出ていた。何の汗か。分かっている。感情を押し殺そうとしているのだ。
理性が警鐘を鳴らしている。その音は次第に大きくなり、ベアトリーチェの語りを聞いた今では頭痛を覚える程の大音量だった。
理性は彼女を拒絶した。だが感情は彼女を歓迎した。そして今、感情が理性を上回った。
「ちっ!もういいわよ。勝手にやらせてもらうから!」
沈黙でしか返せない群衆に呆れを覚えたベアトリーチェは、徐に頭上へ炎の球を数個生み出した。メラメラと燃える炎は彼女の心を表しているようだった。
「おい、だからやめろって。俺らまで危険に晒す気か!」
「うっさい!こうなったら――――」
シンクは怒髪冠を衝く彼女の左腕を掴んだ。一瞬だけぎょっとした視線を向けてきたが、彼だと分かった途端、睨む瞳に力が込められた。
「あなたまで私の邪魔をするというの」
「いいえ」
「え?」
予想外の返答だったのだろう。ベアトリーチェは戸惑いの表情を浮かべた。シンクは彼女の腕をつかんだまま、普段から言いなれている言葉を紡いだ。
「風の鼓動よ、世界に力を与えよ。アドウィンド」
上空に風が舞う。風はベアトリーチェのファイヤーボールに纏わりつき、大きさを2倍まで膨れ上がらせた。いわゆる風系補助魔法による援護だった。
「ちょ、何やってんだ副団長!」
声を荒げるアレックスに対して、シンクは落ち着いたトーンで返した。
「ボボン王国の騎士である私は、今の私を批判しています。民を危険に晒すような真似はしてはならない。他国であれば尚更なことだと。ですが、最後に私を動かすのは"わたくし"です。私は、私の正義のために戦います」
「お前もかよ……」
風魔法により巨大化したファイヤーボール数個が災厄へ放たれる。例の如く避ける様子はない。そして衝突。一瞬だけ姿が見えなくなるものの、数秒後には五体満足の様子が見て取れた。
〖カカカ。かゆいぞよ。その程度——〗
災厄の顔付近で三度爆発が起こる。火属性のフレア魔法だった。反射的にベアトリーチェへ視線を送る。彼女も驚いた表情をしていた。
ベアトリーチェではない。もちろんシンク自身でもない。では誰が災厄へ追撃したのか。まさかと思いつつ振り返る。そこには赤い魔法陣の上に立つ、冒険者ランクAの火魔法使いがいた。
「あー、最悪だ。これ完全にA級戦犯だろ」
「フォイス、あなた」
「男だったら持ってんだよなぁ、英雄への憧れってやつ。それ引きずり出されたらもう、やるしかないわな」
フォイスと呼ばれた火魔法使いは、諦めたような表情で笑っていた。彼もシンクと同様の葛藤を得て、それでもなお一歩踏み出したようだ。
再び頭上で爆音が走る。火魔法だけではない。水魔法、土魔法、風魔法が入り乱れて災厄を集中砲火していた。
「なっ……」
★★★★
レイ副団長、フォイス代理指揮官に続いて、指揮官の背後に控えていた魔法使い達まで災厄に攻撃を仕掛ける様子を見たアレックスは、空いた口がふさがらなかった。
彼らの気持ちが分からないわけではない。少女1人を犠牲にするという決断は度し難い。救う手段があるのなら救うべきだ。
しかしそのためにマリス都民を危険に晒していいという事にはならない。むしろ一番の悪手であり、夜明けを待つ前に全滅する恐れもある。
分かっていながら止まらない。それが若さと言えばそれまでだが、今回ばかりは我慢してほしかった。我慢しなければならなかった。
アレックスは一縷の望みにかけて強く願った。どうか通用してくれと。倒すまではいかずとも、せめて傷を負わせることが出来たら、希望は潰えない。
火、水、土、風の四大元素による波状攻撃が治まる。未だ災厄の姿は見えない。
しかしこちらが期待を覚える前に例の声が届いてしまった。
〖ほんにニンゲンは愚かな生き物よ。刹那的で思慮が浅い。己の行動でどんな事態を招くか。分からぬはずがあるまい。妾を落とせると思ったか?たかが低級冒険者の集まりで。片腹痛いぞよ。カカカ〗
「ぐっ……」
奥歯を噛み締める。やはり無理だった。普通のやり方で如何こうできる相手ではないのだ、あの化物は。
もちろん長い人生、1度や2度苦境に陥ったこともある。命の危険に晒されたことだって少なくない。だが冒険者時代、その後管理側に回ってからも、あんな規格外に遭遇した試しは無かった。
文字通り災厄であり、天災なのだ。ヒトの対処できる領分を超えている。
〖ふむ。ただの、その勇気だけは認めよう。圧倒的な武を見せつけられてなお歯向かう姿は、向こう見ずでありつつも、ある種の感動さえ覚える。よって褒美を与えるぞよ。滅多にお目にかかれぬ妾の隠し球ぞ。文字通りな!〗
白い。アレックスが最初に抱いた感想はそれだけだった。
災厄の目の前に白い球が出現した。雷弾の比ではない大きさだ。直径は10mを優に超えている。
白球が放たれる。向かう先は魔法使い集団、つまりアレックス達がいる地点だった。
「ちっ!シールドを目前に張る。重ね掛けでいい。厚みを持たせろ!」
フォイス代理指揮官の命令に従い、魔法使い達が次々に魔法を唱える。レイ副団長やベアトリーチェも続いた。
僅かに白っぽい透明の壁が構築される。白球の直径を覆い尽くす大きさだった。その壁が断続的に光り輝いている。重ね掛けの効果だった。
白球がシールドに接触した。じりじりと押し込まれ、やがては突き破られる。アレックス含む全員が白に包まれて、この世界から消え去る。
そんな未来を想像していたアレックスだったが、白球は呆気なく目の前で霧散した。それとともにシールドも開放される。後に残ったのは無傷の冒険者陣営だった。
「あ?」
安心よりも先に疑念が頭をよぎった。あまりに脆すぎる。今まで災厄がしてきたことを考えたら、こんな結末はあり得ない。
それとも災厄の力を高く見積もり過ぎていたのだろうか。マリスの魔法使いが集結すれば、問題なく対処できる相手だったのか。
「なっ、これは……」
「うそでしょ」
振り返る。レイ副団長とベアトリーチェが両の掌に視線を落としていた。
災厄の攻撃を完全に防いだのだ。喜んでもいい状況に思える。だが顔色はすこぶる悪かった。
「どうした。何があった?」
レイ副団長は一瞬だけ言おうか言わまいか逡巡する様子を見せたものの、うつろな瞳でポツリと呟いた。
「ま、魔力が、無くなっているんです」
「は?」
「かなりの余裕があったはずなんです。なのに一瞬で枯渇した。わけが、わからない」
「…………なるほど。これが隠し玉ね。最悪だわ」
混乱するレイ副団長に対し、ベアトリーチェは得心がいった様子だった。アレックスは視線で続きを促した。
「災厄が放った白い球、あれは攻撃じゃない。干渉・吸収系の魔法なのよ。つまりあの白い球は、接触した物体の魔力を吸収する効果があるのだと思う」
「接触って。ボク達は別に触れて………まさか」
「私たちが張ったシールド。あれを介して魔力を奪われたと考えるのが妥当ね」
「ありえない」
レイ副団長の言葉が全てだった。あり得ない。そんな魔法が存在すること自体、聞いた試しが無かった。
そもそも物体から魔力を吸収する魔法というのも伝承でしか残っていない。それも信憑性の薄い列伝だ。もちろん冒険者ギルドでは未確認の魔法だった。
更に非現実的なのは、魔法を介して魔力を略奪するというやり方だ。直接術者に触れるならまだしも、遠隔で魔力に干渉するという手法は、到底信じられるものではない。
常識が通じる相手ではない。そんなことは分かっていたはずなのに、こうも想像を超えられては対策の仕様がなかった。
〖カカカ。だから言ったであろう、遊んでやると。妾はいつでも貴様らを無力化できた。全ては余興、暇つぶしよの。絶望したか?今更遅いわ!カカカカカ〗
アレックスは周囲を見渡した。魔法使い達は軒並み暗い表情を浮かべていた。
シールドは基礎魔法に分類されており、どの魔法使いも初等教育で学んでいる。つまり魔法使いを名乗るそのほとんどがシールドを使用できる。
「全滅……」
災厄が放った白い球へ対抗するために、魔法部隊全員でシールドを構築した。強固な壁を作ったはずだった。実際は災厄の掌の上で踊っていただけだ。
〖危機管理がなっておらんのう。魔法使いを一つ所に集めるとは愚の骨頂よ。呆れてものも言えぬ。まぁ分散していればどうにかなった問題でもないがの。カカカカ。では次こそ本物の攻撃魔法を食らわせようか。防げるか?魔力を失った状況で。やってみるがよい!〗
「ぐぅ………」
アレックスは苦りきった表情で臍を嚙むほかなかった。
★★★★
マリスを一望できる展望台に彼らはいた。
「どうだ?」
「………やはり駄目です。測定不能と出ます」
災厄の発言は的確ではなかった。実際は魔法部隊、とりわけ冒険者ランクS・Aのパーティは別動隊として鳴りを潜めていた。彼らはロスゴールド大臣の指示のもと動いていた。
「どちらもか。魔力量も、使用可能魔法も」
「はい。沈黙したままです」
展望台に控える彼らの役目は災厄の戦力把握だった。冒険者ギルドから特例で拝借した伝説級魔具を災厄に使用した。しかし結果は芳しいものではなかった。彼女の魔力量、並びに使用可能魔法いずれも把握することができなかった。
「どうされますか」
「ギルドには魔具の不具合を報告。大臣は何と言っている?」
「静観せよと」
パーティを率いる男は眉間に皺を寄せた。ロスゴールド大臣の指示はつまるところ、彼らを見殺しにしろと言っているようなものだった。
大臣の判断に間違いはない。現状の反抗作戦は死に直結する。S・Aランクの別動隊が束になって掛かったところで撃退できるとは思えない。
激情に流されて手を出してしまった側にも原因はある。ベアトリーチェも現地の魔法部隊も、自ら攻撃を加えなければ標的に数えられなかったはずだ。白銀の少女1人の犠牲で済んだ。あとは夜明けまで待機すれば、大臣の策が発動していた。
誰が悪いのか。決まっている。災厄の彼女だ。しかし災厄から最悪を引き寄せるのはまた違う話だった。
「どうされますか」
「どうもしない。大臣が静観しろと言っているんだ。静かにしているさ」
「しかし……」
「しかしじゃない。見ただろう?聞いただろう?奴は規格外だ。俺たちの手に負える相手じゃない。個で動くことに何の意味もない以上、御上の指示に従うほかあるまい」
パーティを率いる男はSランクだった。今話している相手はAランクだ。並みの魔物相手なら瞬殺できるレベルである。それでもなお、手に負える相手ではないと断言した。
Sランクだからこそ分かることもある。災厄は、ランク制度の範疇にある者では太刀打ちできない領域にいる。それこそ災厄並みの規格外が必要だ。今のマリスでは、該当する人物は思い浮かばなかった。
男は険しい表情を浮かべたまま、災厄の方向を見つめた。
そこでは今まさに、十数メートルに及ぶ巨大な紫の弾が、地上の魔法使い陣営へ放たれるところだった。
★★★★
周囲が阿鼻叫喚の巷と化す中、私は1人呆然と立ち尽くしていました。
ハッキリ言って訳が分かりません。紫の女性が突然現れたのもそうですし、イケダさんの知り合いが標的になったのもそうです。ベアトリーチェさんとシンクさんの皆を巻き込む暴挙はもちろん、それに続いた冒険者たちもです。全くもって意味不明です。
そして一番訳が分からないのは、ほぼ無関係の私まで災厄の餌食になろうとしているところです。彼女が生み出した雷弾の大きさから考えると、確実に私は犠牲の範疇に入ります。というよりも中心です。いつの間にかそのような立ち位置を取っていました。
何故ノコノコとシンクさんの後について行ったのでしょう。悔やまれるばかりです。この状況を生み出した原因の1つは彼に違いありません。
まさかシンクさんが倫理よりも道徳を優先する人だとは思いませんでした。数十万の命ではなくその他1人を取るとは恐ろしい男です。ハッキリ言って引いています。彼のような考えの持ち主が国を亡ぼすことになるのでしょう。今一度交友関係の見直しを図らなければいけません。
そんなことを考えている場合ではありませんでした。これも現実逃避の一部でしょうか。
お隣では、これまた無関係のアレックス氏がしきりに避難を呼びかけています。災厄の標的となった魔法使い集団以外のその他大勢へ、この場から立ち去るよう大声を出していました。本来ならば彼も避難する側のニンゲンです。だというのに他人を優先する行為は、彼の人間性がいかに素晴らしいかを物語っています。極限状態で利他的行動をするヒトは信用に値します。
一方で魔法使い集団の中には、大勢に紛れて逃げ出す者が散見されました。彼らの行動は理解できます。誰も死にたくありません。しかし災厄ほどの人物が逃げ出したネズミを見逃すでしょうか。あり得ないと思います。一度殺すと言った以上、殺します。彼女はそういう人物です。彼らの足搔きは無駄に過ぎません。
シンクさんに視線を送ります。彼は絶望の表情を浮かべながら項垂れていました。まるで悲劇の主人公にでもなったかのような態度です。ぶん殴ってやりたいところですが、状況が状況です。無視するほかありません。
ベアトリーチェさんは閉眼したまま微動だにしていませんでした。彼女もまた、災厄から最悪を招いた人物の1人です。このまま死ねば、シンクさんと2人で歴史に名を残すことになるでしょう。マリスに破滅を招いた者として。
〖カカカ。死ぬがよい〗
そして遂に、雷の弾が紫女性より発射されました。巨大です。今までで一番大きいです。逃げる気力を失わせる迫力です。
私は、私自身にも腹を立てています。いくらでも逃げだす機会はありました。だのに何故この場にとどまっているのでしょうか。分かりません。
いや分かっています。私は諦めたのです。紫の彼女を目にした瞬間に、もう終わりだと。何をどう転んでもマリスは壊滅的な被害をこうむり、人的被害も恐ろしい数字を叩きだします。彼女からは逃れられないのです。
諦めた私に、諦めなかったシンクさん達を糾弾する権利はありません。だから口には出しません。心の中だけで留めているのです。もしかしたら、彼ら以上に罪深いのは、早い段階で諦めた私達かもしれません。
人類の叫び声が耳から耳へ通り抜けていきます。人生を回顧するヒマも与えられませんでした。
雷弾が近づいてきます。シールドが張られる気配はありません。完全に直撃コースです。
その瞬間です。目の前が真っ暗になりました。死の訪れにしては少々早い気がします。ですがそんなものかもしれません。体感速度と実際の速さは違うと聞きますし。
違和感を覚えたのは耳でした。変わらず周囲の叫喚が聞こえてきます。死後の世界も皆さんと一緒なのでしょうか。そんなはずはないと思います。そうなると考えられるのは1つです。
「ティア……」
ベアトリーチェさんの呟きが全てでした。
この黒は、彼女の黒です。私がイケダさんと初めて出会ったときに隣にいた女性。今や絶世の美女に変貌を遂げた謎深き白銀髪の少女。トランス氏が我々を守ってくださったのです。
「マジかよ」
アレックス氏に同意です。本当にマジかよです。介入してくれたのもそうですが、災厄に負けず劣らずの巨大魔法です。雷弾を余裕で包み込むほどの真っ黒な空間が目の前に展開されています。
出会った当初は地味な見た目の火魔法使いとしか思いませんでした。今や異次元な容姿のS級闇魔法使いです。ここまでヒトは変われるものなのでしょうか。
周囲の反応も様々でした。未だ叫び声をあげている者もいれば、閉眼して祈りをささげている者、何が起きたか分からず狼狽している者、ひとまず助かったことに安堵している者など。
目の前から闇が消え始めます。もちろん雷弾の姿はありません。しかしその代わりに、白い残滓のようなものが目に映りました。白は黒と混ざり合いながら空に飲み込まれていきました。
〖カカカ。ほんに貴様らは既定路線から外れぬ行動ばかりよの。トランスぅ、貴様の魔力も空にしてやったわ。時間の問題ではあったが、これ以上の横やりは面倒が過ぎる故に。カカカ。これで正真正銘、終わりよの〗
「なっ………」
なんということでしょう。開いた口がふさがりません。私達が一喜一憂する間に、災厄は未来を絶望で塗り固める作業をしていました。
私のような理解足らずでも、災厄が何をしたか分かりました。彼女は、トランス氏が空間系闇魔法を使用するのを見越して、雷魔法に吸収系魔法を重ねていたのです。シンクさん達の魔力を奪った白い球です。
つまりトランス氏の魔力も失われたという事です。もう誰も守ってくれません。文字通り終わりです。
「次元が違い過ぎる」
決してケンカを売っていい相手ではなかったのです。相手の言いなりになってさえ言えば、被害は最小に抑えられたはずです。
分類するならば、彼女は神側の存在です。いわゆる創造主です。生まれたばかりの赤子は親の庇護無しに生きられるはずもなく、親よりも優位に立つことなど不可能なのです。
私たちはもう、おしまいです。
★★★★
変えられると思っていた。
強い意志と確かな実力があれば、どんな世界でも自分に寄り添ってくれると信じていた。
シンクには1つだけ苦い過去があった。今よりももっと職位が低い時期、上司の命令に忠実に従った結果、1人を女の子を死なせてしまっていた。不慮の事故として片づけられた。誰もシンクを責めなかった。上も早く切り替えろと言ってきた。
だがシンクだけは自分自身を責めた。助けられた命だった。指示から少し逸脱するだけで命を救えた。だがやらなかった。何故か。命令に従うのが騎士の務めだと思っていたからだ。
そこから彼は変わった。何よりもまず人命を優先するようになった。多少の命令違反を犯しても、それ以上の功績を上げてきた。実力で自分の行動を正当化してきた。その結果、栄えある第一騎士団の副団長の座まで上り詰めることが出来た。シンクは自分が間違っていないことを確信していた。
だが目の前の現実は、今までの彼を否定しているかのようであった。
抱え込むように両腕を激しく擦る。異様に寒かった。死を目前にして身体が拒否反応を起こしたのだろう。吐く息までも白を帯びていた。
〖カカカ。トランスよ、貴様はそこで見ているがよい。今よりの死は貴様を大いに苦しめるだろう。その責苦はやがて奴に届き、後の世界で妾を大いに楽しませてくれようて。そして烏合の諸君。残念ながらお主らの命はここで潰える。逃げ出した者も例外に非ず。しかしながら妾という強大な相手に立ち向かった姿勢は誇ってよいぞ。誇りを胸に、今生を散れ〗
アレックスの退避誘導により周囲から群衆は消え、大橋の手前地点であるこの場には、烏合の衆と呼ばれた魔法部隊のみ残っていた。彼らは一様に負の感情を露わにしていた。一時の熱情で災厄に攻撃を仕掛けた過去を後悔しているに違いない。
シンクも例外ではなかった。彼も後悔を覚えていた。シンクは自分が魔法部隊の背中を後押しする一端を担ったことを自覚していた。あの時はそうするのが最善だと思っていた。しかし災厄は彼の予想を遥かに超える実力を示してきた。
だとすれば白銀の少女を見捨てる選択が正しかったのか。被害を最小に抑えると言う意味では正解だろう。最大多数の最大幸福を考える上でも間違っていない。
無理だ、とシンクは自答する。どの世界線でも自分は同じ決断を下していたはずだ。何故ならそれが彼の原動力だからだ。根幹と言ってもいい。世間から見たら間違っているとしても、シンクにとっては正しい行いだった。
後悔はしている。ただし少女を助けようとした意思に対してではない。もっと自分に力があれば、もっと上手いやり方があれば、状況は変わっていたはずだ。悔やまれる。それを取り戻す機会は、恐らくやってこない。
ふと隣へ視線を送った。シンクと立場を同じにする女性が立っていた。ベアトリーチェは閉眼しつつも、その閉じられた瞳から液体が流れ出ていた。頬を伝い、地面へぽたりぽたり落ちていく。
死に対する悲しみか、理不尽な力に対する怒りか、結局誰も助けられなかった後悔か。シンクには彼女の涙の意味を推し量ることは出来なかった。
〖カカカ。カカカカカ!〗
災厄が頭上に紫の球を生み出した。バチバチと雷を帯びたそれは徐々に体積を増し、最終的には先程と同じ大きさまで膨れ上がった。魔法部隊は余裕で飲み込まれる。
ここに至っては挽回の余地など無い。最早シンクに出来ることは審判が下されるのを待つだけだった。
願わくば両親、団長のクラリス、そしてセリーヌに会いたかった。お世話になった全員に感謝の言葉を伝えたかった。迷惑をかけた1人1人に謝罪したかった。しかしそれは叶わない。出来ることはない。何も。
空を見上げる。出来るだけ首を傾ける。そうでもしないと涙がこぼれそうだった。悔し涙だった。
志半ばが過ぎる。シンクはまだ自分が何も為し得ていないことを自覚していた。こんなところで、これからというときに、このような災厄に見舞われるなんて思いもよらなかった。
寒気が頂点に達しようとしていた。感情が身体にもたらす影響は計り知れないものがある。それにしたって異常な寒さだ。死期の近さを表しているのだろうか。
その音が届いたのは偶然だった。全ての感覚が鋭敏になっている以上は必然とも呼べるかもしれない。
カランと何かが落ちる音がした。隣からだった。視線を向ける。当初は暗くて見えなかったソレが徐々に輪郭を成していく。
「石……?」
少なくともシンクにはそう見えた。ベアトリーチェの足元に透明の石が転がっている。
また音が聞こえた。透明石が増えている。カランの音と共に一定の間隔で石が増加していく。
視線を徐々に上げていく。発生源はすぐに特定できた。ベアトリーチェの頬を伝った涙が、宙にその身を投げた後、地面に落ちる間際で液体から固体へ凝固していた。
つまりシンクが石だと思っていたものは、水が姿を変えた結果だった。
改めて周囲を見渡す。災厄から意識を外した影響か、今まで見えていなかったものが目に映った。
寒気を覚えていたのはシンクだけではなかった。冒険者ギルドのアレックスやフォイス代理指揮官までも、自らの身体を包むように両腕を擦っていた。
大橋の手前付近に冷気が広がっていた。極限状態に追い詰められていることで、シンク以外は誰も気づいていない。底冷えするような寒さは今の季節を全力で無視している。
こんなことをしている場合ではない。そんなことは分かっている。だが気になった。どうしても知りたかった。シンクは冷気の発生源を特定するために注意深く地面を見つめた。
薄っすら靄の掛かった冷気の道は、魔法部隊の中心へと続いている。どの方角からも同じ箇所へ向かっていた。
中心には何人かの魔法使いがいた。シンクの眼を引いたのはその中の一人、ではなく魔法使いに紛れた人外の生物だった。
視線が合う。彼は諦念の籠った瞳でシンクを見つめてきた。
「なんだ」
「いえ、その、眼が……」
言いかけた言葉をひっこめる。ジークフリードが視線を前方へ向けたからだ。シンクも後を追うように振り返る。災厄が右腕を頭上に掲げていた。
〖去ね〗
たった一言だった。災厄にとっては数十人の命を奪うことなど些末な出来事でしかないのだろう。右腕を振り下ろすと同時に雷弾が放たれた。巨大だ。巨大すぎてすぐに災厄の姿が陰に隠れて見えなくなった。シンクは自身に近づいてくる巨大な紫をぼんやり見ているしかなかった。
「うぉぉぉぉ!どうして、どうしてこんなことに……っ」
背後からオークの慟哭が聞こえてきた。最後の最後で耐え切れず漏れ出てしまったのだろう。
今更ながらジークフリードをお酒に誘ったのは間違いだった。彼にはシンクのような信念はなく、フォイスのような愛国心もない。言わば巻き込まれた形となる。
謝罪は間に合うだろうか。そう思ってシンクは振り返った。いや振り返ろうとした。だが出来なかった。冷たい風が彼の背中を打ち付けて、後ろを向かせてくれなかった。今までの比ではない。衣服の中にまで冷気が入り込んでくる。
災厄が何かしているのだろうか。そうとしか考えられない異常現象だった。いよいよ顔面付近にまで寒風が押し寄せてくる。
シンクは目を開けていられなくなり、雷弾が目前にまで迫った状態で、眼を閉じた。
2回程ガラスが割れるような音が聞こえた後、体中から全ての感覚が無くなった。終わったのだと彼は自覚した。呆気ないと言えばそれまでだが、苦しんで死ぬよりはマシかもしれない。一瞬で片づけてくれたことだけは、災厄に感謝してもいいと思った。
シンクは銅像のようにその場から動かなかった。正確には動けなかった。どうしていいか分からなかった。そもそも未だに自我を持っていることが不思議だった。死後の世界でも自分を保っていられるらしい。
〖…………ほう〗
彼を現実に戻したのは災厄の声だった。再び周囲の音も蘇り、肌を打ち付ける冷風の感覚も取り戻した。シンクは訳が分からぬまま、恐る恐る目を開けた。
彼の眼に入ってきたのは、巨大な薄水色の壁だった。圧倒的な高さと幅を誇るソレは、まるで以前からマリスの防壁を担っているような存在感があった。
『……………………』
誰も言葉を発しない。唖然とした表情で目の前の壁を見つめている。シンクもそのうちの1人だった。何がどうしたらこんな結果になるのか。まずは生きていることを喜ばなければいけないというのに。予想だにしない展開に脳が追い付いてこなかった。
〖なるほど、なるほど。未だどこぞに魔法使いが隠れておったか。ダリヤの長も意外と頭が回るようだの。が、同じよ。残酷なまでに結末は変わらぬ。妾の魔法を三度防ぐこと能わず〗
どうやらこの場にいない冒険者が、すんでのところで災厄の攻撃を防いでくれたらしい。
あれ程の大きさを誇る雷弾を完全遮断したからには、冒険者ランクSは固いだろう。姿を現さないのはロスゴールド大臣の指示だろうか。そこまで考えたところで、再び雷弾を掲げた災厄に向き合わざるを得なくなった。
今までの流れから、彼女が何を仕掛けてくるかは凡そ見当がついていた。しかしシンクにはどうすることも出来なかった。そもそも対処できる者がいるとは思えなかった。
無造作に雷弾が放たれた。グングンと近づいてくる。それと同時に再び背後から冷風が背中を打ち付ける。強烈な風だが2度目という事もあり、何とか耐えつつも前方に視線を向ける。
無音だった。だが目の前の景色が少しだけ歪んだ。目を凝らして見てみる。薄水色の壁の内側、つまり災厄側の方に同じような壁が生まれていた。全部で5枚。重なるように張られている。
雷弾が壁に直撃する。1枚、2枚と連続で割れた後、3枚目にひびが入ったところで雷弾が消失した。未だ3枚の壁が健在だった。
「おぉ、すげぇ」
アレックスが驚く声を耳にしつつ、シンクは自分の予想が外れてくれと強く願っていた。
しかし現実は思い通りに行かない。どこから飛んできたのか、3枚目のひびに白い球が付着した。見たことのある形状だった。
雷弾とは異なり、すぐに白球は消失した。そして後に続く形で、3枚の壁も崩れ落ちた。
「うぉっ、いたっ、つめた!!」
先頭に立っていた影響で、壁の崩壊に巻き込まれたフォイス代理指揮官が悲鳴を上げる。シンクの足元にも壁の破片が飛んできた。拾い上げる。
「………こおり」
氷だった。ここに至って薄水色の壁は氷魔法によるものだと理解する。ただそれだけだ。Sランクの氷魔法使いだと分かったところで何も変わらない。
そして今頃、彼か彼女も魔力を失って右往左往しているはずだ。その証拠に3枚残っていた壁も一瞬で砕け散ってしまった。災厄の吸収魔法で魔力を奪われた結果に他ならない。
〖カカカカカ。長いようで短い時間だったがの。これで第一幕は終了よ。妾と出会った己の不幸を嘆いて死ね〗
もはや見慣れた光景だった。災厄の頭上に紫の玉が浮かぶ。徐々に大きくなり、やがて月が隠れるほどまで膨らむ。一定の大きさに到達した瞬間、少しの猶予もなく放たれる。
発射されてしまった。もはやどうすることも出来ない。先程の光景を見て、他の誰かが魔法を行使してくれるとは思えない。そもそも単身の魔法で防ぐことさえ奇跡に近いのだ。奇跡は2度起きない。
せめて自覚して死のう。自分が死ぬ瞬間を目に焼き付けよう。そうしないと、この場にいる皆、それと後に責任を追及されるであろう第一騎士団の面々に申し訳が立たない。
シンクは最後の覚悟を決めて、先程拾った氷を強く握りしめた。
………………………………
……………………
…………
「……え」
氷。氷。氷。氷がある。
災厄の吸収魔法に接触し、氷壁は砕け散った。それは確かだ。ただ手中には砕けた後の氷が残っている。それがおかしい。何故なら氷魔法により生まれた氷は、魔力そのものだからだ。魔力を失うという事は、氷の存在が消え失せることに他ならない。
シンクは手のひらの氷から顔を上げた。雷弾は目前にまで迫っていた。あと数秒で飲み込まれる。
飲み込まれる。
もしも。
氷壁が再び現れていなかったら。
パリン、パリン。
全てが同じだった。1枚、2枚と連続で割れた後、3枚目にひびが入ったところで雷弾が消失する。
『……………………』
静寂に包まれる。誰も声を発することが出来なかった。しかし先程の沈黙とは異なる空気があった。
〖あ?〗
初めてかもしれない。災厄の声色からは、想定が外れた者の戸惑いが感じ取れた。
シンクは自身の胸を服の上から強く押さえつけた。まだ何も分かっていない。状況も変わっていない。ただ彼の鼓動は高鳴り続けていた。
今までの経験によるものか、もしくは彼が元来持つ直感が反応しているのか。心の奥底にある何かが強く訴えかけていた。まだ終わらない、いやそれどころか。
始まったのだと。
★★★★
アレックスは信じられないという表情で目の前の壁を見つめていた。
死んだと思った。それも1回ではない。何度も死の目前にまで追い込まれた。だが生きている。まるで弄ぶかのように生死の境目を往復させられている。そして視界には、意味不明な氷壁が周囲の光を反射しながら悠然たる姿を披露していた。
氷魔法には違いない。だがアレックスにはこれ程の氷を生み出せる人物に心当たりはなかった。
冒険者ギルドの古株である彼が知らないという事は、少なくともマリスを拠点とする冒険者ではないという事になる。ならば他国の冒険者か。もしくは国家に所属する専属の魔法使いか。いずれにせよ意図も意味も理解できない。
「いや、そうか」
ここでアレックスはある変化を思い出した。気づいたと言ってもいいかもしれない。
つい数分前から周囲に冷たい風が発生していた。どうせ災厄の仕業だと思っていたが、どうやら違うらしい。恐らくは氷壁を出現させた人物から流れてきているのだろう。氷魔法の予備動作と考えれば腑に落ちる。
アレックスは自身の肌に意識を集中させた。冷風の出所が分かれば、術者を特定できるかもしれない。果たして最優先でやるべきことかは疑問だが、このままボーっと立っていても仕方がない。出来ることから始める。
「………こっちか」
アレックスはその場で振り返った。そしてすぐに目的の人物を見つけた。というよりも目の前にいた。その人物の周囲には白い靄のようなものが出ていた。
そしてこんなに近くにいたのかという驚きよりも、何故こいつがという驚きの方が強かった。
「オーク……たしかジークフリードだったか。お前がやったのか?」
「は?なにを――」
〖ククク…………カカカカカ!!!そうか、そうかぁ!なるほどな。そういうことであったか!!〗
ジークフリードの言葉は災厄の歓喜に遮られた。再び振り返り空を見上げた。
〖くだらぬ寸劇、つまらぬ感傷を見せつけられたと思えば、全ては時間稼ぎだったか。ならばそうか、そうよの。貴様らの取った論理性のない行動も頷けよう。妾としたことがすっかり騙されたわ、カカカカカ!うむ、ならばよし。褒美を与えよう。今より幾何かの間、妾は反抗せぬ。自由に攻撃するがよい。さぁ、貴様の氷を妾に味わわせろ!〗
思わずベアトリーチェへ視線を向ける。彼女は険しい表情を浮かべたまま災厄を見上げていた。
ベアトリーチェの反応を見ても、狙って持っていた展開ではないのは明白だ。誰もがつい先程まで絶望しか抱えていなかった。災厄の考えは全くの的外れであり、この場にいる全員にとって想定外の展開と言える。
ならばどうして災厄は勘違いをしたのか。そして彼女は誰に対して話しかけているのか。アレックスはもう少しで答えに辿り着けそうな予感があった。
「あ、は。いや、え、まさか……おい!いるのか?貴様なのか!?」
突然、ジークフリードというオークが喚きだした。周囲へ視線を投げている。誰かを探しているように映った。
「おい、いきなりどうした。というか俺の質問に答えろよ」
「それどころではない。あいつが、あいつの仕業だ!」
「誰だよ、あいつって」
アレックスの言葉を無視して、水色に光った瞳をキョロキョロさせている。
どうやらオークが氷魔法を行使したわけではないらしい。彼の様子を見る限りでは、「あいつ」という人物がやったようだ。
そもそもジークフリードは最も一般的なオークの様相をしている。いわゆるオークメイジではない以上、魔法適性があることすら疑わしい。
ではどうして彼から冷風が発生しているのか。アレックスは何から解明していけばいいか分からなくなった。
〖おい。仕掛けて来ないのか〗
背後からは苛立たしげな声が聞こえてくる。氷魔法の人物は災厄の誘いに乗らないようだ。
「どこにいる!出てこい。というか何故隠れている!?」
「いやマジで。だれよ」
〖ぬぅぅ。つまらぬ。つまらんぞ。ええい分かった。どういうつもりか知らぬが、貴様は守りに徹するというのだな。ならば我慢比べといこうではないか。カカカカカ!〗
アレックスは嫌な予感を覚えた。咄嗟に災厄の方へ振り返る。彼女の頭上には、色とりどりの球が数個浮かび上がっていた。大きさを犠牲にして数と種類を揃えたようだ。
まさかと思い見守っていると、案の定全ての球をこちらへ向けて放ってきた。
先程の攻防で残った3枚の氷壁は未だ健在だ。ただし現存枚数で災厄の攻撃全てを防ぎきれるとは思えない。
アレックスは強く願った。どこの誰かは知らないが、どうか防御を固めてくれと。氷壁をさらに厚く張ってくれと。周囲の魔法使い達も懇願するような眼で氷の壁を見つめている。
が、しかし。
「……増えねえじゃねーか」
炎弾と水弾がひびの中に吸い込まれ、3枚目が呆気なく破壊される。その後を追うように雷弾が4枚目に衝突。さすがに小球1つでは割れなかったが、災厄は早くも第二陣を頭上に生み出していた。炎、水、雷と同じ構成だ。
周囲から悲鳴が上がる。このままでは突破されるのも時間の問題だ。だが新たな氷壁は生み出されない。術者の魔力が尽きたのだろうか。もしくは別の要因で魔法が使用できない状況に陥ったか。いずれにせよ危機的状況だった。
ジークフリードへ視線を戻す。相変わらずあちこちに視線を投げながら誰かを探していた。彼は今の状況を分かっているのだろうか。分かっていないのかもしれない。
恐ろしいほど大きな破裂音だった。振り返る。氷が空中を飛び散っていた。4枚目が割れてしまった。残りは1枚。そして災厄の頭上には三属性の球が3つずつ生み出されていた。計9個。
全身に鳥肌が立つ。1枚では耐えきれない。ならばどうなるか。アレックス含む魔法部隊に直撃だ。球の大きさから全員は死なないかもしれない。ただ確実に何人かは散る。
「ぐっ……なぜだ。何故、氷魔法の使い手はこれ以上の助力をやめたのだ!」
フォイス代理指揮官が悔しそうな声を上げた。誰にも分からない問いだった。唯一知っていそうなオーク族の彼は、頭を抱えて雄叫びを上げている。
そのオークへ近づく者がいた。ボボン王国第一騎士団のレイ副団長だった。彼はものすごい勢いでジークフリードに接近したかと思えば、両手で挟むようにオークの顔を持ち上げ、自分の顔に近付けた。
「ぬぉ!ちょ、おい。なんだ。やめろ、近づけるな。我は女性が好きなのだ!」
「ここにいる」
謎の言葉だった。脈略がなさ過ぎて、ジークフリードもポカンとした表情を浮かべている。
レイ副団長はそのままオークの顔をグイっと引っ張り、強制的に前方へ視線を向けさせた。そこでは最後の氷壁に攻撃が加えられている所だった。
「いたっ。なにを……って、ちょ、壁が1枚しか残っていないではないか。このままでは死ぬぞ!」
「分かっています。だからです!ボクの想像通りならこれで……」
寒い。アレックスがそう感じた時には、周囲に白い靄が立ち上がっており、氷壁の枚数は5倍まで倍増していた。
『おおおおお!!!』
至る所から歓声が上がる。ひとまず命を繋ぐことはできた。アレックスも安堵感から座り込みそうになる。今日という日はどれだけ感情を揺さぶられたら気が済むのだろう。
「おお、ま、間に合ったか。冷や冷やさせるではないか。ふぅ………あ、それでシンク、先程のは一体——」
「こっちを向かないで!災厄と氷壁、それと白銀の少女を常に視界に収めてください。いいですね?」
「え、うん。分かった。で、どういうことなのだ」
視線を前方に向けたままレイ副団長に問いかける。副団長は災厄に特殊な動きが無いのを確認した後、恐らくですが、と前置きをしたうえで話し出した。
「氷魔法の使い手は今この場にいません。追い詰められてなお、現れないのはそういうことでしょう。ならばどうやって介入しているか。誰かの視界を借りて、遠隔から魔法を行使しているのだと、私は推測しました。その誰かと言うのがジークさん、あなたです」
「わ、我だと。全く心当たりがない………わけではないが」
「どっちなんだよ。つか視界を借りる?そんな魔法あんのか」
「災厄の存在もそうですが、私達は知ったつもりでその実知らないことが多いです。ならば視覚を共有する魔法があってもおかしくない。私はそう思います」
災厄を出されたら何も言い返せない。アレックスは不承不承の様子で頷いた。
「それでシンク。なぜ我の視界が共有されていると思ったのだ」
「2つあります。1つは氷魔法の前兆がジークさんの周辺から現れていたことです。初めはジークさん自らが氷魔法を使用しているとも考えましたが、足元に魔法陣は現れていませんでした。つまり術者ではないが、本来の術者に何らかの形で利用されていると思ったのです」
ジークフリードはやや納得できない表情で首を傾げた。オーク族の肌は厚く、人間族より何倍も寒暖に強いと聞く。彼は周囲の気温低下に鈍感だったのかもしれない。
「もう1つは眼です」
「め?」
「瞳の色が水色になっています。普段はもう少し暗かったはずです。しかし本人に気づいた様子はありませんでした。となると何らかの形で外部から干渉を受けている可能性が高いでしょう。視界を共有する魔法と考えれば違和感はありません」
「ふーむ、なるほど。奴がそんな魔法を使えるなど聞いた試しはないが、災厄とは違うベクトルの規格外だからな。出来ても不思議ではない」
眼を水色に光らせたオークは視線を固定したままウンウン頷いた。たまらずアレックスは2人に問いかけた。
「納得してるとこ悪いんだけどよ。結局誰の仕業なんだ?俺の知ってる奴か」
シンクは1度ジークフリードに視線を向け、彼が答えないと分かると、災厄の方向を見つめてながら口を開いた。
「氷魔法、現場不在、ジークさんと知り合い。思い当たる人物は1人しかいません。あなたとも面識のある方です」
アレックスは首をかしげた。誰一人該当する人物が頭に浮かんでこなかった。そもそも冒険者の使用魔法に関しては、ギルドの適性検査を受けるか、高ランクの魔法使いでないとアレックスの耳まで届いてこない。更にジークフリードというオークともほぼ初対面だ。知り合いと言われても、どうもできない。
ひとまず答えを聞いて見ようと口を開きかけた最中、意外な方向からある人物の名前が耳に入ってきた。
その声はか細くもあり、また少し震えているようにも聞こえた。
《……………イケダ》
★★★★
魔具を通した呟きが聞こえた瞬間、ベアトリーチェの心の中で何かがストンと落ちる音がした。
その名前はセレスティナの探し人であり、また災厄が追っている人物でもあり、そして底知れぬ魔力を持つ氷魔法使いでもあった。
なるほどと頷かざるを得ない。災厄の吸収魔法が効かなかった。それだけで一般人とはかけ離れた人物であることが分かる。
その彼が遂に現れたようだ。
満を持しての登場には不満を覚える。もっと早く干渉できなかったのか。ただセレスティナの話を聞く限りでは、彼女に対しては誠実な態度を取る人物だと分かる。そんな彼がセレスティナの窮地を黙って見過ごすだろうか。
つまり、初めて干渉できた時機が、ちょうど魔法部隊の危機に重なったこととなる。そう考えると奇跡的なタイミングと言わざる得ない。少なくともベアトリーチェ達にとっては命の恩人だ。
〖ほれほれ。もっと弾を増やそうか?耐えきれるかの?せっかく邂逅できたのだ。この程度で崩れてくれるなよ。妾を失望させ―――ぬっ!?〗
災厄の周囲にキラキラと光る何かが浮かび上がっていた。目を凝らす。氷だった。氷槍と言ってもいい。先が鋭く尖った直径50センチ程の氷が、災厄を囲むように十数個出現した。そして一斉に中心部へ突き進む。
今までと同じ光景を見せられると思っていた。災厄はその場から一歩も動かずに無傷。こちらを余裕の表情で見下ろす。ベアトリーチェ達は諦めまなこで災厄を見上げる。
どうせ今回も駄目。そんな後ろ向きの予想は一瞬で否定された。一撃、二撃、三撃と連続で見えない壁に衝突した氷槍は、その後も勢いを止めず邁進し、遂には壁を破り災厄の身体を吹き飛ばしてしまった。
『おおお!!!』
そのまま水中へ落ちると思われた災厄だったが、何とか体勢を立て直し、再び空中にその身を浮かばせた。少しふらついて見えるのは気のせいだろうか。
〖くっ、この……貴様、短期間でこれ程まで昇ってくるとは。やはりニンゲンの真価は侮れぬぅお!!〗
間髪入れずに災厄の周囲へ氷槍が現出する。流石の災厄も直撃はマズイと思ったのか、物凄い速さでその場から離脱した。
氷槍はそのまま災厄がいた場所へ射出される、誰もがその光景を予期した。しかしここでも予想外が生まれる。数十個の氷槍が一斉に向きを変え、逃げ出した災厄を追尾し始めた。
〖んなっ、こやつ、うおっ!〗
ヒト型の動きとは思えない軌道で氷槍の追撃を避ける、避ける、避ける。どうしても避けられないものは手元に生み出した雷弾で相殺させる。
そうして人外と氷の追いかけっこは続き、全ての氷槍を破壊する頃には、肩で息をするほどに追い詰められた様子を見せていた。
『おおおおお!!!』
観衆の盛り上がりもピークに達する。なにせ今まで一方的に虐げられてきたのだ。一矢報いるどころか、災厄が防御に徹する姿を見られるなんて喜ばないはずがない。
ベアトリーチェにしても驚きは隠せなかった。セレスティナの話を聞く限りでは、イケダという人物は極々一般的な思考の持ち主で、取り立てて特徴の無い男性だと思っていた。
それがどうしたことだろう。マリスを窮地に陥れた相手と対等に渡り合っている。おおよそ人間技とは思えない。つまりイケダも人の道から外れた存在なのだろうか。
そんな人物を追いかけているセレスティナは、いったいどんな女性なのだろう。ベアトリーチェは彼女を知っているようで、ほとんど知らないことに気づいた。
「おい、これいけるんじゃねえか」
「ああ。このまま倒せるかも」
冒険者同士の会話が耳に入った。恐らくあちこちで同じようなやりとりがされているだろう。
むしろベアトリーチェは不安を抱いた。彼女は元来現実的な考え方を持っており、行きつくところは悲観主義だった。今の流れのまますんなりと災厄を撃退できるとは到底思えなかった。
そして彼女の危惧はその通り現実となる。
〖属性変更―氷―暫時―遮断〗
災厄が何事か呟いた。一体何を仕出かすだと注視すれば、彼女の周囲に張られていた無色透明の壁に、ほんのり水色が差し込まれた。それ以上の事は何も起きない。
どういうことだろう。ベアトリーチェ達が疑問に思っている間に、三度氷槍が襲来する。今度も十数個が災厄の周囲を囲む。
しかし災厄は逃げない。その場から一歩も動かなかった。氷槍が全方位から放たれる。壁に衝突した瞬間、共鳴するかのように水色が輝きを増す。
その後はよく分からなかった。壁の中に吸い込まれたのか、もしくは単純に消滅したのか。いずれにせよ氷槍は全て無力化され、空には悠然と浮かぶ圧倒的強者の存在しか残っていなかった。
静まり返る群衆に向けたのか、はなたま独り言なのか、災厄がやれやれといった様子で話し出した。
〖まさか全ての防備を一属性に回されるとはの。何年、いや何百年ぶりか。素晴らしい。素晴らしすぎる。よくぞこの短期間で妾の足元にまで駆け上がってきたものだ。だが残念よ。一点特化型は破壊力こそ期待できるが、拠り所を封じられては何も出来ん。貴様の氷は、もう通用しない〗
災厄が話している間にも氷槍が彼女を襲う。しかし災厄の言葉通り、少しも通用していない。新たに立ち塞がる水色の壁が全てを無効化している。
「…………まずいわね」
氷魔法が通じなくなったこと、それだけではない。ベアトリーチェはもう1つ先の展開を想像していた。災厄の攻撃にも同じ効果を適用できるのではないかということだ。
つまり目の前にそびえたつ氷壁を無効化する、氷特化のディスペル魔法も行使できる可能性がある。
「ちっ!」
まずい、まずいと嘆いていても仕方がない。頭を切り替える。イケダが開けた風穴は、大きく展開を変えた。言い換えると災厄に付け入るスキが出来たという事だ。狙わない手はない。
災厄の発言から彼女の周囲に張られていた壁が、どういう効果を持っていたかを想像するのは難しくない。
一番最初の無色透明壁は、恐らくほぼ全ての魔法を遮断する効力があった。火、水、土などが弾かれたのもその影響だ。ただし許容できる魔法力に限界があり、氷魔法はそれを突破してきた。
そこで災厄は氷魔法特化の壁に切り替えた。氷のみを遮断する壁。このためイケダの氷は通用しなくなった。
つまり今ならば、氷以外の魔法は通じる可能性が高い。
ベアトリーチェは周囲に目をやった。ある男を探すためだ。その人物はすぐに見つかった。
「メイワーズ!」
「うわっ。え、ベアトリーチェ様?」
「SかAの魔法使いがどこかに隠れているでしょ?そいつらと連絡とれる?」
「へ、いや、確かに数部隊が待機しておりますが」
やはりと頷いた。危機管理に長けた父親が、有力な魔法使いを全て投入するはずがないと思っていた。そんな父でも災厄の襲来までは予期できなかったようだが。
「連絡は?」
「取れますが、まずはマリス中心部の情報室に連絡する必要があります。そこから各部隊に伝達される流れとなります。時間にして数分は要するかと」
ベアトリーチェは奥歯をかみしめた。あまりに遅すぎる。
自分たちが魔力を失った以上、他の魔法使いに頼るほかない。彼らが氷魔法以外を行使すれば、ほぼ確実にダメージを与えられる。しかし数分の猶予は長い。彼らが動き出すより前に、氷壁が突破される方が早いはずだ。
彼らの中にも気づく者がいるかもしれない。今ならば魔法が通じると。その展開に賭けようか。
いや駄目だと首を振る。気づくことと実際に魔法を使用するのは全く異なる。この場にいる魔法部隊の失敗を目の当たりにした以上、二の足を踏むのは当然だ。それに父親のロスゴールド大臣からも厳しく言い渡されているだろう。これ以上勝手な行動で犠牲を増やすなと。
〖カカカ。カカカカカ!驚いたか?焦りおったか?絶望したか?形勢逆転とはこのことだの。もはや貴様に勝機は非ず。氷壁でさえも同様に―――ぶはっ〗
聞こえてくるはずのない声だった。明らかに災厄が何ものかの襲撃を受け、それが命中したように聞こえた。
信じられないような面持でメイワーズから視線を外し、災厄の方向を振り返る。
「えっ」
いない。空中に漂っているはずの紫悪魔が存在しない。
次の瞬間、ドポン!と大きなものが水の中に落ちる音が聞こえた。煌々と照らす月が大橋の下から飛び散る水しぶきを映していた。
★★★★
『うおおおおお!!!』
冒険者達が歓声を上げます。狂喜です。乱舞しています。
かくいう私も興奮しています。災厄とイケダさんの戦いに一喜一憂するあまり、胸が痛くなるほどでした。
飛沫をあげてマリス下部の水溜に落ちた紫の女性は、未だ姿を見せません。水の中に入ったままです。もしかすると、もしかするのでしょうか。
「おい、どうなってんだ!?突然あの女が落下したぞ。イケダの氷魔法が突き破ったのか?」
アレックス氏は明らかに私へ話しかけていました。視線を固定しなければいけないのであまり干渉してほしくないのですが、無視するわけにもいきません。氷壁とトランスさんを視界に入れたまま、口を開きます。
「違う。紫の女が言った通り、氷は全て遮断されていた。突き破ったのは……土、いや岩石だと思う」
「岩石?となると土系魔法ってことか」
「ああ。氷の中に岩石を混ぜていた。紫の女を吹っ飛ばしたのはソレだろう」
「マジかよ。よく見えたな」
「貴様らニンゲンより眼が良いんでな」
アレックス氏は「土魔法も使えんのかよ」と呟きながら鷹揚に頷きました。ですがそれは私の台詞でもあります。
イケダさんはいつの間に土魔法を習得したのでしょうか。少なくとも首都マリスを拠点にするまでは、氷魔法しか使用できなかったはずです。
いつの間にという意味では、どうしてか氷魔法が使用できなくなっていたはずです。セリーヌさんと行動を共にしていたのもそれが理由でした。どのタイミングで回復したのでしょう。
更に言えば、紫の女性に氷魔法が通用しているのも不思議です。前回の邂逅では、手加減した災厄の攻撃にアップアップしていました。ゴブリンを大量虐殺していた件とレッドドラゴンを瞬殺した件が関係しているのでしょうか。彼はどのように強くなっているのでしょう。
災厄にしても、イケダさんにしても分からないことだらけです。謎が謎を呼んでいます。こういう時は何も考えないことです。自分のやるべきことをやる。今はひたすら視界を固定することに注力いたします。
そもそも移動しようにも身動きが取れない状況に陥っていました。私の周囲を冒険者たちが囲んでいるのです。偶然ではありません。意図して輪を作っています。
彼らの口から出る言葉は懇願が多数を占めます。助けてくれ、災厄を倒してくれ、もっと氷壁を張ってくれなど。
そうです。何故か私が氷魔法の術者だと思われているのです。
全く意味が分かりません。足元に魔法陣が出現したわけでもありません。ただひんやりとした空気が私から出ている、それだけです。逆に言えばそれだけで十分だったのでしょう。不安だらけの彼らは拠り所が欲しいだけなのです。
「離れて、もっと離れてください!絶対にオークの前方には立たないように」
シンクさんが大声で注意喚起してくれています。本来なら感謝すべきですが、彼にはいろいろと思うところがあるので難しい所です。というか私は感謝する方なのでしょうか、される方なのでしょうか。あぁ、またいらぬことを考えてしまいました。
「うぅ……」
「え、おい、オーク様が唸ったぞ!大丈夫ですか?もしや魔力が尽きたのですか?」
「いや、違う。大丈夫だ。何でもない」
「おお、よかったです。おいみんな、まだまだやれるみたいだぞ!」
歓声が上がります。それはもう剣技大会で優勝したような熱気です。中には私に対して拝んでいる女性の姿も確認できました。
こうなっては偶像を演じるほかありません。彼らが私を信じる限りは、余計な行動は控えるでしょうから。その間に何らかの形で決着がつけばと思います。というか紫の女がこのまま上がってこなければ私たちの勝利です。お願いします。終わってください。
「おい。全然出てこねえぞ。もしや――」
〖カカカカカカカ!カカカカカ!〗
「…………」
まぁ、そうですよね。
★★★★
その声を耳にしたとき、シンクに去来したのは、まさかというよりも、やはりという思いが強かった。
再び災厄が空中に姿を現した。一見したところ傷を負っているように見えない。水中で回復したのだろうか。そういえば濡れている様子もない。衣服の構造からニンゲンと異なるようだ。
〖超えてくるよな、想像を。普通あれだけの氷があれば、他の属性に注力する暇も無いというのに。貴様は妾を何度驚かせれば気が済むのだ。最高が過ぎるぞよ。カカカカカ。属性変更―全―永久―緩和〗
ひとしきり話した後に何かを唱えた。彼女の周囲を包んでいた薄水色の壁が、再び無色透明に戻る。
〖そもそもこうして貴様が現れた以上、有象無象に構う必要は無かった。直接やってしまえばよい〗
災厄は右手を広げた。掌に何かが載っている。キラキラと反射していた。彼女はそれを左手で摘まみ上げ、そのまま口の中に含んだ。
〖ふぅむ。流石に上質な魔力だの。身体が熱くなってきたわ。それで…………ふむ。なるほど。なるほどのう。そこかぁ!!〗
突然振りかぶったかと思えば、何かを投げる動作をした。実際に投げたわけではない。掌から黒っぽい線状の光線を放出していた。
光線は掌から遠ざかるごとにその大きさを増していく。そうして直径3mを超えた黒色光線は、八角城壁の一角を容易く破壊し、マリスの外へ突き進んでいった。
『…………』
災厄の奇行に誰一人反応できるものはいなかった。どんな目的で何をしたのか。シンクはある程度の推測を立てていたが、確信へ至るには情報が足りなかった。
どうしようもないまま何秒か過ぎた後。遠くの空から異様な音が聞こえた。衝突音かと思ったが、それにしては甲高い音だった。女性の悲鳴のようにも聞こえた。その音色はしばらくして止んだ。
シンクは悪寒が止まらなかった。彼の推測通りならば非常にマズい展開と言える。不安を払しょくしたいがために背後を振り返る。
ジークフリードが立っていた。相も変わらず、言いつけ通りに視線を固定させている。彼自身に大きな変化はない。ただ身体の一部に違いがあった。
眼が元の色に戻っていた。
「あぁ……やっぱりだ」
「あ?おいシンク。やっぱりってどういうことだ。災厄は何をしたんだ」
「攻撃したんですよ」
「攻撃?だれに」
「イケダさんです」
ジークフリードはハッとした表情を浮かべた。アレックスも同じ反応だった。対照的に周囲の冒険者たちは、誰の事だか分かっていなかった。
災厄が口に含んだもの。恐らくはイケダが生み出した氷だろう。何のために。これも推測だが術者の魔力を取り込み、その魔力をたどって術者の位置を特定したのではないか。
もちろんそんなやり方が現実に存在するなど聞いた試しはない。だが災厄だ。災厄なのだ。不可能を可能にしたところで今更驚かない。
「イケダは、やられたのか」
「分かりません。ただジークさん、あなたの瞳が元の色に戻っています。イケダさんとの接続が途切れたのは確実です」
「いや、それ、詰んだだろ」
アレックスの言葉に同調するわけにはいかなかった。もしも今の攻撃でイケダが絶命していたら。そうでなくとも戦闘不能に陥っていたら、シンク達の命運は尽きる。誰一人生き残れはしない。
たった1人に大都市の未来を背負わせるなど正気の沙汰ではない。だが彼しかいないのだ。彼だけが災厄に対抗できる唯一の存在だ。シンクはイケダの無事を祈らずにはいられなかった。
〖カカカ。カカカカカ〗
災厄が突然笑い出した。シンクにはどちらの意味か判断がつかなかった。
「あれ。なにか、飛んできてる?」
冒険者の1人が呟いた。彼は災厄を通り越して、更に上空を見上げていた。
確かに飛翔物が確認できる。何秒か置きに白っぽいような、青っぽいような物体が飛来していた。どこから飛んできているのだろう。シンクには暗すぎて分からなかった。
〖やはり防ぐか。貴様は妾の期待を裏切らんな。それでこそ、なればこそよ。魔力を奪えないのなら、操作するまでだの。貴様には暗闇を用意した。どうだ、見えるか?見えないだろう。カカカ。漆黒の世界へようこそ。残念ながら一両日は元に戻らん。ほれ、ほれ。どこを狙っておる。妾はここだぞ。カカカカカ!〗
「暗闇……だと」
ジークフリードがつぶやいた。たった一言なのにどうしてか重みを感じた。
暗闇というのは恐らく状態異常:暗闇であり、今現在イケダが陥っている状態だ。盲目となり何も見えなくなる。
「魔力吸収の次は暗闇とか。どんだけだよ」
先程の黒色破壊光線が思い出される。てっきり単純な攻撃魔法だと思っていた。だが魔力吸収の白球と同様に、こちらにも副次効果が付与されていたようだ。防御されることを前提とした攻撃は絶望的に防ぎようがない。
「となるとあの流れ星みたいなのは、イケダの氷魔法か」
ジークフリードとの接続が切れた以上、遠く離れた場所――おそらくは数キロ、数十キロ離れた地点から魔法を行使しているはずだ。それだけでも困難を極めるというのに、盲目状態だとすれば命中するはずがない。
むしろ何故攻撃魔法を放つのか理解に苦しむ。いきなり盲目になった影響で混乱しているのだろうか。そうかもしれない。誰だって視界を奪われれば慌ててしまう。
〖カカカカ。ほれほれ。お、当たったぞ。良かったな。だが残念。もはや土系統の魔法は通用せぬ。妾を倒したくば自慢の氷を当ててみよ!〗
シンクには災厄がわざと土魔法へ当たりにいったように見えた。先程は彼女を水中に落とした魔法だったが、今度は難なく防がれてしまった。
彼女を包む壁は当初の無色透明に戻っている。全ての魔法に対応しているのだろう。逆に言えば、特化した攻撃なら突き破ることができる。それこそイケダの氷魔法が最たる例だ。だが当たらない。当てるための視覚を失った。
弄んでいる。シンク達だけでなくイケダでさえも。全ては災厄の思うがままだ。
所詮彼も災厄の遊び相手に過ぎなかったのだろうか。対等に渡り合えていると思っていた。一時は上回ったと興奮した。そんなものは幻想であり、災厄にとっては想定の範囲内だった。
悔しさよりも虚しさが胸を占める。世界から突き放されたような気分だった。努力と物量で如何にもできない以上、ニンゲンに勝ち目はない。言わば敗北必至の事案であり、多少足搔いたところで結末は変わらない。
アレックスは首を垂れていた。フォイスは頭を抱えていた。ベアトリーチェは真っすぐに前方を見つめていた。そしてジークフリードは冒険者たちに詰め寄られていた。
どこに氷魔法を放っている、ふざけるな、真面目にやれ、俺たちを殺す気か………命の恩人という過去を忘れ、彼らは一方的に責め立てていた。
「ちょ、おい、お前ら。我ではない、我がやったわけではないのだ!」
ジークフリードが必死に弁明するも聞き入れてもらえない。群衆はますますヒートアップしていく。本来なら間に入るところだが、シンクにはもう止める気力さえ残っていなかった。
「うおおおおお!離れろ離れろ」
「なんで魔法撃たないんだよ。あんたしかいないのに、あんた……うわっ!」
冒険者の1人が驚くような声を上げた。何が起こったか把握しようとするも、人垣のせいで冒険者もジークフリードも見えない。
「おおお!なんだこの状況は!どうしてこうなった!我は、我はただお嫁さんが欲しかっただけなのにぃ!」
恥ずかしい言葉を発しながら、ジークフリードが一瞬だけ人垣から顔を出す。すぐに見えなくなった。ただシンクにはその一瞬で十分だった。どうして冒険者が驚いたのか理解したのだ。
「は?おい、マジかよ」
アレックスも気づいたようだ。ただしシンクとは別の観点からだった。
―——空気が引き締まる。精神的ではない。物理的にだ。
人垣の中心から白い靄が出てくる。靄は彼らの頭上に集まり、何かを形作っていく。
剣のように見えた。ただ柄が無い。抜き身の剣、それも氷で造られた細長い氷剣だった。実物の剣よりも鋭利に見える先端をユラユラさせながらジークフリードの頭上を漂っている。
ジークフリードとそれを取り囲む冒険者たちは気づいていない。今もなお揉みくちゃになっている。
「ジークさん、災厄を見てください!」
無意識に言葉を発していた。それもかなり強めの口調だった。何か意図があったわけではない。身体が口が勝手に動いた。
不規則に揺れていた氷剣がピタリと止まる。剣先が斜め上を向いた。
災厄は気づいていない。前方から飛来する氷と岩石を眺めながら、こちらに背を向けて高笑いしている。
氷剣が動いた。そう思ったときには視界から消えていた。
〖妾のように魔力をたどることが出来ぬ以上、視覚を失ってしまえばこんなものよ。初めての体験だろう?焦るよな。だからといって無差別に魔法を行使するのはどうかと思うぞ。誤って民衆にでも当たったら、きさ―――――が〗
災厄の言葉が止まる。動きも止まる。何もかもが止まる。
空に漆黒の魔女が浮かんでいる。その状況は変わらない。変わったのは、その魔女の身体から水色の剣が突き出ていることだ。
シンクはその光景を呆然と見つめることしかできなかった。何が起きたかは大体理解している。だが現実感は皆無だった。果たして目の前で起きたことは本当なのだろうか。自分が頭の中で作り出した妄想ではないか。
〖カ……カカカ〗
かすれた声だった。ただし生きている。災厄は傷口から溢れ出る液体をそのままに、首だけをグルリとこちらに回した。
〖……………そうかぁ。豚、貴様か。貴様が奴の眼になっておったか。どおりで魔力検知が遅れるわけよ。なるほど、なるほどぉ……まさしく暗闇効果の盲点を突かれたの。カカカカカ〗
この場に豚と表現される生き物は1体しかない。人垣が割れた先にジークフリードが姿を現す。水色に輝く瞳とは裏腹におびえた表情を浮かべていた。災厄から名指しされたことに恐怖を覚えたのかもしれない。
〖カカカカカ。カカカカカ〗
災厄の周囲に白い綿のようなものが現れる。シンクの位置からはハッキリ見えない。フワフワと浮かぶ様子は妖精のようにも映った。
白い妖精は、現れるとともに災厄へ近づき、その身を彼女へ捧げる。現れては消える。何十、何百の妖精が同じ動きをする。
「凍っている…」
ジークフリードの声だった。彼は真っすぐに災厄を見つめていた。
〖カカカカカ。カカカカカ〗
災厄は狂ったように笑い声をあげていた。悲壮感や焦燥感は全く感じられない。動けないのか、動かないのか。抵抗しないのか、できないのか。この展開さえも災厄の望み通りなのか。
全身の約半分が水色でコーティングされる。終わりは近づいていた。もしくは新たな始まりかもしれない。妖精の数はさらに増えて災厄へ群がっていく。
〖カカカカカ。カカカカカ〗
それでも災厄は動かない。胸元に剣を突き立てられ、両腕両足を氷漬けにされ、今なお浸食されているというのに。
誰もが一言も発せずに見入っていた。何度期待して何度裏切られたか分からない。今回もだめかもしれない。
それでも信じる。信じることだけが彼らに残された希望だった。
そうして遂に妖精は顔付近を漂い始め。
〖カカカカカ。カカカカカ。カカカカカ。カカカ―――――〗
全身を凍らせてしまった。氷の剣もそのまま残っている。災厄の身体と氷剣が交差していて、まるで十字架だと思った。
氷像は落下運動を始めた。止まらない。誰も止めやしない。
瞬く間に視界から消え失せ、何秒もしないうちに、ドポン!という水音が耳に入った。
『………………』
静まり返る。沈黙は不安の表れであり、また期待の裏返しでもあった。
10秒、20秒、30秒、1分。未だ災厄は姿を現さない。
2分、3分、4分。そして約5分の時を経て期待は現実となり、いよいよ確信に至る。
危機は去ったと。
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!』
群衆が弾ける。これぞ狂喜乱舞といったところだろうか。周囲の喜びようといったらない。抱き合って泣いている人たちも散見された。
「………あぁ」
膝から崩れ落ちる。長かった。永遠に感じられるほどの苦しみだった。
フォイス代理指揮官も同じように地面に膝をついていた。一方でアレックスは早速どこかへ走り出し、ベアトリーチェは白銀の少女へ駆け寄っていた。
そして立役者の1人ともいうべき彼のもとには、再び大勢の冒険者が群がっていた。もちろん負の感情はなく、全員がジークフリードを褒め称えていた。当の本人は「いや、だから違う!違うのだ!」と否定しているが、その言葉を鵜吞みにする者はいないようだ。
「はぁ……………よし」
シンクは立ち上がった。やるべきことはたくさんある。何らかの責任も取られなければならないだろう。
だがその前に。救世主であり諸悪の根源でもある彼に、一言言わねばならないだろう。ありがとうか、よくもやってくれたな、か。どんな言葉が出るかは会ったときに分かる。
シンクは歩き出した。災厄の黒色破壊光線でズタズタになった地面をたどれば、自ずと辿り着くだろう。
ふと空を見上げる。夜が明けて陽が出てこようとしていた。掌に視線をやる。一時的に魔力を失った身体は何とも頼りなく思えた。
ただ生きている。僕たちは生きている。ほとんど犠牲を出さずに済んだ。これが最高ではなくて何だというのか。
シンクはグッと右手を握りしめた後、英雄のもとへ歩き始めた。
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