第88話 星女の救済
沈黙が下りる。相変わらずミリアの眼からは何の感情も読み取れない。推理小説のごとく犯人が徐々に狼狽していく姿をひそかに期待していたイケダは肩透かしを食らった気分だった。
「どういう意味でしょうか」
「犯人はマイケル氏に殺意がありました。ですが今すぐに殺す必要はありませんでした。そこで殺せるタイミングが来たら殺そうと思いました。そのタイミングというのが、コリス亭からマイケル氏とステラさん以外が不在になる瞬間です」
「それが先日だった、と」
「はい。逆に言えば、私が最後まで室内にとどまっていたら、事件は起きなかったのではと推測しています」
タラレバばかり考えてしまう。あの夜受付の前を通らなければ、変な時間に寝なければ、クラリス団長との約束を果たしていれば。すべては後の祭りだ。
「ステラがコリス亭にいるのは問題なかったのですか?」
「以前、彼女の母親はこう言っていました。ステラは寝つきがよく、1度寝たらちょっとやそっとのことじゃ起きないと。友人ならその事を知っていてもおかしくありません」
問題なかったと断定することは出来ない。ただ限りなく問題が発生する可能性は低かった。その状況まで持っていった。
「なるほど。あなたはステラの友達の中に犯人がいると判断されたのですね。その推理には一定の理解を覚えます。ですがなぜ私なのか。まさかステラの親友が私だけだと思っているわけじゃないでしょうね」
ミリアが疑いの眼差しを向ける。イケダはその視線を正面から受け止めた。
「ヨハンスカーレット。この名前に聞き覚えはありますか」
「…………」
「事件が起きた夜、あなたがマリスミゼルに持参したお酒です。たしか友人と飲むつもりだったとおっしゃっていましたね」
表情に変化はない。その代わりに頬がピクピクしていた。
「マスターが友人は男かと尋ねたとき、あなたは女だと言いました。私はその時、マスターが私に配慮して友人の性別を確認してくれたと思っていました。ですが実際は違った。ヨハンスカーレットは、女性から男性への贈呈用に送られるお酒でした。マスターはそれを知っていたから、男かと尋ねたのです」
イケダがその事実を知ったのは偶然だった。シンクと訪れたお店のメニュー表の説明書きとして載っていた。
一般的な知識ではない。ただお酒好きなら知っていてもおかしくない。そしてミリアは2日に1回バーに通うほどの飲酒家だった。
「なぜそんな嘘をついたのか。全てはその疑問から始まりました」
「イケダさんのいる前で、異性の友人と会っていたというのは配慮に欠けるでしょう?」
「その可能性は考えました。ただ、そうですね…………どうもあなたらしくない。普段のミリアさんなら、さぁどっちでしょう、などと言って私を惑わせるはずです」
「主観的な意見ですね」
「私とあなたとの間に客観性はありません。少なくとも私に対する態度は一貫していた」
イケダが知っているミリアという女性は、ミステリアスでありつつ誠実さも備えていた。言葉を濁すことはあってもハッキリとした嘘は聞いたことがなかった。
今思うとヨハンスカーレットと共にグラスを持参していたことも違和感を覚える。親友とお酒を飲むだけならどちらかの自宅でいい。もちろんグラスも常備されているだろう。だとしたら考えられるのはいずれかだ。外で飲むつもりだったのか、あるいはグラスが置かれていない室内で飲むつもりだったか。
「あなたに疑問の目を向けた瞬間、私はある1つの可能性に思い至ったのです。それは一見荒唐無稽のようで現実性がない。だが実現は可能。そして筋は通る」
現実性の無さは、犯人の意図した流れにそぐわないという意味の他に、心情的にあり得るのかという心理面の懸念があった。しかし他のやり方では説明がつかないため、自分の推理は外れていないと半ば確信していた。
「ときにミリアさん、あなたは遺体が発見されてから205号室に入られましたか?」
「いえ。部外者なので。近づくことさえ許されませんでした」
「そうですか。遺体はうつ伏せで右手の人差し指がピンと立っていました。人差し指の先にあったのはテーブルチェアセットでした。当初私は、保安と同じようにテーブルチェアセットを指さしていると思いました。そこに何か秘密があるのではと。ですが違ったのです。彼は何かを指さしていたのではない。人差し指を使って何かをしたのです」
ミリアは僅かに眉をひそめた。思いつかないのだろう。もしかしたら何か聞かされている可能性はあったが、そんなこともなかった。
「犯人に背中を刺された後、205号室を内側から施錠したマイケル氏は、息も絶え絶えだったと思います。ただすぐには死ななかった。その前にある事をやったのです」
「なにを……」
「ダイイングメッセージ。犯人を示す何かを、自身の血を使って床に書き記したのです。人差し指だけが立っていたのはその影響でしょう」
「え……」
素の驚きだった。少なくともイケダにはそう見えた。やはり彼女は何も知らなかった。
「205号室が施錠された後、犯人はどうすることもできませんでした。部屋のカギは私が持っていました。マスターキーはコリス家のリビングにありましたが、その部屋へ続くドアが施錠されていました。窓は小さく侵入できそうもありません。だから犯人は、部屋の中でマイケル氏が息絶えることを祈ってその場を立ち去りました。室内で起こっていることも知らずに」
「えと、ごめんなさい。よくわからないのですが、ダイイングメッセージが残されていたとしたら、犯人が捕まっていないのはおかしいと思います」
「おかしいですね。保安員がダイイングメッセージを発見した様子もありませんでした。何故でしょう?答えは1つです。メッセージが消されたのです」
「消された?どうやって?」
「遺体近くの床に黒いシミのようなものがポツポツとありました。ローラさんは前からあったかもしれないと供述したようですが、あり得ません。断言できます。なぜなら私は205号室にいる間、ベッドを使用せずに床で寝ていました。つまり就寝前後で何度も床を見ていたのです。黒い斑点は間違いなく事件によって生まれたものです」
日頃の謎習慣がこんなところで役に立つとは思わなかった。野宿経験が意外な形で生かされた。
「黒い斑点がメッセージを塗り潰したのは確実です。では斑点の正体は何か。私は1つの可能性に至りました。実際にボボン王国第一騎士団の騎士団員に確認したところ、ほぼ間違いないと返ってきました」
「その正体とは?」
「火魔法です」
相変わらず表情筋に変化はない。ただイケダには彼女が少し笑ったように見えた。
「残念ながら私は火魔法が使えません。証拠を隠滅する機会という意味でも皆無です。それでもまだ私が犯人とおっしゃいますか?」
イケダはテーブルを人差し指でトントンしながら、何気ない口調でつぶやいた。
「あなたではありません」
「うん?」
「あなた以外の人物が、ダイイングメッセージを消去したのです」
「何を言って………………」
気づいたようだ。今度こそ表情に変化が訪れる。それは驚愕、もしくは苦悶にも見えた。
「被害者本人でもありません。彼も同様に魔法は使えないとパーティメンバーから聞きました。では誰か。1人だけ、手段、機会ともに条件に当てはまる人物がいます。お分かりですね?」
ミリアは首を横に振った。構わずその名を告げた。
「ステラ・コリス。彼女がダイイングメッセージを隠滅しました」
「うそ。ありえない。だって」
「宿に滞在中、ローラさんが火魔法を使用する瞬間を目撃しました。魔法は遺伝による部分が大きいです。娘のステラさんが使用できても不思議じゃない」
「機会とか手段とか、そういうことではなくて。ステラは、恋人が死んでいる場面に出くわしたのですよ。そんな、証拠を隠すなんて心情的に無理です。しかも犯人を示すメッセージを消すなんて。気が狂っているとしか思えません」
ステラから向けられた憎しみのこもった眼を思い出す。あれが演技だったとは思えない。思えないが、演技でなければ説明がつかない。
「彼女の心の機微は分かりません。ただ供述内容と状況証拠から考えるとこうなります。事件当日の朝9時、ローラさんより205号室から何の反応も返ってこないことを聞いたステラさんは、マスターキーを持って同室へ向かいました」
この時点ではまだ何も知らなかったはずだ。珍しく寝坊した宿泊客を起こしにいっただけだった。
「205号室を開けた瞬間、男の死体が目に飛び込んできました。服装や体型、横顔からマイケル氏だと分かりました。彼女は悲鳴を上げそうになります。しかしその直前に彼の残したダイイングメッセージが目に入りました。そこには彼女の親友の名前が刻まれていたのです」
わざわざ暗号化したり特定のヒトしか分からないようなキーワードを使用する必要はない。素直に「ミリア」と書かれていたのだろう。
「ステラさんの頭の中はグチャグチャになりました。ただ混乱しつつも大体の状況は理解されたはずです。親友が彼氏を殺したのだと。その時の彼女の心は誰にも推し量ることができないでしょう。最終的には火魔法でメッセージを消して、親友を守る形をとりました」
黒い斑点は205号室の他に203、204号室にもあった。恐らくはステラがカムフラージュのために付けたのだろうとイケダは推測した。至る所にシミがある宿だと思わせるために。
だが違和感は残る。果たしてコリス夫妻は床のシミを見て何とも思わなかったのだろうかと。ローラは保安に対して曖昧な回答を返した。その部分だけで判断するなら気づかなかったといえる。
しかしそれが誰かをかばうためだったと言われても納得は出来る。
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