第84話 砂上の蜃気楼

 目の前の男は行き詰っている。少なくともシンクにはそう見えた。


 リミットまでは残り2日。明日、明後日でイケダの進退が定まる。だというのに今日も大した成果はなかった。正面から聞こえるため息の回数が異常に多い。


「やはり素人が保安の真似事をするのは難しいかもしれませんね」


 弱音を吐いた。自分の前では初めてかもしれない。それほど追い込まれているのだろう。


「真犯人が誰か見当もついていないのですか?」


「………何人か容疑者候補がいますよね。ステラさん、ステラさんのお父さん、203号室の人、204号室の人、それと漆黒の顎のメンバー。いずれもアリバイはありません。犯行は可能でした。ただ……それだけ、それだけなんです」


 そう言うとグラスのお酒を一気に飲み干した。アルコール度数は低くない。大丈夫だろうか。心配しつつもボトルから彼のグラスに酒を注いでやる。


「それだけとは?」


「動機です。マイケル氏を殺したくなるほど恨みを持っていた人物がいるとは思えないんです。かろうじてステラさんのお父さんは可能性もありますが、それだって親心の延長です。殺意を持っていたとは思わない。まぁ調査不足と言えば――」


 シンクは思わず手を振ってストップさせた。


「いや待ってください。動機云々の前に解決すべき問題があるでしょう。密室の謎です。そこを何とかしないと犯行が可能だったなんて言えないですよ」


 あぁそんなことか、とでも言うようにイケダは小さく首を振った。


「密室は問題ありません。どうとでもなります。私の部屋に遺体があった理由についても、強引ですが説明できます。なので誰でも犯行が可能だったというのは間違いじゃありません。やはり問題は動機です」


「どうとでもなるって…」


 一番の障害と思われていた密室だったが、既に何らかの解法にたどり着いていたようだ。反射的にその内容を確認しようとする。しかしそれよりも早くイケダが口を開いた。


「クラリスさんはどうですか?」


「え?どうって」


「彼女が犯人とか」


「は、は?いや、えーと、は?」


 はじめは何を言っているか分からなかった。分かった途端、混乱した。目の前の男はいったいどういうつもりで彼女の名前を出したのだろう。意味は分かったが意図は読めなかった。


「団長はあなたが助かるために尽力してくれたのですよ。そんな人を疑うなんてあり得ない」


「そう、そこです。あり得ないんです。だからこそあり得るのです。私の疑いから外れるために敢えて助けてくれた、とは思えませんか?」


「思わない。彼女が犯人なら、そのままイケダさんを強制労働施設に行かせてよかったはずだ」


「いやだから、裏の裏というか。こういうときって、もっとも疑わしくない人物が犯人だったりする――」


「イケダさん。私まで敵に回したいのですか?」


「…いえ」


 やっと黙った。さらに追い打ちをかけようかと思ったがやめた。ここでクラリスの素晴らしさを語っても仕方がない。


 無言で料理を口に入れる。肉と海鮮の炒め物だ。シンクが夕食に選んだお店は酒種が豊富な飯屋だった。お酒に会う料理の品揃えも抜群だ。普段なら舌鼓を打つところだが、今日に限っては事件のこともあり美味しさは半減していた。


「足りないですかね…?」


「え?」


 聞き直す。まさかまだクラリスの話をするつもりだろうか。


 その疑惑が表情に出ていたのだろう。イケダは苦笑いを浮かべながら手を振った。


「私は私以外のヒトがマイケル氏を殺害できたことを証明できます。それだけだと身の潔白として不十分でしょうか?」


「不十分ですね」


 間髪入れずに答える。少しは落ち込むかと思ったが、「やっぱり?」と言ってお道化ただけだった。


「あなたが生き残る道は2つです。自身が犯行に及べなかったことを証明するか、自分よりも疑わしい人物を立てるかです。そして後者に関しては、状況的にも動機的にも最大に疑わしいイケダさんを超える人物を指名しなければなりません。すなわち真犯人の特定です。第三者による殺害実行の可能性を証明しただけでは何も変えられません」


「ちぇっ!」


「それ口で言う人初めて見ましたよ」


 追い詰められている。それは確実だった。残り2日で犯人を特定するには、誰か1人に絞って調査する必要がある。しかし先程の話を聞く限りでは絞るための材料さえない。


 お手上げだ。少なくともシンクにはここから逆転する方法など思い浮かばなかった。




 打開案は出ない。その代わりに酒量だけが増える。既に2人で3本のボトルを開けていた。


「………ああ、無くなりましたね。次のお酒決めていいですよ」


 イケダにメニュー表を手渡す。彼は「ビューティフルドリーマーあるかな」などと言いながらパラパラ開く。


「あら。説明書きがあるんですね。丁寧だなぁ」


「料理の方にも書いてありますよ。お酒と一緒に注文しちゃってください」


 再びパラパラとめくりだした。次の1本で最後かなと思いながら窓へ視線をやる。夜の7時ごろだとまだまだ往来は激しい。マリスの眠りは遅い。


 残り2日。改めてその短さに恐怖を覚える。そもそも7日で事件をひっくり返すなど土台無理な話だったのだ。


 確かにイケダは保安員と着眼点が異なる。言い方を変えれば面白いモノの見方をする男だ。しかしそれだけだった。身の潔白を証明するまで至っていない。


 クラリスも見誤ることあるのだなと別の関心を覚える。数年の付き合いになるが、今までの言動で大きな間違いはなかった。ほぼ完璧と言っていい。特に人を見る目は抜群だった。


 初めて彼女の人間らしい部分が見れそうだと頬を緩める。恋愛感情はないものの上司と部下の関係を深めることに忌避はない。陰でアイスドールと呼ばれる相手なら猶更だ。


 窓に映る自分の顔を見てハッとする。唐突に笑い出した男は気味が悪いに違いない。イケダからも奇異の眼を向けられているだろう。


 なんと言い訳しようか考えながら正面に視線を戻す。彼はいまだメニュー表に目を落としていた。


 様子がおかしいと気づくのに時間はかからなかった。焦点が合っていない。彼はメニュー表を見ているようで見ていなかった。


「イケダさん?」


「…………まさか」


 メニュー表をパタンと閉じる。右手の親指でおでこを支えた姿勢のまま、左手の人差し指でテーブルをトントン鳴らし始めた。一定のリズムを刻んでいる。


 声を掛けられる雰囲気ではなかった。大人しく待つ。



 時計を見上げる。長針にかかっていた数字が2つほど増えていた。ふとテーブルを鳴らす音が消えていることに気づく。正面へ視線を戻す。彼と目が合った。


 今までに見たことがないほど真剣な表情を浮かべていた。


「明日までに用意していただきたいもの……いや、ヒトがいます。騎士団ならば1人はいらっしゃるでしょう」


 そう言っておもむろに立ち上がった。


「条件を言ってくだされば可能だと思いますが。帰るのですか?」


「ええ、今日はそろそろ休みましょう。明日は忙しくなります」


 会計札を持って歩き出した。シンクも急いで後を追い、彼の手から札をひったくる。流石に容疑者からご馳走になるわけにはいかない。


「犯人が分かったのですか?」


 敢えて直接的な表現を使った。イケダは歩みを止めて振り返った。


「いいえ。ただ……」


「ただ?」


「明日の調査結果次第では、限りなく1人の人物に絞ることができるでしょう」


 そう零した彼の顔からはどんな感情も読み取れなかった。

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