第79話 どちらかが彼を殺した

 イケダが供述書から顔を上げた。読み終えたようだ。この事件に関する彼の意見を聞いていない。少しつついてみようとシンクは口を開いた。


「もしもイケダさんが殺していないとすれば。次に疑わしい人物はステラさんに間違いありません。彼女なら何の障害もなくマイケル氏を殺害できるでしょう」


「ええ、だからこそです」


 シンクは眉をひそめた。


「だからこそ?」


「だからこそ彼女も殺していないと思います。彼女が犯人だとしたら、あまりに無防備すぎる」


 頷く。


「アリバイはありません。マスターキーで205号室を施錠することも出来た。犯行は可能でしょう。ただ、それだけです」


「アリバイ?」


「あ、えーと、犯行時間、現場にいなかったことを証明できないという意味です」


 ステラは容易にマイケルを殺すことが出来た。それは誰が見ても明らかだった。


「衝動的殺人とは考えられませんか。だからアリバイ?を用意する時間が無かった」


 イケダは首を横に振った。


「もしも衝動的に殺したとして。自分への疑いを逸らすのが目的なら、わざわざ私の部屋に遺体を置く必要はありません。マイケル氏の部屋、もしくは廊下に放置すれば流しの犯行と錯覚させられるでしょう。まぁ私に恨みを持っていたというなら、話は変わってきますが」


 苦笑を浮かべながらもう一度首を横に振った。


「供述にも違和感がありません。自分を取り繕うことは無く、私に疑いの目を向けさせる意思も感じられませんでした。ありのまま話されているように思います」


「同意です。私も彼女が犯人だとは思えません。視点を変えましょう。遺体はイケダさんの部屋にありました。犯人はマイケル氏とイケダさん、両方に恨みを持つ人物となるでしょうか?」


「その可能性は高いです。ただ私はマイケル氏を知らなかった。未だに顔さえ分かりません。マイケル氏が私を知っていたとも思えません。マリスでは目立った行動を控えていましたから。犯人だけが私ともマイケル氏とも知り合いだったことになる。そんな人物は1人しか思い浮かびません」


 シンクも同じ人物を思い浮かべた。だが彼女については、つい先程イケダとの会話で容疑者から容疑者候補に格下げしていた。


 イケダは思案顔を浮かべながら「ただ…」と続けた。


「マイケル氏の遺体が私の部屋にあった理由はもう1つ考えられます。もしもその考えが当たっていたら、犯人の特定は一気に困難を極めます」


 シンクにも1つの考えが浮かんだ。だがそれはある条件が必須だった。


「イケダさん……もしかしてあなたは、事件当日に自室を出る際、カギを掛けていなかったのですか?」


「お手洗いに行っただけだったんですよ。それが変な音を聞いた影響で、どうしようもなく夜の街へ繰り出してしまったわけで」


 手持ちの書類からイケダの供述調書を探す。あった。該当の箇所を探す。それ程時間を掛けずに見つけた。確かに施錠していなかったと供述している。


「なるほど。だとしたら、そうか。205号室に入ること自体は誰にでも出来たのですね」


「ええ」


 イケダは再びステラ・コリスの供述調書をペラペラめくった。しかし目を通しているようには見えなかった。その行為をしながら何かを考えているようにシンクの目には映った。


「2階の廊下で血痕は確認できましたか?」


「え、ああ。いえ、血の跡は見つからなかったようです」


「そうですよね。自分もさっき歩きながら見ていたのですが、発見できませんでした。そうなると、うーん……」


「血痕は廊下だけでなく201号室からも見つかりませんでした。唯一発見されたのが205号室だったのです。この点から保安は205号室でマイケル氏は殺害されたと推定しています。イケダさんが一番に疑われるのも無理はないでしょう」


 イケダは口で「ぐぬぬ」と言った。どういう擬音だろうと思いながらシンクは手元の資料に目を落とした。


「えーと、そうだ。たしか私の犯行手順を想定した資料がありましたよね。いま持ってます?」


「あります。それ程長くないので読み上げましょうか?」


「お願いします」


「事件当日。イケダは小水のため深夜に目覚める。1階受付前を通った間際、コリス家リビングの様子からステラ氏とマイケル氏が交際していることを知る。ステラ氏に思慕の念を抱いていたイケダは衝動的にマイケル氏を殺害することを決意する。イケダは自室から包丁を持ち出し、1階の物陰に身を隠した。このとき彼はコリス亭の外でマイケル氏を殺害するつもりだった。しかしマイケル氏はリビングを離れた後、2階の201号室に入った。イケダはここで予定を変更し、自室におびき寄せて殺すことに決めた。201号室を訪れ、ステラ氏に関して話があると言って205号室に誘う。マイケル氏を先に入室させ、その背中へ向けて包丁を振り下ろした。殺害後、イケダは何食わぬ顔でマリスミゼルを訪れた。その後は知人であるミリア氏の家で一夜を過ごす。朝、事件の様相が気になったイケダはコリス亭を訪れ、保安員に捕縛された。以上です。なお上述はイケダさんの供述内容と現場状況から作成されたようです」


「はぁ」


 イケダは苦笑いを浮かべていた。


「資料上の私は論理的でない行動ばかりとっていますね。説明がつかないこともいくつかありますし」


「具体的には?」


「なぜ包丁を持っていたか。なぜ自室で殺したか。なぜ殺害後に施錠したか。なぜマリスミゼルへ向かったか。なぜ犯行現場へ戻ってきたか」


「うん。確かに論理的とは言えませんね。ただ説明不可能かと言われると、そうではない。保安のつじつま合わせは一級品です。最終的にはおおよそ納得できる犯行手順書を作り上げるでしょう」


「そうでしょうね……はぁ」


 証拠能力で言えば自供が最も強力であり、次に物的証拠、その次に状況証拠となる。本事件の場合は自供が無く物的証拠も見つからない。だが状況証拠はほぼ完璧だった。完璧というのは1人の人物を指しているという意味だ。そして動機の部分もクリアしている。


 保安課長が余裕綽々だったのも頷ける。クラリスは分の悪い賭けだと知っていたはずだ。なぜ受けたのだろう。シンクは未だにその理由が分からなかった。


「あー………よし。状況の悪さを嘆いていても仕方ないですし。やるべきことをやりましょう。たしかステラさんのお母様の調書も取ってあるんですよね。見せていただけますか?」


「ええ。少々お待ちください」


 考えても分からないことは考えない。それがシンクのやり方だった。彼は書類束の中からローラ・コリスの供述調書を探し出すと、イケダに手渡した。

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