第75話 裏取引

「正気か?」


 保安課長は訳が分からないといった表情を浮かべた。


 保安課長の正面にクラリスが座り、その隣にシンクが控えていた。イケダへの取調べは一旦中止されている。


「ええ。彼自身に捜査権を譲渡いただきたい」


「被疑者を野放しにしろと?」


「レイをつけます」


「はぁ。確かにレイ副団長は信頼に値する人物だが…」


 クラリスは背筋をピンと立てて保安課長を見据えている。この人が姿勢を崩す姿を見たことがない、とシンクは思った。


「ならばレイ副団長自ら捜査に当たってはどうだ?それだったら何の障害もない」


「そこまでする義理がありません」


「は?だったら被疑者自ら捜査に当たらせる義理もないだろう」


「あります。彼は第一騎士団のパーティに属しています。ギルドに確認頂いて構いません」


 思わず隣へ視線を向けそうになるのをグッとこらえる。初耳だった。シンクも聞かされていなかった。そもそもクラリスの話ではイケダの同意を得られていないはずだ。先んじて所属だけでもというのは彼女らしくない。手続きには厳格だ。


 考えられることは1つだった。事件発覚直後に冒険者ギルドへ秘密裏に依頼したのだ。事件発覚前からイケダがパーティーへ属していたことにしてくれと。懇意にしているアレックスにお願いしたはずだとシンクは見当をつけた。彼なら実現可能だし、「しょうがねえな」と言いながらもやってくれそうだった。


「我らが捜査するのはやり過ぎです。しかし彼自らが捜査するならば協力することも吝かではありません。同じパーティのメンバーですから」


「そうかぁ?」


 保安課長は首をかしげている。シンクも同じ思いだった。論理展開が強引すぎる。どうしてもイケダに捜査させたいらしい。そこに彼を助けようとした理由があるかもしれないとシンクは頭を巡らせた。


 保安課長はテーブルを人差し指でトントンしながら右上隅に視線をやる。どうするのが最善か考えているのだろう。彼は小さく息を吐いた後、再び正面へ視線を戻した。


「まぁいい。何か思惑があるんだろうが知らないし知りたいとも思わない。そもそも貴方達も関わったから分かると思うが、ここマリスは事件が絶えない。毎日誰かしら死んでいる。1つの事案に掛かりっきりでいられない。ましてやこんな簡単な事件はさっさと終わらせたいんだ。調べたいと言うなら調べろ」


「感謝します」


「ただし。期間は7日。それを過ぎても被疑者の潔白が示せなければ牢にぶち込む。状況証拠のみだがやむを得ん。いいな?」


「十分です」


「それと」


 中指でテーブルをトントンする。クラリスを見つめる瞳からは怪しさが感じられた。


「これだけの便宜を図るんだ。何かしらの対価がなければ割に合わん」


「保安には何度も協力しているはずですが」


「協力金は払っている」


「ではこちらも払いましょう」


「捜査権を譲渡するなんぞ裏取引だぞ?金の授受が認められれば懲戒処分は免れん。形に残らないものがいい」


 瞳の怪しさが増した。彼の要求は明らかだった。


 以前から下卑た目をする男だとは思っていた。だがこうも真正面から言ってくるとは驚きを通り越して怒りさえ覚える。


 クラリスの美貌は世界共通だ。それでいてスタイルもいい。頭も抜群だ。惚れない方がおかしいとさえ思える。


 シンクは抗議しようと立ち上がった。しかしクラリスに左腕で制されてしまった。保安課長を睨みつつ腰を下ろす。クラリスはシンクの様子を横目で確認した後、正面の男へ無表情を向けた。


「いいでしょう」


「団長!?」


「ただし、彼の潔白が証明された場合は無しです。捜査ミス、捜査不足を暴露されたくないでしょう?」


「ふん。それでいい。どうせ何も変わらない。犯人は奴以外ありえん」


 クラリスは無言で保安課長を見つめた。その横顔からは何の感情も読み取れなかった。




 ★★★★




「なぜあんな約束を交わしたのですか」


 先程と同じ部屋だった。保安課長はいない。テーブルの上にはイケダがいる取調室のカギと臨時の保安員手帳、そして関係者から収集した調書が置かれていた。


「具体的な言葉は口にしていない。いくらでも言い逃れできる」


「奴は納得しませんよ」


「その時は………まぁ、胸を触らせるくらいならいい」


「団長!」


「冗談だよ。私のことでも怒るんだな」


 クラリスが表情を和らげる。彼女が誰を指して言ったのか分かっている。だが敢えて無言で睨み続けた。クラリスは肩をすくめる仕草を見せた後、再びキリッとした表情を向けてきた。


「お前も事件概要を読めば気づくと思うが、事件は9割方解決している。あとは確証が出るか自白させれば終わる。保安課長が簡単な事件と言ったのはそういう意味だ」


「はい」


「残り1割をどう生かすか。全ては彼の手に委ねられる。お前は第三者として若干の協力をするだけでいい。失敗しても構わない。そもそも成功するとは思っていない。だがもしも、彼が自らの潔白を証明できたなら……」


「できたら?」


「…………」


 彼女は小さく笑った。その先の言葉も全てが終わってからということだろう。せめてもの抗議とシンクは首を大きく横に振ってウンザリした表情を見せた。


 クラリスが徐に立ち上がる。


「さて。私は行く。何かあれば連絡してくれ。彼がお金に困っているようなら、いくらか渡してやれ。その分は後で払う」


「分かりました。副団長としての仕事ですが……」


「私が兼任する。レイは本事件に集中してくれ。他は?」


「ありません」


「よし。では頼んだぞ」


 クラリスが去る。打合せ部屋にはシンクだけが残された。彼はもう1度大きくため息をついた後、テーブルのモノを全てかき集めて部屋を出ていった。

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