第72話 落日

 快適とは言えない状態で目が覚めた。口の中には甘ったるさが残っている。頭も痛く身体は怠い。全ては酒の飲み過ぎが原因だろう。


 ぼやけ眼を右手でこすりながら上半身を起こす。支え手に妙な感触があった。見る。白いシーツだった。更によく見る。シーツが敷かれた布団だった。


 予想だにしない状況に脳が覚醒する。俺は普段床に直寝している。寝具は使用しない。そして、たとえ酔って寝る場所を間違えたとしても、それはベッドの上でなければならない。何故ならコリス亭の部屋には敷布団が存在しないからだ。


 室内を見渡す。やはり見慣れない景色だった。6畳ほどの部屋にタンス、勉強机、本棚が置かれている。それ以外は何もない。


 掛け布団をめくり、立ち上がる。眩暈を覚えた。酒が残っているようだ。昨日はどのくらい飲んだか。記憶にない。クラリス団長と入れ違いでミリアが来たところまでは覚えている。それから何があったのだろう。記憶を無くすほど飲むなんて大学時代以来だ。


 頭を押さえながら一歩踏み出す。それと同時に正面のドアが開いた。顔を出したのはなんとミリアだった。


「あら。起きたんですね。おはようございます」


「おはよう、です。えーと」


「とりあえず顔を洗って朝食にしましょう。時間的には昼食になるかもしれませんが」


「はぁ。いや、その」


「洗面所はこちらです。どうぞ」


 ミリアは笑顔だった。その顔を見て思った。とりあえず彼女に従っておけば問題ないと。




 ★★★★




「………つまり、泥酔した私を海鮮山鮮亭まで運んでくれたということでうね」


「ええ。マリスミゼルには置いて行けないし、コリス亭までは距離があって運べそうにないということで、比較的近所のうちに連れていくことにしました。マスターも手伝って下さいましてね。後で挨拶に行った方がいいですよ」


 お椀に入ったスープに口を付ける。美味しい。シジミ風味の海鮮汁だ。二日酔いの身体に染み渡る。


「もちろんですよ。ただそれ以上にミリアさんへごめんなさいとありがとうです。ご迷惑をおかけしてすみませんでした。それと介抱して頂きありがとうございます」


「いえいえ。あまりに飲みっぷりが良いから、調子に乗って何杯も勧めた私にも責任はありますから。気に病む必要はありません」


「そう言って頂けるとありがたいですが、うーん……」


「どうしても納得できないというのなら、そうですね。貸し1つということにしておきましょう」


 人差し指を1本立てる。その向こうに見えたのはいつもの微笑みだった。


 彼女の方からそう言ってくれたのは有難かった。当人が気にしなくても俺が気にしていた。今後会うたびに負い目を感じていただろう。貸しを1つと明確にしてくれたことで余計な気配りをせずに済む。


 朝食を取っている場所は2階の一室だった。いわゆる居間だ。海鮮山鮮亭の建物は1階がレストランスペースで2階がシーフード家の居住スペースとなっていた。


 普段は昼も営業しており、この時間から開店準備で動き回っているようだ。今日は前日の観光ツアーを鑑みて夜から営業らしい。どうせ昼は皆寝ていると。


「お母様は自室にいらっしゃるのですか」


「買い出しに行ってます。仕事人間なので。イケダさんのことは伝えているので大丈夫ですよ」


 魚の切り身を一切れつまむ。程よい塩気があって美味しい。朝食は全てミリアが用意してくれたそうだ。綺麗で気立ても良くて料理も出来る。非の打ち所がない。


 ミリアはお母様に俺の事を何と言ったんだろう。友人か知人か。彼氏ではないはずだ。気になる。


「と言っても、私もこの後仕込み作業があるんですけどね」


「仕事人間ですね」


「お母さんの娘ですから」


 漬物に箸をのばす。パリポリ。歯ごたえが充実していて美味い。コリス亭の朝は洋食ばかりだった。たまには和食もいい。


「では私も、これを食べ終えたらコリス亭に戻ります」


「そうしてください。この時間まで姿を現さない宿泊客を、ステラも心配しているでしょうし」


 チャカチャカと食器の音だけが響き渡る。無言だ。それを苦に感じない。寝ぼけ頭という理由もあるだろう。ただ良い兆候だと思う。沈黙にストレスを感じない関係は友人以上になる可能性を示していた。


 その後。食事を終え、あらためて感謝を伝えた後、開店前の海鮮山鮮亭から辞去した。



 ★★★★



 第一印象は何やら様子がおかしい、だった。


 大通りはいつも通り混雑している。その中でもひときわ人だかりが出来ているお店があった。コリス亭だ。


 お昼時に宿へ人が集まる理由は思いつかない。俺のいない間に何かがあったんだ。


 焦る気持ちを抑えながら早足で駆け寄る。すみませんを連呼して人混みをかき分けた。入り口が視界に入る。ドアの前にしゃがみ込む女性と彼女を心配そうに見つめる男女、その3人を取り囲む数人の男性が見えた。


 3人のうち2人は見覚えがあった。ステラと母上だ。母上の隣にいる男性も見当がつく。母上の旦那、ステラのお父さんだろう。


 おもむろにステラが頭を上げる。酷い顔だった。眼は真っ赤に充血しており、頬には涙の痕がある。泣き腫らした後だろう。


 彼女はぼんやりと周囲の人だかりを見つめていた。ふと何かに気づいたように焦点を一か所に定めた。視線の先にいたのは俺だった。


 驚き、そして困惑、憐憫、最後には怒りを秘めた顔で人差し指が向けられた。ステラたちを囲っていた男性たちが一斉に動き出し、今度は俺を囲んだ。異常な速さだった。


「タカシ・イケダだな」


「え、はい。あなた達は……」


 一瞬だった。両手首を押さえつけられ鉄の輪を嵌められる。男は鋭い視線で決定的な言葉を発した。


「貴様を殺人の容疑で逮捕する」


 ゴクリと唾を飲み込む。


 ボーン、ボーンと12時を示す鐘の音がいつまでも耳の中で反響していた。

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