第70話 ペルソナ
ホワイトロード観光ツアー当日。天気は大快晴だった。これなら夜のツアーも素晴らしい景色が期待できるだろう。
俺はコリス亭の自室にいた。床に直で寝そべって天井を見上げている。
本来ならゴブリン狩りに勤しんでいる時間だ。だが足は動かない。ここ数日はルーティンをサボっていた。
ゴブリンを狩ること自体に忌避はない。問題はその後だ。実は未だ受付おじさんに謝罪できていなかった。しようしようと思いながら時間が過ぎてキッカケを失ってしまったのだ。
別の受付も駄目だ。100個以上のゴブリン耳に怪しげな視線を向けてくる。注目されるということは変な輩に絡まれるのと同義だ。おじさんだけなら影響範囲は小さかった。だが他の受付嬢もとなるとそれも危ぶまれる。今の平穏を壊したくない。
つまるところ無職生活を謳歌していた。幸いにも連日のゴブリンスレイヤーで稼いだお金は残っている。あと1週間は働かずとも生活できるだろう。
「あー」
今日はどうしよう。ホワイトロード観光ツアーがある。しかし一緒に行く相手がいない。ステラは店番でミリアには断られた。他に男女の知り合いはいない。
「はぁ」
寂しくなってきた。セレスは今どこにいるのだろうか。彼女に会いたい。寂しいなぁ。風俗行こうかなぁ。多少の寂しさは紛らわせられるだろう。しかし性病が怖い。どうせスキンも存在しないだろう。
「あぁ」
ゴロンと寝返りを打つ。相変わらず綺麗な床板だ。ホコリ1つない。掃除が行き届いている証拠だ。ありがとう母上、ありがとうステラ。
目を閉じる。睡魔は訪れない。目を開けて再び閉じる。それをひたすら繰り返す。
俺の意識はいつの間にか落ちていた。
★★★★
目を開ける。何も見えない。ゆっくりと上半身を起こす。窓から月夜の光が覗いていた。
どうやら変な時間に眠って変な時間に起きてしまったらしい。何時だろうか。体感的には0時を過ぎている。
膝に手を当てて立ち上がる。まずはオシッコだ。その後はどこかへ食事に行こう。適当な店が見つからなければマリスミゼルでもいい。たしか軽食を出していたはずだ。
扉を開けて2階廊下に出る。物音1つしない。ヒトの気配もない。どうやらステラが言っていた通り、宿泊客は全員観光ツアーへ出かけたようだ。
階段を1段1段ゆっくり降りる。トイレは共同のものが1階にあった。
1階もヒトの気配は皆無だった。受付の前を横切ってトイレへ向かう。
「…………?」
振り返る。今のは何だろう。妙な違和感を覚えた。周囲をキョロキョロと見渡す。食事会場、トイレへ続く道、1階客室へ続く道、玄関、受付。
「………」
受付で目が留まる。正確にはその奥にある扉、コリス家の居住スペースだ。引き寄せられるようにバックヤードへ続くドアに近づく。
ドアノブには触れず、そのまま扉に耳をくっつける。
最初は何も感じなかった。次第にヒトの声のようなものが聞こえてきた。女性の声だ。それも聞きなじみがあるような気がする。
確信が持てなかった理由は2つある。1つは扉越しのため聞き取りずらかったこと。そしてもう1つは、日常では決して聞けない類の声を発していたからだ。
「……………」
いやいやまさか。そんなことはないと思いつつも、1人きりであることを願って、更に耳を澄ませる。
断続的に聞こえる女性の声。その合間に小さなノイズが走る。ノイズの正体は明らかだった。ドアから耳を離して静かに息を吐く。
尿意はすっかり失せていた。
★★★★
音を立てないよう注意してコリス亭を出る。大通りからも普段の喧騒は消えていた。観光ツアーの影響だろう。
何時間も眠ったはずなのに疲労はピークに達していた。身体は重く心も重い。意識さえ希薄だ。いま歩いているのか立ち止まっているのかも分からない。
母上とステラとの間で交わされた会話を思い出す。観光ツアーの日に1つだけ部屋が予約されていると言ったステラに対し、母上は呆れた声を上げていた。ステラは執拗に観光ツアーへ参加するよう俺に勧めてきた。結論は出ていた。
ステラには彼氏がいた。母上もその存在を知っていた。ステラは観光ツアーで皆が出払っている隙に彼氏との逢瀬を楽しむ計画を立てていた。予約していた部屋は彼氏が寝る部屋だろう。両親が帰ってきたときに2人きりでステラの部屋にいるのは都合が悪いと思ったか。
気が付くとマリスミゼルの前に立っていた。ドアを押し込んで中へ入る。
「いらっしゃい……あらタカ坊じゃないか」
「前はイケ坊と言ってましたよね」
「どっちでもいいじゃないのさ。っていうかなんちゅう顔してるのよ。だれか死んだ?」
店内を見渡す。ここにも観光ツアーの影響が出ている。普段は10数人いるが今日は4人だけだった。いつも座っている席が空いていたので腰を下ろす。
「ウィンターアゲインください」
「そんな酒ないよ」
「じゃあビューティフルドリーマーを」
「あいさ」
そっちはあるんかいと心の中でツッコミを入れる。軽食も一緒に頼もうかと思ったがやめた。尿意だけでなく食欲まで失せている。
お酒を用意する姿をボーっと見つめる。彼女の向こう側、つまりコの字カウンターの手前側にも客が座っていた。フードを被っていて顔は見えない。とてつもなく綺麗な姿勢でお酒のようなものをちびりちびり飲んでいる。
「ほいどうぞ。んで何があったの?」
一口あおる。カクテル系だった。爽やかな風味が鼻の奥を突き抜ける。美味しい。目覚めた朝に誓いを立てそうだ。
「説明が難しいのですが、その、見えないモノを信じる強さが欲しいというか、見えるモノを疑う弱さに辟易したというか」
「は?」
「私が見ていた世界はそのヒトの一部でしかなくて、本質はもっと別のところにあって。なんて自分は盲目だったのだろうと思いつつも、何で言ってくれなかったんだと相手を責める気持ちもあって、またそれに自己嫌悪して。とにかく落ち込んでいます」
声は店内中に届いていた。今日という日に限って無口な客が多い。支離滅裂な説明を彼らの耳に届けることに羞恥を覚える。一方でどうでもいいと投げやりにもなっている。
マスターは「ふーん」と吐息を漏らした後、カウンターに両肘をついて同じ目線で話しかけてきた。
「浮気されたってこと?」
ギョッとする。ほとんど正解のようなものだ。抽象的な表現しか使っていないにも関わらず言い当てられた。やはりバーに勤める老齢は経験値が違う。
「いえ、そうではないのですが。なんて言ったらいいんでしょう。恐らくほとんどの異性に同じ態度を取っているにも関わらず、あたかも自分だけ特別扱いを受けていたと勘違いした結果、余計な失望を味わってしまった。そういうことかなと」
「ああ。好きな相手に彼氏がいたってこと?」
「いや。好きだったかと聞かれると……」
「しゃらくせえな!!」
カウンターを平手でバン!と叩いた。その表情は怒りに満ちている。
分からない。こういう場所のマスターは客の話を親身に聞いてくれるものではないのか。確かに俺の話は婉曲的で煮え切らない。しかしあまりにキレるのが早すぎる。
再び店内は静まり返った。時計が針を刻む音しか聞こえない。マスターはぷんすか怒っている。俺は何を話していいか分からなくなった。
視線を彷徨わせる。4人掛けボックス席に1人で座るおじさんは、グラスの中の氷をジーっと見つめている。コの字カウンター席の真ん中を占拠する2人組はどちらも酔いつぶれており、テーブルの上で舟をこいでいた。
「…………思い通りに行かない世の中だ」
沈黙が破られた。綺麗な声だった。通りも良く耳にスゥっと入ってくる。出所は正面だ。マスターではない。その向こうのフードを被った客だろう。
「誰もが不平不満を押し殺して生きている。貴殿も、マスターも、私も。立場は関係ない。感情は平等だ」
「えーと」
「しかし。どんなに不幸があろうとも。どんなにつらい目に遭っても、道理に反してはならない。ときに契約は命よりも重い」
マスターに視線で訴える。彼女は首を横に振った。馴染みのない客らしい。
フードのヒトは明らかに俺へ向けて話しかけている。しかし心当たりがない。誰なんだろう。
その答えは自身の口から明かされた。
「名を知りたいと言っていたな。ついでだ。顔も見せておこう」
おもむろにフードを脱ぐ。顔が露わになる。見覚えがあった。艶やかな金髪と人形のように整った顔を忘れられるわけが無かった。
「ボボン王国第一騎士団団長、クラリス・マーガレットだ。なぜあの日、冒険者ギルドに姿を現さなかった?」
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