第四幕 決定された最後

 こうしてまた、銃把じゅうはを握る日が来ようとは。陸軍を除隊してからの3年間、俺は日雇いの仕事で食いつないできた。劣悪な労働環境で命を削る労働者階級ブルーカラー。不景気続きの霧の都ロンドンに、これほど似つかわしいものは無かっただろう。

 今の時刻は20時。朝早く、ビジネスパートナーであるネル・ニールセンから家に帰って準備するよう言いつけられた。

 その準備とは、今ロンドンを恐怖の底に陥れている連続殺人犯の確保のためだ。今日の22時、彼女と二人で犯行現場に乗り込む手筈となっている。

 一台の乗用車が、俺の前に停まった。街灯の光を受けて輝くシルバーの外装。高級感溢れる流線形のシルエット。アストンマーチンDB10と名付けられた車だ。

「お乗りください」

 車内には運転手が一人。若い女性で、どことなくネルに似ていた。

「待ち合わせ中なんですが」

「お相手は既に現場に向かっています」

 頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。彼女が言うには、ネルが俺を置いて行ってしまったことになる。

「残念なのは分かります。今乗れば間に合うかもしれませんよ」

 心底嫌だと思いながら、促された通りに車に乗り込む。

「私はマクフトです。よろしく」

「あぁ、よろしく......」

「ネル・ニールセンの助手をしているそうですね」

「はい?......まぁ、そんなとこですかね」

「私は、いえ、私たちは彼女たちを総括する組織の者です。以後、幾度となく関わることを見越してご挨拶に参りました」

「それはまあ、ご丁寧にどうも」

 ガラス越しのロンドンの夜景を背景に、不毛な会話が続く。どれほど沈黙が続いただろうか。こちらから話題を投げる。

「あの、ひとつよろしいですか」

「はい?」

「“彼女たち”とは?ネルにような存在が他にもいる、ということでよろしいのですか」

「......いつか分かる、とでも言っておきましょうか」

「はぁ」

「私たちの組織についても知りたいと思われますが......」

「えぇ。是非とも」

「それは彼女に聞いてください。流石にあの子......いえ、彼女も隠すことはないでしょう」

「そうですか......分かりました」

 1時間、1時間半、そして2時間。22時きっかりに、アストンマーチンは建設中の大学の前に乗り付けた。

「お代はいただきません。どうかご無事で」

「お送りいただきありがとうございます」

 そう挨拶し、車から降りる。夜空から吹く冷気が、小さく心を締め付けた。

「あぁ、そうだ。これを彼女に渡してください」

 マクフトから、クッションが入った紙袋を渡される。花柄の刺繍が施されていた。

「ただし、あなたからのプレゼントということで。デンドロビウムの刺繍のクッションです」

「何を考えているかは分かりませんが......渡しておきます」

 漆黒の宵闇に、鉄骨剥き出しのキャンパスがそびえ建っていた。

 ジャケット裏のホルスターに差した拳銃を抜く。複列マガジンに装填された13発の9ミリパラベラム弾は、使われる瞬間に備えて灼熱の殺意を押し留めていた。

 左手に紙袋を提げ、右手に拳銃を握ってキャンパス内に駆け込む。

 キャンパスは南棟と北棟の二棟構成で、それぞれが8階建てとなっている。今俺が侵入したのは、北棟の正面玄関だ。

「ネル、どこだ!」

 所々に設置された作業灯の光を頼りに、足音を立てぬよう気を配りながら進む。曲がり角では、拳銃を使ってクリアリングするのも忘れない。5年の軍務経験に感謝しなければ。

 1階から8階まで、どの部屋にも異常はなかった。一度降り、地下階段を探る。しかし、何十にも重ねられたバリケードは動かなかった。

 ガラスのまっていない窓から、南棟を見上げる。

 たった一つの部屋から、特に明るい光が漏れていた。作業灯ではないことがよく分かる。

 北棟の階段を駆け上がる。あの部屋と同じ6階に行けば、犯人の居場所を特定できるはずだ。最大の問題は、ネルがどこにいるかということだが......

 冷気漂う部屋は、ドアの鍵が設置されていなかった。やはりガラスのない窓枠から、中庭を挟んで向かい合う部屋がよく見えた。

 その中には、一人の初老の男と二人の女がいた。一人は、この大学の構内でさんざん探し回った女探偵。もう一人は、今回の事件で殺されると予測されていた管理職の女だった。そして二人に向かって、男は拳銃を向けていた。ソ連製の古めかしい自動式拳銃オートマチックだ。

 3人が何かを話しているが、何ひとつこちらまでは聞こえてこない。彼らの傍らのテーブルに、高級そうな紙の箱が置かれていた。チョコレートが1つ、綺麗に収まりそうな大きさだ。

「......そうか」

 思わず声が出る。あの女探偵は、俺を差し置いて連続殺人犯を捕まえようとした。その挙げ句、犯人に銃を向けられて動けないという。無論、俺が同行したからと言って、犯人確保が確実なものだったかとは言い切れないのだが。

 ネルが、男に気づかれないようにこちらを一瞥する。俺の存在に気づいているのだろう。そして、この状況を打開する物を俺が持っていることさえも。

 俺はクッション入りの紙袋を置き、空いた左手を、銃を握る右手に添える。安定させた拳銃を、南棟の一部屋に向けて突き出す。

 三人のいずれかにも当てるわけにはいかない。剥き出しの建材を撃って、犯人の注意をそらす。

 照準器越しに、塗装前の壁を捉える。

 銃弾が、話すだけで動こうとしない3人の横を通り抜けるように構える。安全装置は既に外していた。ゆっくりと引き金を絞る。

 火薬が実弾を飛ばす爆音、同時にのし掛かってくる反動。側面から排出された薬莢。夜に煌めく銃口の炎。

 周囲の音を制圧した銃声が、空の闇に消えていく。音速を優に越す速さで飛翔した9ミリ弾は、見事に壁に命中した。その証拠に、小さな弾痕が穿たれている。

 初老の男がこちらを向く。男の注意が、彼の拳銃と二人から逸れた。その隙を逃さず、ネルは男の拳銃を奪い取る。

 これぞ神速。そう言いたくなるような制圧場面を、ネルは見せてくれた。簡易分解した拳銃を投げ捨て、襟を掴むと同時に男の足を払う。カーペットも何もない床に叩きつけられた男は、抵抗する素振りを一切見せずにのびてしまった。

 ネルが振り向く。

「やったぞ!」

 俺はそう叫ばずにいられなかった。

「大したものだよ、ワトソン君......いや」

 突如吹いた風に、ネルの白衣がたなびいた。まるで、俺たちの勝利を演出するかのように。

「ストラング君!」

 彼女の声は、駆けつけたパトカーのサイレンを押し退けて聞こえた。

 拳銃をホルスターにしまい、クッションが入った紙袋を持ち上げる。

 刺繍された花、デンドロビウムの花言葉。それは、“ワガママな美女”。どこか彼女に重なる気がした。

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