第2話 茜ハウス

 茜ハウスで働き始めた七瀬の評判は上々だった。きびきびと動き回り、お客へのこまめな声かけを怠らない。彼女とのたわいもないやり取りを楽しみに、茜ハウスに通うお客が増えていった。

 竜司もその一人だった。毎日のように、ではなく毎日、夕飯を食べに茜ハウスに通った。ただし、食べ終わったらさっさと席を空けとくれと言う茜の追い出しにより、落ち着いて話をすることはできなかった。


 仕事に慣れてくると、七瀬は接客や配膳だけでなく、仕込みも手伝うようになった。すると、茜ハウスの料理はおいしくなったと評判になった。汁物、特に味噌汁は天下一の味と言われ、これは七瀬が仕込みをしているからだろうと噂された。

 常連の一人、田崎は冗談めかして茜に問いかけた。

「七瀬さんが来てから味噌汁がえろぉうもうなったね。まるで昔話の鯛女房のようじゃ。もしかして、人に言えんようなもんば入れとるんじゃなかろうね」

 鯛女房は鯛が人間に変化へんげして漁師の女房になると言う昔話だ。彼女の味噌汁は天下一の味だがその秘訣は鍋をまたいでおしっこを入れることにあった。

 茜は、かかかと笑って答えた。

「そがんことはしとらんばい。確かにあるもんば入れるごとなったばってん、そりゃあちゃんとした食べ物たい」

「いったい何ば?」

「ふふふ、そりゃあ秘密たい」

 茜は、決して秘訣を明かすことは無かった。


 七瀬と出会った日にはアタリに見放された竜司だったが、次の日以降はいつもの釣果が戻って来た。一日に鯛や平政の大物を五、六匹、中サイズを十数匹釣り上げている。

 そうしたある日、竜司が仕掛けを海に下ろし、道糸をしゃくっていると、針が根がかりをしてしまった。この辺りには岩礁は無いはずなのにと不思議に思いながら糸を引っ張ると、手ごたえとともに根がかりが外れた。糸を巻き取ると、わずかな重さを感じさせながら仕掛けが上がって来る。引き上げると仕掛けには赤紫色の海藻が絡まっていた。仕掛けを手に取り海藻を外すと、赤く輝くものがコトンと音を立てて甲板の上に落ちた。

 拾い上げるとそれは長さ五センチほどの赤珊瑚だった。緩やかに折れ曲がった本体から小さな五本の枝が出ている。日にかざすとつややかに煌めいた。

 美しい煌めきを見ているうちに、竜司にはそれが海の神様からの贈り物のように思えてきた。あの日、七瀬が海の神に捧げものをした。もしかしたらこれはその返礼かもしれない。そうであれば、これを持つべきなのは自分ではない。竜司は赤珊瑚を胸のポケットにしまい込んだ。


 その日の夕方、竜司はいつものように茜ハウスに食事に行った。夕食を注文し、七瀬が料理を運んで来ると、赤珊瑚をポケットから取り出し、手のひらに載せて彼女に見せる。

「七瀬さん、こいは今日の釣果なんや」

「あら、赤珊瑚ですね。とっても綺麗」

「根がかりした海底から上がってきたんだよ」

「ここの海では珊瑚が採れるんですか?」

「いや、ずっと漁をしてきたけどこがんことは初めてだ。こいは海ん神様からの贈り物じゃないかと思う。だけん……」

 竜司は赤珊瑚を七瀬に差し出した。

「よかったら、こいは七瀬さんに持っといてもらいたいんだ」

「えっ……」

 七瀬はぱちぱちと瞬きをし、そして視線をゆっくりと竜司に移した。

「本当に、私でいいんですか?」

「俺はそいしかないと思うとる」

「そう言っていただけるのでしたら」

 七瀬はおずおずと手のひらを開き、竜司はその上に赤珊瑚を置いた。七瀬は指を閉じて赤珊瑚を包み込む。

「私うれしいです。受け取らさせていただきます。大切にします」

「よかった。ペンダントに加工しても似合うと思うよ」

 竜司の言葉に七瀬は

「そんなもったいないこと出来ません」

と答え、赤珊瑚を握りしめていそいそと厨房に戻って行った。竜司は、七瀬の大仰な反応に少し面食らったものの、彼女に赤珊瑚を渡せたことに満足して食事を始めたのだった。


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