七瀬の紅い秘密

oxygendes

第1話 来訪

「はあーーーあ」

 玄界灘に浮かぶ小型船の上で、漁師の上村かみむら竜司りゅうじは落ち込んでいた。

 ここはトガリ崎の沖、かなたに見える岬の稜線の形、建物の並びから、この時期の狙い目の漁場にいることは間違いなかった。うねる海面も吹きすさぶ潮風も昨日までと変わらない。だが、今日は朝から一匹の釣果もなかった。

 竜司は一本釣りの漁師だ。船ばたから下ろした仕掛けにつながる道糸を右手でしゃくりながらアタリを待つ。アタリの後、魚が食いついたところで道糸を素早く引いて、釣り針を食い込ませ獲物を釣り上げるのだが、今日はそのアタリすら一回もない。

 

 日も傾きかけてきた。そろそろ漁を仕舞いにしようかと竜司が考えた時、道糸のわずかな揺れを感じた。そのまま三回ほどしゃくり続けると、今度ははっきりとしたアタリが来たので、道糸を思い切り引く。確かな手ごたえとともに道糸から伝わる重さが一段と増した。よし! 掛かった。

 左手を伸ばして道糸を掴み、右手左手とリズミカルにたぐり寄せていく。やがて海中に白っぽい魚影が見え、桜色の魚体に変わった。真鯛だ。

 海面まで上がって来た真鯛を道糸を掴んで引き上げる。六十センチを超える大物だ。ぴちぴちと跳ねる真鯛を足元に押さえつけ、手かぎを打ち込んで締めようとした時、


「どうか命を取らないでください」

突然聞こえてきた声に竜司は手を止めた。真鯛がしゃべった……訳では無く、顔を上げると竜司の船のすぐそばに一艘のシーカヤックが停まっていた。すらりとした船体はローズレッド色で全長は六メートルほど、竜司の船より一メートルほど短い。乗っているのは二十代中ばほどに見える女性で、紅いタータンチェックのウエスタンシャツの上にライフジャケットを付け、つばの長いサンバイザーを被っていた。

「その魚は自分で食べちゃうんですか?」

 シーカヤックの女性は竜司に訊ねる。

「いや、市場に出すつもりだけど……」

 竜司は戸惑いながら答えた。

「なら、私に売ってください」

 女性はパドルを繰ってシーカヤックを竜司の船に横付けした。パドルを海面に突き刺してシーカヤックの動きを止め、竜司の目を見つめてくる。うつくしか目じゃのうと彼女に見とれた竜司は頼みを受け入れ、海の上での取引に応じることにした。


「まあよかけど。そうだな、値段は六千円、いや五千円でどがんね」

「よかった。それでお願いします」

 女性は背負っているリュックのサイドポケットから札入れを取り出し、千円札を数えて船べり越しに竜司に手渡した。

「はい、どうぞ」

「あ、どうも。で、こん鯛は……」

「生きたままで欲しいので……、そこのタモに入れて渡してください。タモはすぐお返しします」

「そうかね。では……、こいじゃ」

「ありがとうございます」


 タモを受け取った女性は真鯛を両手で掴み、頭の上に差し上げた。

「この地におわす海神様、ご挨拶申し上げます。暫しの滞在をお許しください」

 両手で抱えた真鯛を海の中へ下ろし、そっと手を離すと、真鯛は身を翻して海の底深くへ泳ぎ去って行った。

 魚を見送った女性は振り返って、竜司に微笑みかけた。

「おかげさまで海の神様にご挨拶できました。ありがとうございました」

 あっけに取られている竜司に言葉を続けた。

「私はこのシーカヤックで海沿いに旅をしているんです。津々浦々を巡る中で気に入った場所があれば滞在してお金を稼ぎ、旅に出られるだけの金額がたまったら、また船出する生活です。訪れた先では旅の安全をそれぞれの海の神様に祈願して、供物を捧げています。ここではあの鯛さんにその役目をお願いしました」

「はあ……」

「鯛さんが捧げもの兼神様への使者と言うことですね。でも、おかげで手元不如意になっちゃいました。この辺りの海、岬や陸地の雰囲気はいい感じなので、できれば近くの港で働いてお金を補充したいんですけど、働ける場所ってありそうですか?」

「働ける場所ねえ」

 竜司は首をひねった。そして昨日の出来事を思い出す。

「そう言えば、あかねばあちゃんが誰か働いてくれる人はおらんかねぇと言いよったね。茜ハウスを手伝っとった姪っ子が結婚して出て行ったんで、手が足らんで大変そうだ」

「茜ハウス……、どんなお店ですか?」

「天海漁港の近くにあるめし屋だよ。俺みたいな独りもんには重宝なところなんや」

「ごはん屋さんですか。私、港町の飲食店で働いたことが何度かあります。しばらく働かせてもらうのにはいいかも。住み込みができるところならちょうどいいのですけど……」

「姪っ子の部屋は空いとるはずだよ。頼めば、住み込みもできるんじゃなかかな」

「そうだったら助かります。私、そこに行ってみようと思います。場所を教えてもらえませんか」

「俺も港に帰るところだ。速度を落として走るけん、付いてくるとよか」

「ありがとうございます。お願いします」


 竜司は小型船を船外機の出力を落として走らせ、シーカヤックは並走して付いて行った。二艘は森林が続く海岸沿いを航行し、岬を回りこんで漁港に近づく。漁港の近くの海岸には多くの家屋が立ち並んでいた。


「ほら、あいが茜ハウスたい」

 竜司が指差したのは、漁港の入口より少し先のところ、町なかに建つ入母屋屋根の民家だった。店舗らしく前面はすべてガラス戸になっている。風変りなのは屋根瓦が鮮やかな赤色であること、そしてガラス戸の桟や壁が同じ赤色で塗られていることだ。

「茜ばあちゃんの亡くなった旦那さんが、ばあちゃんの名前に合わせてあがん色にしたそうだ」


 二艘は漁港の入口に差し掛かった。竜司が女性に声をかける。

「案内はここまでたい。茜ばあちゃんのところへ行くんなら一つアドバイスすっよ。茜ばあちゃんは年に似合わず新しい料理や味付けへのチャレンジががばい好きなんだ。もし面接で得意料理を聞かれたら、とびきり珍しい料理を答えると印象がよかと思うよ」

「わかりました。ありがとうございます」

「よか結果になることを祈っとるよ。俺も後で夕飯を食いに行くかもしれん」

「では、またお会いしましょう」


 シーカヤックは茜ハウスの方に進んで行った。竜司は漁港に入って行き、いつもの浮き桟橋に小型船を係留した。漁具を洗い、片付けてから上陸する。陸の住居には戻らず、そのまま茜ハウスに向かった。

 茜ハウスに近づくと、楽しげな話し声が聞こえてきた。店舗の脇の駐車場に先ほどの紅いシーカヤックが陸揚げされている。竜司が暖簾をくぐると、

「いらっしゃいませ」

明るい声で迎え入れられた。

 茜ハウスはカウンター席が六席、四人掛けのテーブルが五つの店である。席の半分ほどが埋まり、カウンターの中に店主の茜と白いエプロンを付けた先ほどの女性の姿があった。

「いらっしゃい、竜司さん。よか人ば紹介してくれてありがとーね。ほんなごと助かっとおばい」

 茜に続いて、女性が竜司に話しかけてきた。

早川はやかわ七瀬ななせと申します。ここで働かせていただくことになりました。どうぞよろしくお願いします」

「こちらこそよろしゅう」

 竜司はカウンター席に座った。

「今日はどがん料理があるんかね?」

 こうして、七瀬の茜ハウスでの生活が始まった。

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