第2話 ヴィクターの抜け駆け 前編

 5年前。16歳のヴィクターは戦場にいた。


 眼下には兵士たちが整然と並んでいる。槍兵、弓兵、魔術兵、騎兵。兵の一人ひとりに精気がみなぎっている。それらが集まり隊を作り、更に組み合わさって軍を作る。その中心には大樹と盾の紋章を掲げた旗がある。これが、クレヌール王国軍だ。

 彼らに相対するのはゼクセン王国軍。剣と盾を挟んで睨み合うワイバーンが描かれた旗を掲げている。

 双方合わせて4000人がこの平野に集結している。張り詰めた空気の中、静かに開戦の合図を待っていた。


「これが戦場か……!」


 初めて味わう戦場の空気に、ヴィクターは胸を高鳴らせていた。

 戦場の話は物心つく頃から聞いていた。ヴィクターの父のアントニオ・ドリッヒェン・ヴァンス侯爵は、クレヌール王国の将軍である。戦いの話には事欠かない。幼い頃、ヴィクターが眠れない時に聞かされるのは、おとぎ話ではなく武勲話であったほどだ。

 だが、見ると聞くとでは大違いだ。戦場の音、緊張感、風、匂い。そういったものは、どれだけ言葉を並べられてもわからない。ヴィクターは今日初めて、戦場を知った。


「爺、これから父とゼクセン軍が戦うのか?」

「左様でございます」


 ヴィクターの隣にいるのは、銀髪を後ろ手に撫で付け、口髭を生やした初老の軍人だ。アッシュ・レッドマン。ドリッヒェン家の家臣であり、ヴィクターの教育係でもある。今日はヴィクターが戦場を見聞するということで、手勢の100人を率いて護衛していた。


「なあ、爺よ。俺にも槍を持たせてくれんか?」

「いけません。若はまだ元服も済ませていないのですよ?」


 この国の成人は18歳である。本来なら戦場に出ることは許されない。だが、どうしても戦場を見てみたいというヴィクターの熱意に押され、ヴァンス侯爵は見学を許した。 それでも万一のことがあってはならないので、戦場からやや離れた丘の上から動かない約束になっている。


 しばらく待っていると、甲高いラッパの音が鳴り響いた。進軍の合図だ。

 ゼクセン軍が進撃する。全軍ではない。前衛の1000人が前に出てくる。本陣と後衛の2000人は様子見だ。

 やや離れたところから、前衛同士で弓矢の撃ち合いが始まった。定石通りだ。お互いに盾に隠れながら戦っているから被害は少ないが、それでも撃たれる兵はいる。

 ヴィクターから見える範囲だけでも敵味方合わせて50人以上が倒れた。中には頭に矢を受けて動かない兵もいる。

 ヴィクターは生唾を飲み込んだ。


「爺よ」

「なんでしょう」

「戦争とは、人が死ぬのだな」

「……その通りです」


 当たり前の話ではある。ヴィクターも知らなかった訳ではない。だが、実際に体感するのは訳が違った。平時なら騒ぎになる人の死がそこかしこで起き、それを誰も咎めない。


「爺も撃たれたら死ぬのか」

「そうですな」

「父上もか」

「ええ」

「……俺もか」

「はい」


 ヴィクターは眼下の戦場をじっと見つめた。


 弓矢を撃ち合っていた両軍は、徐々に接近する。するとゼクセン軍の中から火の玉が現れ、クレヌール軍へ飛んでいった。

 従軍魔術師によるファイアボールだ。火球はクレヌール軍に飛び込む前に、空中で見えない壁にぶつかったかのように四散した。クレヌール軍の従軍魔術師がマジックバリアで防いだのだ。もしも魔術師がいなければ、ファイアボールは軍勢の真ん中に飛び込み大惨事を引き起こしていただろう。

 魔法が戦争の決め手になることは少ない。だが、魔術師のいない軍隊が勝つことも少ない。ヴィクターが父から聞いた話だ。


 ラッパが鳴った。兵士たちが盾を捨て、槍を揃えて突撃する。いよいよ白兵戦だ。

 先頭集団同士が衝突して、一瞬で大乱戦になった。兵士たちが槍や剣、斧で殺し合いを始める。少し身なりの良い部隊長が巧みに槍を振るって敵を殺すが、疲れた所を囲まれて串刺しにされる。そこに矢の雨が降り注ぎ、敵味方もろともハリネズミになる。

 戦争だった。勇猛と殺意が入り乱れる、流血の場だった。

 ヴィクターは歓声も悲鳴も上げず、ただ食い入るように見つめていた。いずれ自分がこの場に加わる。圧倒的な現実を把握するのに必死だった。


 不意に、ヴィクターは地面が揺れるのを感じた。地震ではない。何かが近付いてくる。辺りを見渡すと、ゼクセン軍の本陣が動いていた。

 馬上槍ランスを構えた騎士、およそ100騎。クレヌール軍前衛の側面へ突撃を仕掛ける。


 前衛が爆発した。ヴィクターは一瞬そう錯覚した。それほどまでに、騎兵の突撃というものは破壊力があった。

 人間より大きい馬は、歩兵を文字通り蹴散らしてしまう。馬上槍の一撃は金属の盾すら貫く。反撃しようにも、兵士たちが持つ槍や弓では騎兵の板金鎧プレートメイルには傷ひとつ与えられない。

 本来なら槍兵が隊列を組み、槍衾を作ることで突撃を防ぐことができる。しかし、こうして隊列が乱れたところに突撃すれば、騎兵は無敵だった。


 クレヌール軍の前衛が崩れ始めた。

 次々と屠られる味方を見て、臆病な兵士が背を向けて逃げ出す。それを見た兵士たちも釣られて後退する。こうなったらもう止まらない。逃走が連鎖して、戦線を支えきれなくなり、部隊は烏合の衆と化す。

 そして、逃げる敵を追いかけて殺すことほど簡単なものはない。ゼクセン軍の前衛と本陣は津波のように前衛を追いかける。

 逃亡するクレヌール軍の前衛と、追撃するゼクセン軍の前衛は、ほぼ一丸となってクレヌール軍の本陣に殺到した。助けを求めてのことか、新たな手柄を求めてのことか、混乱か、熱狂か。いずれにせよ、本陣にとっては非常に厳しい状況であった。

 押し寄せるのは味方だ。弓を撃ち、魔法を放って追い返していいものか。指揮官たちは判断に迷う。そうしている間に距離が詰まり、逃走する味方が、次いで殺到する敵が本陣に雪崩込んだ。


「……おい、爺。爺!」


 ここでヴィクターは我に返った。


「まずいぞ! 父上の軍が!」


 無我夢中で戦況を追っていたが、よくよく考えれば味方が追い詰められていた。

 本陣はその名の通り軍の中核だ。壊滅すれば全軍の統制が取れなくなる。すなわち敗北だ。その本陣が混乱の最中にあり、しかも殺到する敵の前衛に攻撃されている。危機であった。


「わかっております! 後衛が駆けつければ……」

「隊長! 敵が丘を登ってきます!」


 兵士が叫んだ。見ると、ゼクセン軍の一部隊がこちらに向かって攻め寄せてきていた。


「やむを得ん。迎撃する! 若はここで待っていてくだされ! 決して動いてはなりませんぞ!」

「あ、ああ!」


 アッシュは供回りを引き連れて、丘を降りていってしまった。

 丘の上に残ったのは、ヴィクターとお付きの騎士5騎、それに歩兵が20人程度だった。戦場にいるには心もとない。父上もアッシュも大丈夫だろうか、とヴィクターが考えていた、その時だった。


「止まれぇーっ! 何者だぁーっ!」


 誰何の声に振り向くと、5騎ほどの騎士が丘を登っていた。敵かと思いヴィクターはギョッとするが、彼らが掲げているのは大樹と盾の旗印。クレヌール軍の騎士だった。


「我が名はカーチス・ベッグマン! トペ子爵に仕えている! 乱戦に持ち込まれ孤立したため、味方の旗印を探して参上した! そちらは何者か!?」


 リーダーらしき騎士が名乗った。ヴィクターは名乗り返す。


「我が名はヴィクター・ドリッヒェン! アントニオ・ドリッヒェン・ヴァンズ侯爵の第一子である!」


 するとカーチスは大慌てで馬を降りた。


「将軍閣下のご子息とは! ご無礼をお許しください!」

「気にするな! 早く馬に乗れ! ここは戦場だ!」


 ヴィクターは戦場に目を戻す。乱戦の中から抜け出したクレヌール軍の騎士や兵士が、ヴィクターのいる丘にどんどん集まっている。


「なんで皆ここに来るんだ?」


 不思議そうなヴィクターの呟きに、カーチスが不思議そうに返した。


「だって、一番近い旗印はここですよ?」


 確かにヴィクターの部隊はクレヌール王国の軍旗を掲げている。だが他にもいるのに、と思って戦場を見渡したヴィクターは戦慄した。

 いない。前衛が押し込まれて、敵に呑まれていない旗がない。無事なのは、戦場から離れた丘の上に陣取るヴィクターの旗だけだ。


「あ、あれっ、孤立してるのか、俺たちは!?」

「今気付いたんですか!?」

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