Act.8-1

 兄を喪ったのは、雪の降りしきる真冬の夜だった。

 《調整人コーディネータ》が集合する定例会議を終えて外に出たときには、街路はすっかり雪に覆われていた。

「あいつ、むかつく……兄さんを批判しやがって」

 会議でのやり取りを振り返り、永は小さく舌打ちする。

――君は少々、慎重すぎるのではないか。

 年上の《調整人コーディネータ》が、兄に、そう指摘した。兄の采配は、いつも緻密で、確実だ。だが、それを悪く捉える人間もいる。

「構わないよ、永。何と言われようと、俺は《キャスト》の命を最優先に計画を立てる。今までも、これからも、良い結果を出しつづければ、彼も納得するだろう」

 兄は穏やかに微笑んだ。

「俺の指示で、俺の指揮する《キャスト》たちは動く。俺の命令が、彼らの生死を左右する。俺の犠牲になる人間は、少ないほうが良い」

「……犠牲……」

 永は眉根を寄せた。たとえ自分が兄を護って死んだとしても、兄の犠牲になったとは思わない。

「俺は、兄さんの命が最優先だよ」

「永……」

「行こう。早く、車に……」

 何か言いかけた兄の言葉を遮って、永は周囲を警戒しながら《運搬人ポータ》の車へと兄を促す。

 辺りに人の影はない。この道は街灯の光も弱くまばらで、薄暗い。高い建物も周囲になく、遠くから狙撃される可能性は低い。だが、気は抜けない。いつでも撃てるように銃を握りながら、建物の角を曲がる。

「……あれは、第二機関の……」

 一本先の大通りに、公用車が三台、停まっていた。領事館の前だ。別段、不自然なことではない。だが、妙な違和感があった。理由じゃない。理屈じゃない。ただ、永の、《護衛人ボディガード》としての勘が、けたたましく警鐘を鳴らす。

「っ、兄さん、退がって!」

 兄の前に立ち、永が銃を構えるのと、彼らが発砲するのは、同時だった。左肩に、焼けつくような痛みが走る。だが、永が放った銃弾も、彼らの一人を捉えていた。眉間を撃ち抜かれ、一人が助手席にくずおれる。しかし、まだ二人、残っている。続く銃声。早く、建物の陰へ。せめて、そこまで、護れたら。

 歯を食い縛り、トリガを引く。相手の銃弾が永の脇腹を掠めると同時に、撃った男は首から血をほとばしらせて絶命する。あと一人。

「っ、あ……」

 銃を握る右腕に、鋭い痛みと衝撃があった。雪の上に、ぱっと鮮やかな赤が散り、その上に永の銃が転がる。大丈夫だ。傷は浅い。まだ動く。まだ撃てる。でも、別の銃を取り出している時間はない。あと少しで建物の陰に入れる。銃声。躊躇ためらわない。間に合う。兄だけは。間に合わせてみせる。自分が、兄の、盾になれば――

「永!」

 手を引かれた。兄の手だった。ふわり、と、自分を抱える、兄の腕を感じた。

 建物の陰に、倒れこむ。確実に永の命を奪うはずだった銃弾は、永の体の、どこにもない。

「……兄さん……?」

 永の胸が、温かいもので濡れていく。自分の血じゃない。嫌だ。認めたくない。銃を取る。兄の体を抱きかかえながら、建物の陰から身を乗り出し、トリガを引く。最後の一人が血飛沫をあげ、車の窓から上体を垂らす。舌打ちのようにスキール音が響く。急発進する車。逃がさない。永は撃つ。車のガラスが次々に割れ、車内を赤く染めて静止する。

「兄さん……っ」

 降り積もる白い雪に、鮮やかな赤が流れていく。兄の命が、流れていく。

 大勢の人間を殺してきたから、分かる。分かってしまう。兄は助からない。止血しても間に合わない。あと数分で、兄は――

「……どうして、庇ったの……?」

 どうして、護らせてくれなかったの。守らせてくれなかったの。

「……兄さん」

 銃を握ったままの右手を、永は、ゆっくりと持ち上げた。そのまま静かに、銃口を自分のこめかみに押し当てる。

「ずっと一緒だ」

 兄の命が終わるとき、自分も、このトリガを引こう。

 片腕で兄を抱きしめて、目を閉じたとき、

「……兄さん……?」

 銃を握った右手に、温もりが触れた。兄のてのひらだった。

 力は、もう込められない。掴むことも、握ることもできない、血に染まった手。けれど、その手は、確かな意志をもって、永の手に重ねられていた。

「どうして……」

 撃たせてよ、兄さん。どうして止めるの。死ぬ時は一緒だって、俺、言っただろ。ずっと、ふたりで、生きてきたんだよ。一緒に、生きてきたんだよ。兄さんがいたから生きられた。兄さんと一緒にいるために、俺は、銃を撃って、撃って、撃って……なのに、どうして、さいごに、俺を撃たせてくれないの……?


――兄さんと一緒にいるために、俺を死なせてくれないの?


 降りしきる雪に、指先が冷えていく。温もりが奪われていく。

 永の腕の中で、兄が、ふっと、永を見上げて微笑んだ。


――ごめん、永。


 永の手から、兄の手が離れていく。

 兄の体が力を失い、静かに瞼を下ろしていく。

 刹那、兄の唇が、かすかに動いた。

 声もなく、ただひとつの言葉を、願いを、飛び立たせて。


――お前は生きろ、永。

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