Act.8-1
兄を喪ったのは、雪の降りしきる真冬の夜だった。
《
「あいつ、むかつく……兄さんを批判しやがって」
会議でのやり取りを振り返り、永は小さく舌打ちする。
――君は少々、慎重すぎるのではないか。
年上の《
「構わないよ、永。何と言われようと、俺は《
兄は穏やかに微笑んだ。
「俺の指示で、俺の指揮する《
「……犠牲……」
永は眉根を寄せた。たとえ自分が兄を護って死んだとしても、兄の犠牲になったとは思わない。
「俺は、兄さんの命が最優先だよ」
「永……」
「行こう。早く、車に……」
何か言いかけた兄の言葉を遮って、永は周囲を警戒しながら《
辺りに人の影はない。この道は街灯の光も弱く
「……あれは、第二機関の……」
一本先の大通りに、公用車が三台、停まっていた。領事館の前だ。別段、不自然なことではない。だが、妙な違和感があった。理由じゃない。理屈じゃない。ただ、永の、《
「っ、兄さん、
兄の前に立ち、永が銃を構えるのと、彼らが発砲するのは、同時だった。左肩に、焼けつくような痛みが走る。だが、永が放った銃弾も、彼らの一人を捉えていた。眉間を撃ち抜かれ、一人が助手席に
歯を食い縛り、トリガを引く。相手の銃弾が永の脇腹を掠めると同時に、撃った男は首から血を
「っ、あ……」
銃を握る右腕に、鋭い痛みと衝撃があった。雪の上に、ぱっと鮮やかな赤が散り、その上に永の銃が転がる。大丈夫だ。傷は浅い。まだ動く。まだ撃てる。でも、別の銃を取り出している時間はない。あと少しで建物の陰に入れる。銃声。
「永!」
手を引かれた。兄の手だった。ふわり、と、自分を抱える、兄の腕を感じた。
建物の陰に、倒れこむ。確実に永の命を奪うはずだった銃弾は、永の体の、どこにもない。
「……兄さん……?」
永の胸が、温かいもので濡れていく。自分の血じゃない。嫌だ。認めたくない。銃を取る。兄の体を抱きかかえながら、建物の陰から身を乗り出し、トリガを引く。最後の一人が血飛沫をあげ、車の窓から上体を垂らす。舌打ちのようにスキール音が響く。急発進する車。逃がさない。永は撃つ。車のガラスが次々に割れ、車内を赤く染めて静止する。
「兄さん……っ」
降り積もる白い雪に、鮮やかな赤が流れていく。兄の命が、流れていく。
大勢の人間を殺してきたから、分かる。分かってしまう。兄は助からない。止血しても間に合わない。あと数分で、兄は――
「……どうして、庇ったの……?」
どうして、護らせてくれなかったの。守らせてくれなかったの。
「……兄さん」
銃を握ったままの右手を、永は、ゆっくりと持ち上げた。そのまま静かに、銃口を自分のこめかみに押し当てる。
「ずっと一緒だ」
兄の命が終わるとき、自分も、このトリガを引こう。
片腕で兄を抱きしめて、目を閉じたとき、
「……兄さん……?」
銃を握った右手に、温もりが触れた。兄の
力は、もう込められない。掴むことも、握ることもできない、血に染まった手。けれど、その手は、確かな意志をもって、永の手に重ねられていた。
「どうして……」
撃たせてよ、兄さん。どうして止めるの。死ぬ時は一緒だって、俺、言っただろ。ずっと、ふたりで、生きてきたんだよ。一緒に、生きてきたんだよ。兄さんがいたから生きられた。兄さんと一緒にいるために、俺は、銃を撃って、撃って、撃って……なのに、どうして、さいごに、俺を撃たせてくれないの……?
――兄さんと一緒にいるために、俺を死なせてくれないの?
降りしきる雪に、指先が冷えていく。温もりが奪われていく。
永の腕の中で、兄が、ふっと、永を見上げて微笑んだ。
――ごめん、永。
永の手から、兄の手が離れていく。
兄の体が力を失い、静かに瞼を下ろしていく。
刹那、兄の唇が、かすかに動いた。
声もなく、ただひとつの言葉を、願いを、飛び立たせて。
――お前は生きろ、永。
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