Act.6-2

 目を開けると、朝の白い光に照らされた、見慣れた天井が広がっていた。昨夜、仕事を終えて……いつの間に自室へ戻ったのだろう。覚醒しきらない頭でぼんやりと記憶を辿りながら、永は瞳を巡らせた。見慣れた壁紙、見慣れた家具。しかし、そこに収められているのは、自分の物ではない。気づいた瞬間、永は飛び起きた。無意識に銃を探して手を彷徨さまよわせ、見つからないことに狼狽うろたえかけた永の鼻腔を、香ばしい匂いがくすぐった。パンの焼ける匂いだった。

「クロセ?」

 部屋のドアが開き、シラハが顔を出した。ゆったりとした部屋着に、年季の入ったエプロンをつけている。

「良かった。目が覚めたんだな。おはよう」

 シラハは心底安心したように破顔した。

「お前……」

「うん?」

「怪我は……っ⁉」

 ベッドを飛び出し、シラハに駆け寄る。シラハは驚いたように瞬きをした。

「たいしたことねぇよ。掠っただけだ」

 シラハの右耳には、分厚いガーゼが当てられていた。きまり悪そうに、シラハはそれを指先で撫でた。

「お前こそ、体の具合は、大丈夫なのか?」

「……問題ない。世話をかけて、すまなかった」

 シラハから目をらし、永はシラハの脇をすり抜けた。昨夜の記憶を思い出す。シラハに抱えられ、待機していた車の後部座席に乗せられた。シラハの怪我と永の異変を認めた《運搬人ポータ》によって、ふたりは第九機関の抱える医師のもとへ連れて行かれた。揃って処置を受けているあいだに永は気を失い、シラハが部屋まで運んだのだ。永の発作の原因が精神的なものであることも、シラハは医師から聞いて知っただろう。

「待てよ」

 部屋から出て行こうとした永の腕を、シラハが掴んだ。

「……放せ」

 シラハに背を向けたまま、永は足を止める。永の腕を握るシラハの手の力は強くなかった。振りほどこうと思えば容易たやすく振り払えるものだった。けれど、その手は、拒絶するには温かかった。温かすぎた。

「シャワー、浴びてこいよ。着替え、貸すから。そしたら、一緒に、朝飯を食おう。お前の分も、作っているから」

 手が解かれる。温もりが離れる。離れてしまう。

「……クロセ?」

 咄嗟とっさに、その手を、掴み返していた。

「……なんで……」

 声が震える。なぜ、どうして。頭の中が、問いかけで埋まる。分からない。わからない。シラハ、お前は――

「お前、まともに、飯、食ってねぇだろ」

 シラハは軽く首を傾け、永の顔をのぞきこむように笑った。

 永の掴んだ手に、ぽん、と自分の手を重ねて。

「……必要な栄養素は摂っている」

 呟くように、永は言い返す。思いのほか、屁理屈を言う子どものような声音になってしまった。

「そうかよ。じゃあ、訊き方を変えるわ」

 シラハの笑みに、悪戯っぽい色が混じる。

「腹いっぱい、食ってねぇだろ」

「……っ、だったら何だ」

 思わず顔を上げた永の瞳を、シラハの瞳がまっすぐに受けとめる。その瞳は雪の降る空の色に似て、けれど、どこまでも澄みきり、優しい光を湛えていた。

「空腹が満たされるっていうのは、侮れねぇ、大事なことなんだよ」


「生きるっていうのは、腹いっぱい食うことなんだよ」


 何気ない一言だった。けれどそれは、不思議と永の胸の奥底に響いた。

 そっと、手が解かれる。永はきびすを返した。玄関へは向かわなかった。開けたのは、廊下の右側、バスルームの扉だった。

 洗面台の傍には、永の分のタオルと着替えが、きちんと畳んで準備されていた。

 鏡に映る自分の姿が目に入る。兄を喪って、三年。今年、永は二十一になった。時を止めた兄の年齢に、追いついていた。いつか、顔立ちが似ていて兄弟らしいと言われたことがあるのを思い出した。笑った顔が、本当にそっくりだと。

 今は、もう、自分の笑顔を、永は欠片も思い出せない。兄の笑顔は少しも色褪せることなく鮮明に思い出せるのに、そこに自分を重ねることはできない。鏡で見る自分の表情は、笑顔どころか、すべての感情から程遠い。当然だ。兄の命と一緒に抜け落ちてしまったのだから。すべての心の宛先も理由も、たったひとり、兄だけだったのだから。

「……兄さん……」

 鏡に映る自分の体に、兄の面影を探しながら、永は兄に問いかける。

「俺は、いつまで、生きればいい……?」

 永にとって、生きることは殺すことだった。殺すことが、生きることだった。

 だから殺した。殺してきた。兄を生かすために。兄と生きるために。

 そして今も、殺している。兄が、生きろと、言ったからだ。

 生きるための兄は、もういないのに。

「いつまで、独りで、生きればいい……?」

 殺せば、いい?

 撃って、撃って、撃ちつづけた。終わりのない夜のなかで、生きるという、ただそれだけのためにトリガを引いた。永の夜は、もうずっと明けない。

「なぁ、兄さん……」

 終わらせたい。終わりにしてほしい。死ぬことを、どうか、もう許してほしい。兄が生きろと言わなければ、自分は躊躇ためらいなく、自ら頭を撃ち抜けた。兄と一緒に、死ぬことができた。なのに、兄は止めたのだ。たったひとつの願いで、永の命に、鎖をかけて。ひとりだけ死んで、ひとりだけ生かして。


――死ねないから、殺してほしい。


 誰でもいいから、終わりにしてほしい。自分で自分を殺すことはできないから、誰か自分を殺してほしい。それは切望だった。理不尽でも、圧倒的な暴力でもいい。永には殺せない、永では敵わない何者かに、この命を終わらせてもらいたかった。

 生きて、生きて、生きた果ての死。殺して、殺して、その果てで、誰かに殺されて死にたかった。


――生きるっていうのは、腹いっぱい食うことなんだよ。


 はっと顔を上げる。シラハの言葉が、永の思考を引きとめるように、耳に蘇る。あまりにも遠い言葉だった。あまりにも、違う世界の言葉だった。けれど、それは確かに永に向けられた想いだった。永を引き寄せる心だった。夜から朝へといざなう、東の空に灯る明星あかぼしのように。

 鏡の中の自分に背を向け、拒絶するようにシャワーカーテンを引いた。熱い湯を頭から浴び、絡みつく思考を振りほどく。

 広げたタオルと着替えからは、清潔な石鹸と、温かな陽だまりの匂いがした。

 リビングに戻ると、ちょうどシラハがフライパンをコンロから下ろしたところだった。

「……ありがとう。シャワーと……着替えも」

 シラハの服は、永には大きく、いろんなところが余っていた。上は首回りが広く開きすぎて落ち着かず、肩にタオルを掛けて誤魔化した。下はさらに緩く、ウエストの紐をきつく絞ってかろうじて落ちないようにする。体格の違いに、永は眉根を寄せた。見た目以上に、ここまで差があったのか。元々、永は肉付きの良いほうではない。だが、シラハの体つきが優れていることを差し引いても、自分は、こんなに細かっただろうか。この三年で、思った以上に痩せていたのだと知る。

 永に気づいたシラハが、振り返って微笑む。

「ちょうど良かった。もうすぐ出来るぞ」

 テーブルに並べられた二人分の食器には、トーストとサラダと、コーヒーが整っている。空いていた中央の二枚の皿に、シラハは慣れた手つきで、フライパンからベーコンエッグを移した。

「さぁ、食おうぜ」

 シラハが向かいの椅子を勧めた。家具付きのアパートメントであるこの部屋に、備えつけられている椅子は二脚だった。永の部屋も、そうだ。ひとりで暮らせば、ずっと片方が空席のままとなるその場所を、今、ふたりで埋めている。

「……なぜ」

 ぽつり、と、雫を一滴、落とすように、永は問いかけた。

「なぜ、俺を、放っておかない」

 なぜ、構う。なぜ、与える。温かさも優しさも、なぜ、差し出して、注いでくる。

「そんなの――」

 トーストを頬張ったシラハは、もごもごと言いかけて言葉を切り、咀嚼して飲みこんでから、笑みの形に目を細めた。

「俺が、そうしたいから。それだけだよ」

 朝の光をよく透す、淡い色の瞳に、永をまっすぐに映して。

「ほっとけねぇんだよ。独りで死にそうな奴を、俺は」

「別に、死ぬ気は――」

 言いかけて、言葉が途切れる。言い返せなかった。差し出された心をねつけるには、それは、あまりにも明るく、温かすぎた。

 言葉に詰まる永に、シラハは小首を傾けて笑って、

「食べろよ。結構、自信作なんだぜ、そのベーコンエッグ」

 自分もフォークで大きく切り分け、それを口に運んだ。

 そっと、永もフォークを取る。ベーコンの塩気と、半熟卵の甘味、程良く効いたスパイスが、忘れていた味覚を呼び覚ましていく。

「……美味い、な」

「だろ?」

 シラハは嬉しそうに笑った。

「美味い……」

 もう一度、呟くと同時に、ぽつ、と、永の頬に、雫が落ちた。胸の奥で凍りついていたものが、ぱきぱきと音を立てて解け、透明な熱になって流れていく。それは、確かに、感情だった。どうして。全部、兄とともに失ったはずなのに。いや、違う、これは、新たに、生まれたものだ。永の知らない温もりだった。

 朝陽に包まれた食卓。空腹を満たすための食事。そこに込められた心。それは、死の対極にあるものだった。生きること、そのものだった。誰かの命と引き換えじゃない。誰かを殺すことを条件に、得るものでもない。ただ与えられ、生かされる。陽の光を浴びるように、享受する。今、この場所は、陽だまりだった。

「ありがとな」

 コーヒーを手に、シラハが微笑む。

「なぜ、お前が、礼を言うんだ」

 逆だろう。その台詞は、自分が言うべきものだ。

 けれどシラハは、淡く微笑むばかりで、言葉を続けることはなかった。

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