Act.6-1

 第九機関において、《調整人コーディネータ》は、最も失いたくない人材であり、それゆえに、最も狙われやすい弱点でもある。〝上〟の人間は、各々を何の《キャスト》に就けるかを決定するが、その先で采配を振り、指揮官の役割を果たすのは《調整人コーディネータ》だからだ。


――失わせない。


 永は銃を撃つ。ナイフを振るう。《護衛人ボディガード》として、弟として、《調整人コーディネータ》である兄を護るために。


――俺が、喪わせない。


 兄を死なせないためなら、いくらでも人を殺せる。兄を殺そうとする人間となら、いくらだって戦える。奪わせない。誰にも兄を奪わせない。奪われてたまるものか。

「永」

 月明かりが、カーテンの隙間から射しこんでいる。澄んだ淡い光は、兄の微笑によく似ていた。永の名を呼ぶ兄の声は、ひらりと飛び立つ羽音のようで、永の耳に柔らかに降り立つ。さらさらとした清潔なベッドの上で、兄は永を見上げ、その頬にてのひらを重ねた。ひんやりとした、けれど確かに灯る温もり。

「ごめん、兄さん」

 永の声が、涙とともに、兄へと落ちる。

「こんなかたちで、愛してごめん」

 組み敷いた兄の体は華奢だった。背は兄のほうが高かったが、日々の訓練で鍛えている分、体格の良さは永のほうが上だった。なによりも、永の内側で出口を求めてもがく、狂おしくおぞましい欲をぶつけたら、兄を壊してしまいそうな気がした。

「謝らなくていい」

 兄は拒まなかった。永を見上げる瞳に嫌悪の影は欠片もなく、澄みきった慈しみの光だけをたたえていた。

 しんしんと冷えた、初冬の夜だった。スラムにいた頃を、ふと思い出していた。第九機関に拾われなければ、自分も兄も、あの夜に凍えて死んでいた。生き延びたのは、殺したからだ。そして今も、誰かの命と引き換えに、自分たちは生きている。

 一度ひとたび、指令が下れば、翌朝に生きている保証はない。この夜が、兄と生きられる最後かもしれないと、何度も思った。何度も、何度も、そんな夜を越えて、生きた。

 兄と永が《調整人コーディネータ》と《護衛人ボディガード》になって四年。兄は二十一、永は十八になっていた。

 永にとって、兄は世界の全部だった。物心ついたときには、永は既に兄とふたりきりで、兄は永を守り育ててくれた。永が生きてこられたのは、兄がいたからだ。ずっと、兄が守ってくれたからだ。

 世界で信じられる存在が兄しかいない永にとって、心を注げるのも、ただひとり、兄だけだった。両親、友人、先輩、恋人……成長するにつれて出会い、芽生え、宛先が枝分かれしていくべき感情を、永は全て、兄へと向けた。敬愛も、親愛も、情愛も……性愛も。

 兄に触れたい――その感情を自覚したとき、永は愕然とした。何度も否定しようとして、塗り潰して消してしまおうとして、それでも抑えられずに、激しい嫌悪に駆られた。兄の顔をまともに見られず、仕事の時以外は努めて避けたこともあった。けれど心は止められない。思いつく限りの悪態で自身を罵倒しながら、永はベッドの中で、独り、右手に白い欲を吐いた。それを兄に見つかったときほど、この場で消えてしまいたいと願ったことはない。

「知っていたよ」

 泣きながら打ち明けた永に、兄は微笑んで頷いた。

「お前の気持ちを知っていて、気づかないふりをしていた。俺のほうこそ、ごめん」

 やめろよ、と永は首を横に振った。兄が謝ることなんてない。拒絶してほしい。嫌悪してほしい。いや、違う。本当は、ほんとうは……愛してほしい。受け容れて、赦して、愛させてほしい。

 愛しているのだと兄に告げた言葉は、神に赦しを乞う告解に等しかった。

「俺も、お前を愛している」

 美しい兄の手が、永の頬を包む。汚れない兄の指が、涙に濡れた永のまなじりを拭う。どこまでも優しく、やさしく。

「だから、永」


「お前が愛したいように、俺を愛してくれ」


 兄は、永の心のすべてを受け容れた。それが兄の愛し方だった。

 永は兄を抱いた。兄を汚したくなくて、何度も躊躇ためらい、苦しげに目を伏せる度、兄は優しく、大丈夫だと繰り返した。

 兄は汚れなかった。どんなに抱いても、兄は美しいまま、永を受け容れ、微笑みつづけた。抱きしめた兄の体は温かく、命のかたちをしていた。

 永の世界は、兄とふたりきりで完結していた。永の心は兄を愛するためにあり、永の命は兄と生きるためだけに存在した。

「俺が死なない限り、兄さんは死なない」

 体を繋げ、深く口づけ、恍惚に揺蕩たゆたいながら、永は言った。

「俺が死なせないから、兄さんは死なない」


「兄さんが死ぬ時は、俺も一緒だ」


 永の言葉に、兄は静かに微笑んだ。けれど、頷きはしなかった。どこか哀しげに瞳を揺らして、そっと永の髪を撫でた。

 ふたりの時間は、その冬を越えなかった。雪の降りしきる真冬の夜に、兄の命は、二十一で静止した。

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