Act.6-1
第九機関において、《
――失わせない。
永は銃を撃つ。ナイフを振るう。《
――俺が、喪わせない。
兄を死なせないためなら、いくらでも人を殺せる。兄を殺そうとする人間となら、いくらだって戦える。奪わせない。誰にも兄を奪わせない。奪われてたまるものか。
「永」
月明かりが、カーテンの隙間から射しこんでいる。澄んだ淡い光は、兄の微笑によく似ていた。永の名を呼ぶ兄の声は、ひらりと飛び立つ羽音のようで、永の耳に柔らかに降り立つ。さらさらとした清潔なベッドの上で、兄は永を見上げ、その頬に
「ごめん、兄さん」
永の声が、涙とともに、兄へと落ちる。
「こんなかたちで、愛してごめん」
組み敷いた兄の体は華奢だった。背は兄のほうが高かったが、日々の訓練で鍛えている分、体格の良さは永のほうが上だった。なによりも、永の内側で出口を求めてもがく、狂おしく
「謝らなくていい」
兄は拒まなかった。永を見上げる瞳に嫌悪の影は欠片もなく、澄みきった慈しみの光だけを
しんしんと冷えた、初冬の夜だった。スラムにいた頃を、ふと思い出していた。第九機関に拾われなければ、自分も兄も、あの夜に凍えて死んでいた。生き延びたのは、殺したからだ。そして今も、誰かの命と引き換えに、自分たちは生きている。
兄と永が《
永にとって、兄は世界の全部だった。物心ついたときには、永は既に兄とふたりきりで、兄は永を守り育ててくれた。永が生きてこられたのは、兄がいたからだ。ずっと、兄が守ってくれたからだ。
世界で信じられる存在が兄しかいない永にとって、心を注げるのも、ただひとり、兄だけだった。両親、友人、先輩、恋人……成長するにつれて出会い、芽生え、宛先が枝分かれしていくべき感情を、永は全て、兄へと向けた。敬愛も、親愛も、情愛も……性愛も。
兄に触れたい――その感情を自覚したとき、永は愕然とした。何度も否定しようとして、塗り潰して消してしまおうとして、それでも抑えられずに、激しい嫌悪に駆られた。兄の顔をまともに見られず、仕事の時以外は努めて避けたこともあった。けれど心は止められない。思いつく限りの悪態で自身を罵倒しながら、永はベッドの中で、独り、右手に白い欲を吐いた。それを兄に見つかったときほど、この場で消えてしまいたいと願ったことはない。
「知っていたよ」
泣きながら打ち明けた永に、兄は微笑んで頷いた。
「お前の気持ちを知っていて、気づかないふりをしていた。俺のほうこそ、ごめん」
やめろよ、と永は首を横に振った。兄が謝ることなんてない。拒絶してほしい。嫌悪してほしい。いや、違う。本当は、ほんとうは……愛してほしい。受け容れて、赦して、愛させてほしい。
愛しているのだと兄に告げた言葉は、神に赦しを乞う告解に等しかった。
「俺も、お前を愛している」
美しい兄の手が、永の頬を包む。汚れない兄の指が、涙に濡れた永の
「だから、永」
「お前が愛したいように、俺を愛してくれ」
兄は、永の心のすべてを受け容れた。それが兄の愛し方だった。
永は兄を抱いた。兄を汚したくなくて、何度も
兄は汚れなかった。どんなに抱いても、兄は美しいまま、永を受け容れ、微笑みつづけた。抱きしめた兄の体は温かく、命のかたちをしていた。
永の世界は、兄とふたりきりで完結していた。永の心は兄を愛するためにあり、永の命は兄と生きるためだけに存在した。
「俺が死なない限り、兄さんは死なない」
体を繋げ、深く口づけ、恍惚に
「俺が死なせないから、兄さんは死なない」
「兄さんが死ぬ時は、俺も一緒だ」
永の言葉に、兄は静かに微笑んだ。けれど、頷きはしなかった。どこか哀しげに瞳を揺らして、そっと永の髪を撫でた。
ふたりの時間は、その冬を越えなかった。雪の降りしきる真冬の夜に、兄の命は、二十一で静止した。
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