Act.5-2

 朝食後の走りこみは、学生時代からの昴の日課だった。この街区に来てからは、アパートメントの前に横たわる河川敷に沿って走るコースを決めている。しかし、今日はふと、橋のほうへと足が向いた。いつもベランダから望んでいる大きな橋だ。

 対岸へ渡る気はなく、半ばで引き返すつもりだった。橋は傷みが目立ち、欄干らんかんの塗装はあちこち剥がれ、錆が浮いていた。歩道と車道に分けられているものの、今はもうほとんど使われなくなっているらしく、時々車が数台、走り抜ける程度で、人通りはない。風が良く通り、汽水域特有の、甘さと苦さの混じった匂いがした。

 橋の中央で足を止め、上がった息を整えながら、欄干に肘をついてもたれる。高くなりはじめた朝陽に照らされて、水面は砕けた硝子を敷き詰めたように輝いている。

「あと二日か……」

 組んだ腕に、僅かに力がこもる。

 銃の整備はしている。路地裏で射撃の練習をして感覚をつかみ、手にも馴染ませた。あとは本番で撃つだけ。

「……昴……?」

 不意に、左側から――対岸の側から、名を呼ばれた。はっと振り向くと、青年がひとり、目を丸くして昴を見ている。癖の強いブロンドの髪に、オリーブグリーンの瞳。よく鍛えられた体に、ラフなカーキのジャケットを羽織っている。

「……ジョウ……?」

「やっぱり昴じゃん! すげぇ偶然! 久しぶり! 卒業以来だな!」

 青年が、ぱっと破顔する。昴が第四機関の専門学校にいた頃の、同級生だった。

「元気にしていたのかよ、昴? なんか、ちょっと、やつれてねぇか? キャリア組と仕事するのって、色々と面倒そうだもんなぁ」

 小走りで昴の隣に並び、欄干に背を預けると、丞はジャケットのポケットから、煙草を取り出す。ふう、と紫煙を吐き出して、丞は横目で昴を見た。

「今日は非番?」

「……まぁな」

「俺もだ」

 咥えた煙草を上下に揺らしてもてあそびながら、彼は会話を続ける。

「そういえば昴、お前、職員寮に住んでいるんじゃなかったっけ? お前もこの辺に引っ越したのか? それとも、あそこからここまでジョギングしてきたのかよ?」

「あ、ああ……ちょっと走りたくて」

 呟くように、苦い嘘をつく。自分はもう第四機関の人間ではなくなったのだと、打ち明けることはできない。

「お前こそ、どうなんだ? 交番の仕事は」

 昴は逆に尋ねた。

「毎日、クソだよ。チンピラの相手ばっかりで、ろくでもねぇ。もっとデカい仕事がしてぇし、出世してぇよ。せめて警察の本庁勤務くらいはしてみてぇ」

 丞は肩をすくめ、大きく紫煙を吐き出した。

「まぁ、ノンキャリアの身じゃ、望み薄なのは分かっているんだけどな」

 第四機関に入職するには、通称キャリアルートとノンキャリアルートと呼ばれる二つのルートが存在する。前者は、カレッジを卒業した後、試験を受けて入庁する、いわゆるエリートコース。そして後者は、ハイスクールを卒業後、第四機関に付属する専門学校に入学し、卒業と同時に各地の警察に配属されるコース(専門学校生いわく〝叩き上げ〟コース)だ。この国において、公安と言えば第四機関の中枢、警察はその下位あるいは末端組織という位置付けで、ノンキャリアの人間が公安に配属されることはまずない。専門学校時代に、余程、優秀な成績を修めない限りは。

「本当に、お前は、ノンキャリアの星だよ」

 名前も〝昴〟だしな、と丞は悪戯っぽく笑った。

「やめろよ、それ」

 昴は苦く笑った。

「本当のことだろ。ノンキャリアの身で公安に入れて、キャリアの連中と渡り合えているんだからさ」

「渡り合えてなんかいねぇよ。俺なんか下っ端だ」

 不正の片棒を担がされ、捨て石にされるくらいに。

 昴の表情に暗い憤りが滲んでいるのを見て取ったのか、丞は深く煙を吸い、勢いよく吐き出した。

「頑張ってもクソ、頑張らなかったらもっとクソってわけか。世の中、クソなことばっかりだな」

 丞は短くなった煙草を指先で摘まむと、大きく振りかぶって河に投げた。

「おい、河に捨てるな」

「はっ、相変わらず真面目だな、お前」

 丞は笑って肩をすくめた。

「じゃあ俺、そろそろ行くわ。出世後にまた会えたら、旧友のよしみで何か美味い物でも奢ってくれ」

 ひらりと手を振り、丞は昴の脇を抜け、旧市街へと足を向けた。

「丞」

 遠ざかる背中を呼び止める。

「お前は、今でも、世の中を……この国の人々を、護りたいと思っているか?」

 吹き抜ける風が、昴の声をさらっていく。

 丞は、ふっと、笑った。軽薄な笑みだった。

「そんな高尚な信念、最初から持ち合わせてねぇよ」

「……丞……?」

「俺は、お前とは違う。俺が第四機関を志したのは、機関の中で唯一、カレッジを出ていなくても入れるノンキャリアルートがあったからだ。どこでもいいから国の機関に入ることができたら、生涯安定で、マシな生活ができると思ったからだ」

 ざぁっと風が吹き抜ける。雲が流れ、陽がかげり、ふたりのあいだに影が落ちる。

「なぁ、昴。将来のため、自分の未来のためって、頑張って、努力して、手に入れた場所のはずなのに、掴んだもののはずなのに、なんで、こんなに、毎日、毎日、クソなんだろうな。嫌なことばかり味わう、クソのままなんだろうな。首席で卒業したお前ほどじゃねぇけど、俺だって、専門学校の卒業試験、ストレートで合格するくらいは頑張ったんだぜ? 合格率、二十パーセントしかない試験なのにさ」

 丞の瞳が、昴を見据える。眼光に、冷ややかな刃をちらつかせて。

「俺にとって、この国は、護るものじゃなく、抗うものだ」

「抗う?」

「そうさ。この国は、いつ、何を失うか分からない。仕事も、金も、ある日すべてを失って、路頭に迷うか知れない。そんな国で、稼いで、生きていくことは、この国に抗うことと同義だろ。世界と戦うことと、おんなじだろ」

「丞……」

「生きたいなら耐えろって、命を盾に、クソな生活も甘んじて受けろっていう、国も世界も、クソ食らえなんだよ」

 丞は笑いながら吐き捨てた。いびつな笑みだった。

「今、俺が欲しいのは、生き甲斐だよ、昴」

「生き甲斐……?」

「ああ。俺を認めてくれて、俺を必要としてくれる人のもとで働く。そういうのを、俺は生き甲斐にしてぇんだ」

 お前なんかいらない。お前の代わりなんていくらでもいる。ここ以外に行く場所がないなら耐えろ。どうせ逆らえないのだから、こいつには何をしても構わない……そんな言葉に埋め尽くされた国で、生きることは抗うことだった。その中で、お前が必要だと、認めてくれる存在と出会ったなら、どんなに生き甲斐になるだろう。

「……そうか」

 昴はうつむいた。丞は口の端を笑みの形に歪めたまま、じゃあな、と短く手を振った。今度は振り返ることなく、彼の背中は日陰に沈んだ旧市街の奥へと消えていった。

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