Act.4-2

 シャワーを浴びて、着替える。いつもの缶コーヒーと、少し迷って、固形栄養食も手に取った。粉雪はいつのまにか止んでいた。ベランダに出て、缶コーヒーの蓋をあける。隣の部屋からは、今日もパンの焼ける香ばしい匂いが流れてきていた。

「あっ、クロセ。おはよう」

「……おはよう」

 ベランダの縁にもたれて、シラハは右手にマグカップ、左手にパンを持っていた。何が入っているのか、若草色のパンだった。

「ちょっと待っていてくれ。お前の分、持ってくるから」

 笑顔を置いて、シラハは部屋の中へと戻っていった。昨日、また食べてくれるかと問われてうなずいたこともあり、永に断る理由はない。手に持っていた未開封の固形栄養食を、永はおもむろにポケットに仕舞った。

「今日は、何の野菜を入れたんだ?」

 差し出されたパンを受け取りながら、永は尋ねた。

「憶えていてくれたんだな」

 シラハは嬉しそうに笑った。

「グリーンピースだ。でも、青臭くない。こだわりの一品なんだぜ、これ」

「そうか」

 焼き立ての温もりと柔らかさを指先に感じながら、一口、齧る。確かに青臭さはなく、ほんのりと甘い。優しい味だと、思った。

「シラハ」

「うん?」

「もしかして、待っていたのか? 俺がベランダに出てくるのを」

 何気なく訊いた永に、シラハは僅かに驚いたように瞬きをして、はにかんだ笑みを浮かべた。

「いや、待ってはいねぇよ。偶々たまたまだ」

 でも……と、そこで一度、シラハは言葉を切り、

「出てこねぇかなとは、思っていたけどな」

 ほんの少し、照れたような色を笑顔に重ねた。

「……美味いよ」

「え?」

「美味い」

 二口めを頬張る。良かった、とシラハは破顔して、自分もパンにかぶりついた。

 誰かと一緒に朝食を取るのは、いつ以来だろう。……いや、分かっている。兄と食べた、さいごの日以来だ。

 眼下に横たわる河を、永は見るともなしに眺めた。雲間から注ぐ朝陽を受けて、水面みなもまばゆく輝いていた。シラハに似ていると、ふと思った。そういえば、昨日も、シラハの笑顔を朝陽のようだと感じたことを思い出す。朝をまとう男だ。彼に夜は似合わない。血溜まりの夜の底を這いずり回るより、燦々さんさんと陽の当たる真昼の道を駆けていくべき人間だ。

「シラハ」

「うん?」

「お前は、まだ、間に合う」

「え……?」

「お前は、まだ……誰も殺していない」

 朝陽の中、兄の笑顔が脳裏に浮かぶ。あぁ、兄の笑顔もまた、光だった。

「お前は、殺さないでくれ」

 殺さなくていい。お前は、これからも、殺さなくていい。たとえ、お前が俺の《護衛人ボディガード》でも、お前が俺を護って誰かを殺す前に、俺がそいつを殺してやる。

「俺のために、お前が誰かを殺すところを、俺は、見たくない」

「……クロセ……?」

 戸惑いに揺れるシラハの声に、はっと我に返る。今、自分は、何を言った?

「すまない。変なことを言った。忘れてくれ」

「クロセ!」

 顔を背けてきびすを返した永を、シラハは呼び止めた。

「それでも、俺は、護るためなら撃てるようになりてぇよ」

 背中にかかる、まっすぐな声。永は振り返らなかった。遮るように硝子を閉め、カーテンを引く。コーヒーを持つ手が、小さく震えていた。ぐっと握って抑えこみ、ずるりとその場にうずくまる。

「……なんで……俺…………」

 さっきの思考は、本当に自分のものだろうか。ひとりでに口をついて出た言葉は、本当に自分から発せられた本心だろうか。分からない。わからない。わからない。ただ、脳裏にきついた兄の笑顔が、火にくべられた写真のように焼け落ちていく。

「……兄さん……?」

 まさか、兄は、こんな気持ちだったのだろうか。知らない。自分は、知ろうともしなかった。兄が、どんな思いで、自分の傍にいたのか。兄を護るためにトリガを引き、返り血にまみれつづける弟を、兄が、どんな気持ちで、見ていたのか。


――大丈夫だ、永。俺がやる。


 始まりの雪の日の、兄の言葉を思い出す。兄は永に殺させなかった。選べない中でも、兄は、その手で叶えられるだけ、永を庇ってくれたのだ。守ってくれたのだ。


――守れなくて、ごめん、永。


 あぁ、そうだ、兄は言ったのだ。永が《護衛人ボディガード》として、護るべき《調整人コーディネータ》である兄と再会した日。聞こえないふりをして、気づかないふりをして、分からないふりをして。兄と生きられるなら何だっていいと、目を閉じて、耳を塞いだ。兄の笑顔に隠された傷口を見ようともせず、自分の名を呼ぶ穏やかな声の内側に封じられた軋みを聴こうともしないで。自分に向けられる兄の優しさを、都合よく享受しつづけた。

 兄からこぼれ落ちた、最初で最後の悲鳴だったのに。


――弟に人を殺させて生きる兄なんて、もう兄とは呼べないよ、永。

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