Act.4-1

 粉雪の舞う朝だった。積もることはない、ただ落ちて消えていくだけの淡い雪だ。

 永の中に、ふとした瞬間に浮かび上がる兄との記憶は、雪と共にあるものが多い。 ひら、ひら、と舞い落ちる雪に重なるように、記憶の片鱗が胸の内の暗闇を横切っていく。

 兄とふたり、第九機関に命を繋がれた日も、雪だった。

 物心つく頃には、永は兄とふたりきりで、旧市街の北端、ひときわ風化の進んだスラムに生きていた。その日も雪が舞っていて、拾った毛布一枚では、どれだけ身を寄せ合っても寒さを凌ぐには足りず、かちかちと歯の根を鳴らしていた。

 《勧誘人スカウトマン》を名乗る男が声を掛けてきたのは、ひび割れた石畳がすっかり雪に覆い尽くされた夜だった。

「テストを受けてみるかい?」

 男は言った。背が高く、上質な黒いコートを着ていた。

「合格したら、暖かい場所に保護してあげる。食べるものも、着るものも、ベッドもある。もちろん、ふたり一緒にね」

 かがんでこちらに目線を合わせ、男は柔和に微笑んだ。自分たちの知る大人は皆、無視か暴力しかなかったから、大人のほうから優しく声を掛けてきたことも、自分たちを見下ろさない大人と出会ったのも初めてで、永は戸惑い、兄の腕にぎゅっとしがみついた。そんな永の手に兄は自分の手を重ね、大丈夫だという声の代わりに、永に小さく微笑みかけた。そして再び唇を引き結び、警戒の色をたたえた視線を男に向ける。

「テストって?」

 兄は尋ねた。凛とした、落ち着いた声だった。男は満足そうに頷いて、肩に掛けていたビジネスバッグから、銃とナイフ、そして一枚の写真を取り出した。

「今から十分後、あそこの店から、この男が出てくる。そいつを殺すんだ。上手にできたら、合格だよ」

 男が指差したのは、道路の向かいにある賭博場だった。写真の男は大柄で、見るからに人相が悪い。自分たちが受けてきた暴力を、象徴するような大人だった。

 殺すことが、テスト。殺せることが、保護される条件。

 ひとりだったなら、首を横に振っただろう。けれど、自分たちは、ふたりだった。このとき、この瞬間、兄も、自分も、きっと同じことを考えていた。兄は永のため、永は兄のため、銃とナイフに手を伸ばした。

 人を殺す道具は、永の手には、ずっしりと重く、指が震えたのは凍えているせいだけではなかった。

「大丈夫だ、永」

 賭博場の建物の陰に身を潜め、兄は微笑み、ささやいた。

「俺がやる。永は俺をサポートしてくれ」

「兄さん」

「考えがあるんだ。いいかい、永。相手は大人だ。しかも大柄で、間違いなく暴力の心得もある。武器だって持っているだろう。正面からまともに向かったら、殺されるのは俺たちだ」

 殺される。その言葉に、永はびくりと体を震わせる。そんな永の頭に、兄は優しく手を置いた。

「だから、一芝居打つ。今から伝えるシナリオ通りに、永は動いてくれればいい。俺が確実に殺せるように、永は俺を護ってくれ」

 永も兄も、今まで人を殺したことなんてない。この夜が初めてだった。だが兄は、どこまでも冷静だった。

 十分後、自分たちはテストに合格した。おめでとうと、《勧誘人スカウトマン》の男は大げさに拍手をして、車に乗せた。連れられた先は、郊外の施設。孤児院だと男は言ったが、その実、第九機関の構成員となるための広大な養成所だった。集められた子どもが全員、同じテストを受けてきたのかは知らない。ただ、人を殺せることが、ここにいるための最低条件ではあっただろう。午前中は普通のスクールと同じような勉強、午後からは訓練。玩具は、弾の入っていない銃と、ダミーナイフ。食事は豊富で、衣服は新品、ベッドは柔らかく、毛布は厚かった。病気になれば往診があり、当然のように薬が与えられ、適切な治療を受けられた。

 先に十五歳になった兄は、施設を卒業し、第九機関に入った。《調整人コーディネータ》の補佐に就いたという。補佐とはつまり、《調整人コーディネータ》の候補生を意味する。普通なら、《削除人デリータ》をはじめとする他の《キャスト》を経験してから抜擢されることが多いが、兄は最初から《調整人コーディネータ》の適性を見出されていた。二年後、兄は十七歳で正式に《調整人コーディネータ》となり、永は十四歳で、その《護衛人ボディガード》になった。通常ならば十五歳で卒業するところを、実地研修も含めて一年前倒しで機関に入ることとなったのは、兄の卒業後、全ての試験で満点フルスコアを叩き出しつづけた永に飛び級が認められたからだ。施設を卒業しなければ、兄に会えない。一日でも早く、兄のもとへ行きたかった。兄の《護衛人ボディガード》になれると知った日、永は嬉しさのあまり眠れなかった。今までに味わったあらゆる辛苦が、底から掬い上げられ、報われた気がした。こんな幸福があるのかと、すぐには信じられないほどに。

「お前、兄貴の《護衛人ボディガード》になるんだってな」

 再会の日、往路の車内で、《運搬人ポータ》の男に話しかけられた。そうだよと、はやる心を抑えきれない永に、彼は肩をすくめて、苦く笑った。

「兄の心、弟知らず、だな。まぁ、《調整人コーディネータ》の候補生の段階じゃ、〝上〟の決めた人事を、どうこうできる力はないわな」

 どういう意味? と永は眉をひそめた。男は、大人の事情だと言うばかりで、答えてはくれなかった。

 二年振りに再会した兄は、最後に見た姿より少し痩せていた。それでも、優しい笑顔はいささかも変わらず、春の陽のように穏やかだった。たまらずに駆け寄り飛びついた永を、兄は温かく抱きとめて、ただ、そこで、呟くように、ひとつだけ言葉を落とした。

「守れなくて、ごめん、永」

 その声は、あまりにも小さく、微かで、

「兄さん?」

 聞き返しても、兄は緩く首を横に振るばかりだった。ただ、そのときに浮かんでいた兄の微笑には、どこか哀しげな色が滲んでいた。なぜ、兄は、そんな顔をしたのか。自分は、兄と再会できた喜びで胸が一杯で、兄の表情を深く汲み取ることができなかった。

 思えば、このときがいちばん、幸せな瞬間だった。

 本当は、銃なんて撃ちたくない。ナイフだって握りたくない。血飛沫ちしぶきも血溜まりも悲鳴も涙も死体も、知らないままで生きられるなら、心の底から、そうしたい。初めて人を撃った日の夜、永は陰で嘔吐を繰り返した。吐いて、吐いて、それでも永は銃を握った。人を殺して生きるということ。兄を護るということ。兄と一緒に、生きるということ。

 兄を護るためなら、何度だってトリガを引けた。兄を護れるなら、ナイフだって振るえた。兄が生きていてくれるなら、この世界を生きることだって怖くなかった。


――俺が生きている限り、兄さんは死なない。


 それなら自分は、生きられる。人を殺してでも、生きられる。


――俺が護るから。兄さんを、絶対に死なせないから。


「永」

 春風のように温かい声で、兄は名前を呼んでくれた。永の前で、兄は、ずっと、笑顔だった。兄が永に向ける顔は、いつも穏やかな微笑みで、曇ることもかげることもなかった。慈しむように、なにもかもをゆるすように、兄は微笑みつづけていた。

 だから、永の記憶に存在する兄の顔は、優しい笑顔ばかりだ。

 さいごに向けられた、血にまみれた死に顔さえ。

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