Act.4-1
粉雪の舞う朝だった。積もることはない、ただ落ちて消えていくだけの淡い雪だ。
永の中に、ふとした瞬間に浮かび上がる兄との記憶は、雪と共にあるものが多い。 ひら、ひら、と舞い落ちる雪に重なるように、記憶の片鱗が胸の内の暗闇を横切っていく。
兄とふたり、第九機関に命を繋がれた日も、雪だった。
物心つく頃には、永は兄とふたりきりで、旧市街の北端、ひときわ風化の進んだスラムに生きていた。その日も雪が舞っていて、拾った毛布一枚では、どれだけ身を寄せ合っても寒さを凌ぐには足りず、かちかちと歯の根を鳴らしていた。
《
「テストを受けてみるかい?」
男は言った。背が高く、上質な黒いコートを着ていた。
「合格したら、暖かい場所に保護してあげる。食べるものも、着るものも、ベッドもある。もちろん、ふたり一緒にね」
「テストって?」
兄は尋ねた。凛とした、落ち着いた声だった。男は満足そうに頷いて、肩に掛けていたビジネスバッグから、銃とナイフ、そして一枚の写真を取り出した。
「今から十分後、あそこの店から、この男が出てくる。そいつを殺すんだ。上手にできたら、合格だよ」
男が指差したのは、道路の向かいにある賭博場だった。写真の男は大柄で、見るからに人相が悪い。自分たちが受けてきた暴力を、象徴するような大人だった。
殺すことが、テスト。殺せることが、保護される条件。
ひとりだったなら、首を横に振っただろう。けれど、自分たちは、ふたりだった。このとき、この瞬間、兄も、自分も、きっと同じことを考えていた。兄は永のため、永は兄のため、銃とナイフに手を伸ばした。
人を殺す道具は、永の手には、ずっしりと重く、指が震えたのは凍えているせいだけではなかった。
「大丈夫だ、永」
賭博場の建物の陰に身を潜め、兄は微笑み、
「俺がやる。永は俺をサポートしてくれ」
「兄さん」
「考えがあるんだ。いいかい、永。相手は大人だ。しかも大柄で、間違いなく暴力の心得もある。武器だって持っているだろう。正面からまともに向かったら、殺されるのは俺たちだ」
殺される。その言葉に、永はびくりと体を震わせる。そんな永の頭に、兄は優しく手を置いた。
「だから、一芝居打つ。今から伝えるシナリオ通りに、永は動いてくれればいい。俺が確実に殺せるように、永は俺を護ってくれ」
永も兄も、今まで人を殺したことなんてない。この夜が初めてだった。だが兄は、どこまでも冷静だった。
十分後、自分たちはテストに合格した。おめでとうと、《
先に十五歳になった兄は、施設を卒業し、第九機関に入った。《
「お前、兄貴の《
再会の日、往路の車内で、《
「兄の心、弟知らず、だな。まぁ、《
どういう意味? と永は眉を
二年振りに再会した兄は、最後に見た姿より少し痩せていた。それでも、優しい笑顔は
「守れなくて、ごめん、永」
その声は、あまりにも小さく、微かで、
「兄さん?」
聞き返しても、兄は緩く首を横に振るばかりだった。ただ、そのときに浮かんでいた兄の微笑には、どこか哀しげな色が滲んでいた。なぜ、兄は、そんな顔をしたのか。自分は、兄と再会できた喜びで胸が一杯で、兄の表情を深く汲み取ることができなかった。
思えば、このときがいちばん、幸せな瞬間だった。
本当は、銃なんて撃ちたくない。ナイフだって握りたくない。
兄を護るためなら、何度だってトリガを引けた。兄を護れるなら、ナイフだって振るえた。兄が生きていてくれるなら、この世界を生きることだって怖くなかった。
――俺が生きている限り、兄さんは死なない。
それなら自分は、生きられる。人を殺してでも、生きられる。
――俺が護るから。兄さんを、絶対に死なせないから。
「永」
春風のように温かい声で、兄は名前を呼んでくれた。永の前で、兄は、ずっと、笑顔だった。兄が永に向ける顔は、いつも穏やかな微笑みで、曇ることも
だから、永の記憶に存在する兄の顔は、優しい笑顔ばかりだ。
さいごに向けられた、血に
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