Act.3

 おそらく今夜、指令が下る――クロセの言葉通り、空が茜色に染まりはじめた頃、《伝達人メッセンジャ》は到着した。伝えられた任務は、今夜、新市街のどこかに現れる《標的ターゲット》の暗殺。まずは、その場所と時間を知る人物と接触し、聞き出すところからだった。

随分ずいぶんと急だな」

「ずっと調べていて、やっとつかんだ尻尾らしい。この機を逃す手はないだろう」

 急ぐぞ、とクロセがアパートメントの階段を駆け下りる。昴もうなずき、後に続いた。アパートメントの下には既に《運搬人ポータ》が待機していて、クロセと昴が乗りこむとすぐにアクセルを踏んだ。先日の女性とは違う。年かさの男だった。

 車の後部座席に並んで座り、《伝達人メッセンジャ》に渡された資料に目を通す。《標的ターゲット》は、ハン・イグロという老人。これから接触する人物は、イグロの手下で、ゲン・トガシという中年の男だった。資料には、二人の顔写真も添付されている。

「……クーデターか」

 資料によると、彼らは二年前にクーデターを試みるも失敗し、国外に逃亡。だが最近になって再び舞い戻り、再興を企てているらしい。

「元・将校ね……武器の調達もしやすいわけだ」

 資料を二つに折り、昴は小さく息をつく。

「……公安は、何をしているんだ」

「公安は一枚岩じゃない。新政権をよしとしていない連中もいる。それに、表舞台から追放されても、権力を全て失ったわけじゃない。派閥を介して隠匿するのも、権力の使い方だ」

「この国は、俺が思っていたよりずっと不安定だったんだな」

 安定していれば、第九機関なんて組織、最初から発足しなかっただろう。

「そろそろ最初の目的地ポイントだ」

 車が止まったのは、歓楽街の一角だった。日没を前に、早くも街路には客引きがうろつき、賑わいはじめている。慣れない場所に足を踏み入れ、昴は居心地の悪さに思わず顔を強張らせた。

「こっちだ」

 クロセに声を掛けられ、昴は彷徨さまよいかけた視線をクロセに戻す。クロセは慣れた足取りで、クラブやバーが軒を連ねたストリートを歩いていく。昴も唇を引き結び、後に続いた。

 目的の店は、古びた雑居ビルの地下にあるクラブだった。店内には煙草と香水の匂いが充満し、思わず眩暈めまいを覚えそうになる。

ゲン・トガシだな」

 奥のテーブルでグラスを傾けていた男に、クロセは声をかけた。男は片眉を上げ、クロセを下からめつけると、ふいと視線をらした。

「知らねぇな。俺じゃねぇ」

「そうか」

 瞬間、男がふところに手を遣るのと、クロセが男に銃を向けるのは同時だった。

「……穏やかじゃねぇな、兄ちゃん」

 眉間に銃口を突きつけられ、男は自分の得物に届かなかった手を中空で止める。

「質問は一つだ。今夜、ハン・イグロが現れる時間と場所を言え」

 淡々とした口調で、クロセは男を見下ろす。

「よく考えな、兄ちゃん」

 男は口の端に、虚勢の笑みを浮かべた。

「ここは表社会の店だ。銃なんて物騒なモン、ちらつかせるんじゃねぇよ。ここで俺が騒げば、即、通報されて、お前は逮捕だ」

「試してみるか?」

「なに――」

 男の声の末尾は、銃声に搔き消された。左膝から血飛沫ちしぶきを上げ、男はソファから崩れ落ちる。

「クロ――」

「答えろ」

 思わず呼びかけた昴を遮るように、クロセは男に畳みかける。男は苦悶と狼狽に満ちた瞳でクロセを見上げ、大声で叫んだ。

「誰か! 助けてくれ! 警察を! 警察を呼んでくれ!」

 店内に、男の声が響き渡る。

 最初に気づいたのは昴だった。数秒後には、わめいていた男も、周囲の異様さに、声が止む。

 男が黙ると、店内は水を打ったように無音になった。

 クラブの店員も、客も、ただ冷ややかに、こちらを見ている。

「どういうことだ……?」

 辺りを見回し、茫然と、男が瞠目する。

 床に片膝をつき、クロセの銃が、再び男の眉間をとらえた。

「俺たちの組織を甘く見るな。ここにいる者、全員が《群衆エキストラ》……俺たちの組織の人間だ」

「……《群衆エキストラ》……?」

「……組織……?」

 昴と男の問いかけが、広がる血溜まりに落ちていく。

「まさか、お前たちは……」

 男の唇が、絶望に震えた。

「分かった……言う……言うから、殺さないでくれ……」

 背中を丸めて、男はクロセに懇願する。

「命乞いは後でいい。聞きたいのは、ハン・イグロが現れる時間と場所だ」

 クロセの銃口が、男の前髪に触れる。男は上擦った悲鳴をあげ、涙声で言った。

「八番街だ! 八番街のクラブに今日の二十時半! クラブの名前は〝ティーラ〟。そこで協力者と会合を開く予定だ……っ!」

「八番街か……今から向かえば、充分、待ち伏せができるな」

「なぁ! 言っただろ! 答えただろ! 見逃してくれよ、なぁ!」

「そうだな」

 銃を引き、クロセはおもむろに立ち上がる。男が、ほっと息をついた瞬間、

「……えっ……?」

 昴が瞠目するのと、クロセの銃が硝煙を上げるのは、同時だった。

 撃たれたと認識する間もなかっただろう、即死だった。気を緩めた表情のまま、男は頭を撃ち抜かれて死体になった。

「クロセ……ッ!」

 思わずクロセの左肩を掴み、昴は言った。

「なんで殺した……⁉」

「顔を見られているからだ。俺たちの顔を知った人間を、生かして放す利点はない」

 凪いだ表情のまま、クロセは肩越しに振り返り、冷ややかに返答した。

「気に入らないなら、この仕事が終わったら、お前が俺を〝粛清〟すればいい」

「なに、言って……」

「行くぞ。ここは《掃除人クリーナ》に引き継ぐ」

 昴の手を振り払い、クロセは店の出口へと向かう。《群衆エキストラ》たちもまた、死体となった男には一瞥もくれずに、ぞろぞろと店を出ていく。

 昴はひとり、こぶしを握った。膝を折って屈み、男のまぶたを、そっと閉ざす。

 分かっている。クロセは間違っていないと、頭では理解できている。ただ、心がついていかない。あまりにも簡単に殺してしまえることにも、あまりにも簡単に、殺されてしまうことにも。

 ハン・イグロの殺害は、当人と接触することなく遂行された。第九機関は公安ではなく、極力目立たないように行動する。遠くから狙撃ができるなら、それに越したことはないのだ。ハン・イグロの暗殺に当たった《削除人デリータ》はクロセだけではない。クロセがゲン・トガシから得た情報は《伝達人メッセンジャ》により狙撃を主とする《削除人デリータ》にも伝えられ、クロセと昴は狙撃が失敗した際の保険のひとつとして配置された。

 情報を引き出されて葬られた男の言葉通りの場所と時間に現れた《標的ターゲット》が脳天から血飛沫ちしぶきをあげて夜の底に倒れていくのを、昴はビルの陰から茫然と見ていた。クロセと出会った日、公安と撃ち合ったのは、余程、珍しいことだったのだろう。派手な大捕り物とは対極の仕事だった。真夜中の海のように、静かに打ち寄せては引いていく。後には死体が残るだけ。あるいは、死体すら片づけられて、何も残らない空白が広がるだけ。

「これが、第九機関……」

 《標的ターゲット》の狙撃が成功したのを見届け、無言で車へときびすを返したクロセの後に、昴はただ続くしかなかった。

 見ていただけだ。今日、自分は、目の前に広がった光景を、ただ眺めていただけだった。

 ジャケットの下、ホルスタに収めた銃が、ずっしりと重く感じた。

 支給された銃は、公安で手にしていたものよりも軽くて扱いやすい新型のものだった。それなのに、重くて、おもくて、たまらなかった。

 情けないと、思う。この期に及んで、まだ戸惑うのか。覚悟を決めたはずなのに。自分はクロセのように撃てるのか。クロセのように、人を殺せるのか――

「シラハ」

 車の後部座席。隣で外を眺めていたクロセが、振り返らないまま静かに口をひらいた。

「お前は《護衛人ボディガード》だ。《削除人デリータ》じゃない」

「……クロセ……?」

「俺と同じに、なる必要はない」

 それだけ言って、クロセは沈黙した。

「クロセ……」

 返す言葉を掛けようとして、見つけられずに、ただ名前だけが声となって落ちていった。

 胸の内側で軋んでいたものが、ほんの少し、和らいだ気がした。銃は重いままだ。それでも良いのかもしれないと思った。この重い銃で、誰かを撃つ。そのときは、せめて、別の誰かを護るためでありたいと、願うことは赦された気がした。

 誰かの命を免罪符にして、別の誰かの命を奪う。そんな、身勝手で、都合の良い、なけなしの正義でも。

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