Act.2

 旧市街は公安が治安維持を放棄したエリアだといわれているが、全てが無法地帯というわけではない。スラムの中心部には確かに貧民窟や暗黒街と呼ばれる場所も存在するが、このアパートメントのある地区は新市街に近く、比較的自治も秩序も維持されている。

 それでも、生まれも育ちも新市街で、あまつさえ第四機関の人間であった男には、到底、この街の空気は合わないだろうと思っていた。

 それなのに、

「……今日は、朝からパンを焼いているのか」

 シャワーを浴び、髪を拭きながらリビングに戻った永は、適当につかんだ缶コーヒーのプルタブをあけようとして、その手を止めた。建てつけの悪いベランダの硝子の向こうから、隙間風に混じって、香ばしい匂いが流れこんでくる。

 仕事でペアを組むことになった男が同時に隣人にもなって、二日目。彼は至極、マイペースに、この街での暮らしに馴染んでいるようだった。昨日の夜も、露店で食材を調達し、何かを作っていた。料理が好きなのだろうかと考えかけて、やめる。興味などない。関心があるわけじゃない。ただ今まで音も匂いもなかったところに突然それが加わって、一時的に非日常を感じているだけだ。

 缶コーヒーを飲みながら、固形栄養食を手に取り、ベランダに出る。一部屋ずつ独立した、金属製の小さなベランダだ。

 冬の朝特有の、濃いスモッグの匂いを含んだ風が、パンとコーヒーの香りを攪拌かくはんしていく。

 隣のベランダの扉があいたのは、永が固形栄養食を口に放りこんだときだった。

「あっ、クロセ」

 ふわふわと風に遊ぶシルバーブロンドの髪が、雲間から漏れる薄陽にきらめく。不意に屈託のない笑顔を向けられて、永はせそうになった喉を、コーヒーを流しこんでなだめた。昴・シラハ。一昨日、一方的に隣人かつ仕事の相棒だと決められた人間。

「おはよっ」

「……おはよう」

 シラハの明るく友好的な雰囲気に押され、永もぎこちないながらも挨拶を返す。人懐こい性格なのか、笑顔でフランクに話しかけてくるシラハに、永は調子を狂わされて戸惑っていた。

「もしかして、お前、それが朝食?」

 シラハがふと、永の手元に目をとめて尋ねた。固形栄養食の包み紙が、穏やかな風にちりちりと揺れている。

「そうだが……」

「マジかよ」

 ちょっと待ってろ、とシラハは突然、きびすを返し、小走りに部屋へと戻った。永が首をかしげていると、

「良かったら、これ、食わないか?」

 目の前に差し出されたのは、大皿に盛られた淡いオレンジ色の丸い物体。

「キャロットパン。焼き立てだ。美味いぞ」

「キャロット?」

 なるほど、人参を練りこんでいるからオレンジ色をしているのか。

 戸惑いながらも、永はシラハの笑顔に押され、徐にひとつ手に取る。永の冷えた指先に、焼き立てのパンの温もりが、じわりと滲む。

「……いただき、ます」

 なぜ自分は、こんなことをしているのか。毒は入っていないと分かってはいても、他人に与えられたものを口にするなんて、いつ以来だろう。

 一口、齧る。ふわふわと柔らかく、ほんのりと甘い。子どもが好きそうな味だと思った。

「……美味いな」

 永が素直に感想を言うと、シラハは顔を綻ばせた。自分もひとつ手に取り、大口をあける。オレンジ色の満月が、綺麗なカーブを描いて欠け、永のそれよりも月齢を進めた三日月ができた。

「料理が好きなのか」

 二口めを嚥下してから、永は自然と問いかけの言葉を口にしていた。

「好きっていうか、癖みたいなもんかな」

 早くも一つ食べ終えたシラハが、ふっと目元を和らげて答える。

「癖?」

「ああ。俺の家、五人家族だったんだけど、両親が共働きで……歳の離れた弟と妹に食事を用意するのは俺の役目だったんだ」

 懐かしむように目を細め、シラハは続けた。

「弟が野菜嫌いで、これなら食えるかって作ったのが、このパンだった」

 今でもつい作ってしまう。思い出が、無意識に、体に染みついたいつかの日常をループさせるのだ。

「……殺されたのか」

 永は言った。死んだのか、ではなく。

「ああ。俺が十七のときだった」

 シラハは淡々と答えた。表情は穏やかだった。感傷に苦い笑みを浮かべることも、憐憫に瞳を曇らせることもなかった。それが、永にとっては、少し意外に思えた。

 シラハの経歴は、一昨日の任務に際して目を通した書類で知っている。

 父親は検事で母親は弁護士。三人兄妹の長男。彼が十七歳のとき、一家は強盗に襲われ、彼以外の全員が殺害される。十八歳で公安の専門学校に入り、首席で卒業。二十歳で第四機関の組織犯罪対策部に配属――無機質に記憶した彼のデータだ。

「その日は休日で、俺以外の家族全員が、家にいた。俺はハイスクールのクラブの練習に行っていて、ひとりだけいなかった」

 だから、殺されなかった。自分だけ。

「なぜ……」

 永の唇から、問いかけの言葉がこぼれ落ちた。

「なぜ、お前は、笑えるんだ?」

 そんな、いささかも歪まない穏やかな微笑で、家族の記憶を語ることができるんだ。幸福だった日の記憶も、それが壊れた日の記憶も。

「つらくは、ないのか?」

「つれぇよ」

 でもな、とシラハは小さく息をつく。真白のかすみが、初冬の空に、ふわりと溶けた。

「壊れて終わったからこそ、幸せだった記憶が、とてつもなく愛しく感じるんだ」

 幸せが壊された日のことを話していても、脳裏に浮かんでいるのは、家族の笑顔ばかりで。

「……お前は、幸せだった日の記憶で、生きているんだな」

 永は呟いた。声には何の感情もうかがえなかったが、それでも響きは柔らかかった。

「お前は、違うのか?」

 シラハが、首を傾けて、永を見つめる。

「俺は……失った日の記憶で生きている」

 永は河の対岸へと目を遣った。スモッグ越しに、新市街の摩天楼のシルエットが浮かんでいた。

 永の表情にも、声にも、何の色も宿っていない。

 吹き抜ける北風が、永の言葉をさらい、指先を再び冷やしていく。

「シラハ」

 少しの沈黙を経て、永は再び、口をひらいた。

「……午後になったら、出かける準備をしておけ」

 おそらく今夜、指令が下る。

 目を伏せて、それだけ短く伝え、永は部屋へときびすを返した。しかし、ベランダの扉に手をかけたところで、僅かに視線を上げて、足を止める。

「キャロットパン、美味かった。……ありがとう」

 呟くような小さな声だったが、シラハの耳には確かに届いたらしい。ベランダの手摺てすりから身を乗り出して、シラハは永に声をかける。

「よかったら、また、食べてくれるか?」

 シラハの声に、永は振り返る。シラハが、まっすぐに、こちらを見つめていた。微笑みながら、それでも、どこか脆い硝子のような瞳で。

「……俺なんかで良ければ」

 半ば無意識に、永は返答していた。シラハの顔が、ぱっと輝く。

「さんきゅ」

 朝陽のような笑顔だった。どこか悲哀を感じる笑顔だとも思った。

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