Act.1-4

 いくつかの橋を越えるにつれて、車窓を流れるビルの壁に、ひびと落書きが増えていく。舗装の剥がれた街路には、散乱する廃棄物と、大きく広がった何かの液体の染み。公安が、治安維持の管轄外に置いた地区。旧市街に、入っていく。

「俺はスバル・シラハだ」

 停滞する沈黙を破り、昴は切り出す。

「お前は……ハルカ・クロセ?」

「ああ」

 昴に視線を向けないまま、青年は頷いた。

「この組織に入って、長いのか?」

「長いか短いかの基準は知らないが、七年以上は所属している」

「七年?」

 昴は思わず聞き返す。

「お前、歳は……」

「二十一だ」

「俺と同じかよ」

 愕然と見ひらいた瞳で、昴は青年を見つめた。こいつは、そんな子どもの頃から、銃を握っているのか。

「別に珍しいことじゃない」

 昴の胸中を察したのか、青年が呟くように、言葉を続ける。

「撃ち方さえ訓練すれば、何歳だろうと、誰でも一通り撃てるようになる」

「シラハさん」

 昴と青年の遣り取りを聞いていた《運搬人ポータ》の女性が、苦笑しながら間に入る。

「この国には、第九機関が運営している孤児院が、いくつもあるんですよ。私も、クロセさんも、旧市街のスラムに生まれて、運良く、そこに引き取られました」

「運良く?」

「はい。シラハさん、貴方は、この国における他児養子の割合が、どれだけあるか、ご存じですか?」

「いや……」

「一パーセントです。ほとんどの子は、十五歳になったら、施設を追い出されて、元のスラムに戻ることになります」

 でも……と、彼女はそこで一呼吸置き、言葉を続けた。

「第九機関の抱える施設では、頑張って訓練して、勉強して、試験で優秀な成績を修めることができたら、軍や機関に就職する道が開けるんですよ」

 だから私は、第九機関が好きです。

「《運搬人ポータ》」

 青年が、バックミラーに視線を上げ、遮るように声を放った。

「喋りすぎだ」

 ひょうのように固く冷たい声音に、《運搬人ポータ》の体が、小さく跳ねる。

「……申し訳ありません、《削除人デリータ》」

 華奢な肩を落として、彼女は沈黙する。

「君は……」

 考える前に、昴は声を掛けていた。

「第九機関に、誇りを与えられたんだな」

 自然と、言葉が出ていた。

「はい」

 頷く彼女の笑顔を、昴は眩しいと思った。

 ハンドルを操る彼女の指先は、艶やかに、華やかに、彩られ、輝いていた。

 充足の象徴のように。幸福の証明のように。



 車が到着したのは、そろそろ日付が変わる頃だった。

 連れられたアパートメントは、旧市街の東側のエリアにあった。河に面していて、ベランダからは大きな橋が望める。寝室とダイニングは分かれていて、特別に広いわけでも、狭いわけでもない。一人で住まうには丁度良い広さの間取りだった。

 部屋の中央には、大きな箱が積まれていた。第四機関の職員寮から運びこまれた私物だった。監視の目もあったはずなのに、どうやって? 薄ら寒く思いながら、昴は、手前の箱を開封する。

「っ……あ……」

 一番上に梱包されていたのは、一枚のフォトフレームだった。父親と母親、歳の離れた弟と妹、そして、十七歳の昴が映っている。家族写真だった。最後に遺った、四年前に時間の止まった家族の記録。

「……ごめん、俺……」

 家族の笑顔を、そっと指でなぞる。

「俺だけ、皆と同じ場所へはいけねぇと思う」

 今日、初めて、人を撃った。殺しはしなかったけれど、それでも。

 この体は、あまりにも、訓練通りに、正確に動いた。

 覚悟なら、ずっとしていた。公安の人間として、いつか、自分の放った弾丸が、誰かの命を奪うこともあると。けれど、それは、他方の、善良な命を守るためだ。正義の、ためだ。青臭いか? 綺麗事か? それでも、本気だったんだよ。本気で、それを、全うしたいと思っていたんだよ。願って、いたんだよ。

 けれど、これからは、違う。

 この手はどれだけ殺すのだろう。正しさの秤が傾いた世界で。この足はどれだけ踏み潰すのだろう。法から外れた道の上で。

「……それでも、俺は……」

 守りたかった。誰かを、何かを。

 守りたいものがほしかった。守るべきものがほしかった。

 たったひとりでいい。たったひとつでいい。誰でもいいから。何でもいいから。守って、守って、守り抜いて、その果てで死ぬことができたなら、やっと自分は、あがなうことができる。家族に、顔向けができる。そう信じた。縋っていた。

「守らせてくれ……」

 どうか、誰か、何か、俺に。

 それなら自分は、どれだけ汚れても構わないから。

 自分を、赦せるから。

 フォトフレームを、キャビネットの上に、そっと置いた。それは、戒めであり、願いであり、祈りでもあった。

「……ああ、そうか……」

 俺は……。

 今まで自身の内側で覆い隠していたものが、殻を破って、姿を現す。

 それは、剝き出しの、望みだった。


――俺は、誰かを守って、死にたかったんだ。


 ずっと、ずっと、死にたかった。でも、簡単に死ぬことは……楽になることは、自分が赦せなくて……死ぬことを自分に赦せる理由が欲しかった。

「……《護衛人ボディガード》……」

 昴の口元に、薄い笑みが浮かぶ。

 そうか、これでいいのか。

 自分の意志で、誰かを守って、何かを守り抜いて、死ぬ。

 舞い落ちた望みの果てで、その役割を与えられたのなら。


 いつか、自分をゆるせる日が、幸福に終われる日が、訪れるかもしれない。



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