Act.1-3
古いビル群のあいだを、車は進む。次第に街灯は
(こいつらは何者なんだ……?)
車窓の外を眺めるふりをして、昴はバックミラーに映る女性と、硝子に映る青年の横顔を
「着きましたよ! 時間ぴったりです!」
運転手が車を止めたのは、橋の
昴の疑念は、すぐに消えた。車のドアを閉めて間もなく、前方のストリートの角を曲がって、車が一台、近づいてくる。よく磨かれ、黒光りする車体。昴が乗せられていた量産型の国産車と異なり、高級な外国製の車だった。
昴と数メートルの距離を隔て、向かい合うように車は止まった。運転手は中年の男で、こちらを一瞥もすることなく、静かに後部座席のドアをあけた。
最初に見えたのは、小さな黒いブーツの足。黒服に身を包んだ小柄な黒髪の少女だった。子ども……? 昴が驚いていると、少女に続いて、長身の影が降り立った。黒のハイヒール。そして、そこから続く、ダークグレイのパンツスーツの長い脚。すらりとした女性だった。歳は二十代半ば――昴より少し上くらいだろうか。緩く巻いた長い金髪を、すっきりとハーフアップにまとめている。凛とした雰囲気に、上質な細身のスーツがよく似合っている。
「文書は無事に回収できたようね」
涼やかな切れ長の瞳を微笑の形に細め、女性は口元に艶やかな笑みを浮かべた。
「ああ。ここに」
青年が、ちらりと昴に視線を遣った。アタッシェケースを貸せというアイコンタクト。昴は頷き、それを青年に渡した。中には、紐で綴じられた分厚い書類の束が三冊。青年から受け取った女性は、ぱらぱらと中を確認し、笑みを深めた。
「ちゃんと本物ね。ご苦労様」
優美な唇から、落ち着いた、少しハスキーな声が流れる。
「……いい加減、教えてくれ」
お前たちは、何者なんだ。
「その文書……あいつらに渡すより、お前たちに渡したほうがマシだったと思って良いのか、それだけでも知りたい」
「……そうね」
女性は文書をアタッシェケースに収めると、運転手の男に渡した。そして
「私たちは、この国の公安を、他国に売り渡すことを良しとしていないの。だから、この文書を、国賊から守る必要があった」
国賊。滑らかに紡がれる言葉の中に織り交ぜられた毒牙に、昴は眉を
昴の反応に、女性は微笑んだ。
「私たちは、この文書を回収し、しかるべき場所で保護するのが目的よ」
だから、安心して良いわ。
「貴方に愛国心があるのなら、ね」
それとも、貴方には、正義感と言ったほうが良いかしら。
「……お前たちは、反社会的勢力の人間ではないと、思って良いんだな」
「そうね。むしろ、そういった勢力を潰す側だわ」
「……なら、いい」
眉根を寄せながら、昴は女性を見据えた。
「それで、俺をこれからどうするつもりだ?」
殺すつもりなら、わざわざ車に乗せる必要などない。最初から射殺してアタッシェケースを奪っておけば済む話だ。ならば、自分に何かをさせようとしているのか。もし、それが道義に反することなら、従うものか。この場で、舌でも噛んで死んでやる。
「貴方に提示する選択肢は、二つよ」
カツン、とハイヒールの靴音が一歩、近づく。
ひらり、と、女性は昴に、一枚の紙きれを差し出した。そこには、知らない男の名前と経歴が記載されている。
「ひとつは、今この瞬間から、別人となって、遠く離れた町で平穏無事に暮らす道。貴方がそれを望むなら、新しい戸籍を用意するわ」
「なん……だって……?」
予想もしなかった返答に、昴は瞠目した。新しい戸籍? 別人になる? そんなことが可能なのか。それが本当だとして、彼らはなぜ、そんなことができるのか。
「そして、もうひとつは……」
滑らかに台詞を紡ぎながら、女性は唇の端に薄い笑みを引く。
「私たちの組織に加わり、私たちの掲げる正義を成す粛清の弾丸のひとつになる道」
ざぁ、と、冷たい風が後ろから吹きつけ、昴のコートをはためかせる。どこかで転がる空き缶の音が、刹那の沈黙を引き立てていった。
互いの空気が、ぴんと張り詰める。
「……組織……正義……粛清……」
昴の脳裏を、以前耳にした都市伝説がよぎった。誰も実体を
「……〝第九機関〟……」
昴の口から、半ば確信をもって、その言葉が落ちる。
「お前たちが……そう、なのか……」
第九機関。この国で、最強にして最凶の組織。
この国の中枢は、八つの機関から成り立っている。法務を司る第一機関、外交を司る第二機関、財務を司る第三機関、そして、公安を司る第四機関というように。そして近年、秘密裏に発足したと
「ええ。この国を表で操縦するのが第一から第八の機関なら、それが正しい方向に進むように裏で道を整えていくのが私たち、第九機関の仕事よ」
そして、貴方は、その適性があると判断された。
「もし貴方に、私たちの組織へ加わる意志があるなら、歓迎するわよ。昴・シラハ」
女性の言葉に、昴の眉が、ぴくりと動いた。
「正しい方向? 裏で道を整えていく?」
「その先にあるのは、独裁じゃないのか」
悔しさと憤りが、昴の胸を渦巻く。
存在すべきではないのだ。粛清を司る機関など。本来なら。本当なら。
この国が正しく機能していたなら、第九機関は生まれなかった。
公安を司る機関が腐敗しなければ、粛清を司る機関など必要なかったはずだ。
「……そうね」
女性の瞳は穏やかだった。
「でも、独裁が、必ずしも悪とは限らないわ」
度重なる他国からの侵略、蹂躙、解放という名の放棄を経て、無秩序な民主化を押しつけられた、今の、この国の状態では。
「ひとつ教えておくわ。第九機関の創始者が、最初に制定した規律の一節」
「――〝第九機関の構成員同士の粛清は、その罪を裁かない〟」
その言葉に、
「……仲間同士で殺し合っても……〝上〟の人間を殺しても、罪に問われないってわけか」
「ええ。だから〝上〟の人間ほど必死で正しく在ろうとするの。〝下〟の人間には貴方のように正義感の強い構成員も大勢いるし、人を撃つことに抵抗のない人間がほとんどだから。私たちは、権力によって従わされているのではないのよ。従うに値すると思えるから、従っているだけ。いつでも殺せるけれど、生かすに値すると思えるから、殺さないだけ」
だからこそ、貴方に声を掛けた。
「貴方なら、組織の良心のひとつになれる」
「……とんでもねぇ組織だな」
狂っている。いかれている。まともじゃない。それなのに、強力に、強大に、成立している。まるで薄氷のように危うい均衡の上で、それでも自壊することなく。
「第九機関は、存在すべきじゃない」
ぐっと、昴は両手を握りこむ。
「だが、公安の文書を守ることができたのは事実だ」
いつかは消えていくべき組織だ。未来には、終わりを迎えてしかるべき存在だ。
それでも今は、今だけは、必要だというのなら。
自分の居場所に、なり得るのなら。
「俺は……俺の力を尽くせる場所がほしい」
たとえ否定したい存在でも、自分を支える正義を成すことができるのなら。
誰かを、何かを、守ることができるのなら。
「決まりね」
口角を上げ、女性はスーツのポケットから何かを取り出し、昴に投げた。
ぱしっと空中で受け取り、手をひらくと、それは鍵だった。
「旧市街に、家具付きのアパートメントを用意しているの。貴方の元の部屋から、荷物は粗方、移しておいたけれど、足りないものがあったら、言ってくれたら善処するわ」
「ちょっと待ってくれ。勝手に引越し作業をしたのか?」
「戻るわけにはいかないでしょう。手放したくないものもあるでしょうし、荷物を持ち出せただけ、良心的だと思うけれど」
「それは……そうだが……」
あまりにも手配が早すぎる。
いや、それよりも……。
公安に見つかれば、たちどころに、自分は殺される。その事実が、改めて、昴の背中に冷たく張りつく。視線を下げた昴に、女性は笑みを和らげた。
「
「……《
首を傾げた昴に、女性――ミハヤは説明する。
「そう。《
「……《
昴は、ちらりと、傍らの青年に目を遣った。青年は
「《
彼女と同じ、ね……と、ミハヤは側に控えた少女を視線で示した。
「その子は、まだ子どもだろ。なのに組織の一員なのか」
「完全な実力主義なの。年齢は関係ないわ」
ミハヤは、さらりと返答する。
「貴方には、まずは実地研修を兼ねて、クロセとペアを組んでもらうわ」
「クロセ?」
「ミハヤ」
昴が問いかけるのと、隣に立つ青年が声を発するのは同時だった。形の良い眉を僅かに
「どういうことだ。《
「入ったばかりの人間に、いきなり本丸を護らせるわけにはいかないでしょう」
まずは勘を養ってもらわないと。
「シラハには、しばらく貴方の補佐に就いてもらうわ。この世界で、最低限、自分の身を護れるようにならなければ、他人を護るなんて不可能だもの。いくら素質があっても、慣れは必要だわ」
それに……と、ミハヤは言葉を切り、ふっと
「貴方は死なない。そうでしょう? 元・《
その一言が放たれた刹那、青年の瞳の奥に、刃のような閃光が走る。深紅の怒りのような、群青の悲しみのような、雪白の殺意のような、鋭い激情の色。しかし、それは一瞬で、元の暗闇に塗り潰された。
「……分かった」
「じゃあ、決まりね」
カツン、とミハヤのハイヒールが、解散の時を告げる。
「指令は順次《
ひらりと手を振り、ミハヤは車に乗りこんだ。傍らに控えていた少女も、こちらを一瞥もすることなく、無言でミハヤの後に続く。
妹が生きていれば、これくらいの歳だろうか。
少女の後ろ姿に、昴は無意識に、記憶の影を重ねていた。
だが、北風にはためく黒衣の陰に光る銃を見て、妹の残像は、ぱちんと弾ける。《
遠ざかっていく車を、昴は硬い表情で見送った。
「家まで送りますから、こちらへ乗ってください」
《
「あ、ああ……頼む」
昴も小走りに追いつき、後部座席に青年と並んで座った。
緩やかに踏まれるアクセル。ミハヤが去った方向とは逆の道へ、車は進んでいく。
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