Act.1-3

 古いビル群のあいだを、車は進む。次第に街灯はほとんどなくなり、舗装ががれて痛んだ道が車を不規則に揺らしはじめた。かしいだ標識から、旧市街の西側の地区に入ったことを知る。やがて、建物が途切れ、窓の外に、大きな橋が見えた。この街と郊外を結ぶ橋のひとつだ。そちらに向かって、運転手はハンドルを切っていく。

(こいつらは何者なんだ……?)

 車窓の外を眺めるふりをして、昴はバックミラーに映る女性と、硝子に映る青年の横顔をうかがった。公安の追跡を振り切るほどに高度な技術を持った運転手に、機械仕掛けの人形のように正確に冷徹にトリガを引く銃使い。

「着きましたよ! 時間ぴったりです!」

 運転手が車を止めたのは、橋のたもとだった。しかし、辺りに他の車も、人の気配もない。いぶかる昴に、青年は「降りるぞ」と短く言った。降りろ、ではなく。

 昴の疑念は、すぐに消えた。車のドアを閉めて間もなく、前方のストリートの角を曲がって、車が一台、近づいてくる。よく磨かれ、黒光りする車体。昴が乗せられていた量産型の国産車と異なり、高級な外国製の車だった。

 昴と数メートルの距離を隔て、向かい合うように車は止まった。運転手は中年の男で、こちらを一瞥もすることなく、静かに後部座席のドアをあけた。

 最初に見えたのは、小さな黒いブーツの足。黒服に身を包んだ小柄な黒髪の少女だった。子ども……? 昴が驚いていると、少女に続いて、長身の影が降り立った。黒のハイヒール。そして、そこから続く、ダークグレイのパンツスーツの長い脚。すらりとした女性だった。歳は二十代半ば――昴より少し上くらいだろうか。緩く巻いた長い金髪を、すっきりとハーフアップにまとめている。凛とした雰囲気に、上質な細身のスーツがよく似合っている。

「文書は無事に回収できたようね」

 涼やかな切れ長の瞳を微笑の形に細め、女性は口元に艶やかな笑みを浮かべた。

「ああ。ここに」

 青年が、ちらりと昴に視線を遣った。アタッシェケースを貸せというアイコンタクト。昴は頷き、それを青年に渡した。中には、紐で綴じられた分厚い書類の束が三冊。青年から受け取った女性は、ぱらぱらと中を確認し、笑みを深めた。

「ちゃんと本物ね。ご苦労様」

 優美な唇から、落ち着いた、少しハスキーな声が流れる。

「……いい加減、教えてくれ」

 お前たちは、何者なんだ。

「その文書……あいつらに渡すより、お前たちに渡したほうがマシだったと思って良いのか、それだけでも知りたい」

「……そうね」

 女性は文書をアタッシェケースに収めると、運転手の男に渡した。そしておもむろに、空いた両腕を優雅に組むと、昴に一歩、距離を詰める。

「私たちは、この国の公安を、他国に売り渡すことを良しとしていないの。だから、この文書を、国賊から守る必要があった」

 国賊。滑らかに紡がれる言葉の中に織り交ぜられた毒牙に、昴は眉をひそめる。

 昴の反応に、女性は微笑んだ。

「私たちは、この文書を回収し、しかるべき場所で保護するのが目的よ」

 だから、安心して良いわ。

「貴方に愛国心があるのなら、ね」

 それとも、貴方には、正義感と言ったほうが良いかしら。

「……お前たちは、反社会的勢力の人間ではないと、思って良いんだな」

「そうね。むしろ、そういった勢力を潰す側だわ」

「……なら、いい」

 眉根を寄せながら、昴は女性を見据えた。

「それで、俺をこれからどうするつもりだ?」

 殺すつもりなら、わざわざ車に乗せる必要などない。最初から射殺してアタッシェケースを奪っておけば済む話だ。ならば、自分に何かをさせようとしているのか。もし、それが道義に反することなら、従うものか。この場で、舌でも噛んで死んでやる。

「貴方に提示する選択肢は、二つよ」

 カツン、とハイヒールの靴音が一歩、近づく。

 ひらり、と、女性は昴に、一枚の紙きれを差し出した。そこには、知らない男の名前と経歴が記載されている。

「ひとつは、今この瞬間から、別人となって、遠く離れた町で平穏無事に暮らす道。貴方がそれを望むなら、新しい戸籍を用意するわ」

「なん……だって……?」

 予想もしなかった返答に、昴は瞠目した。新しい戸籍? 別人になる? そんなことが可能なのか。それが本当だとして、彼らはなぜ、そんなことができるのか。

「そして、もうひとつは……」

 滑らかに台詞を紡ぎながら、女性は唇の端に薄い笑みを引く。

「私たちの組織に加わり、私たちの掲げる正義を成す粛清の弾丸のひとつになる道」

 ざぁ、と、冷たい風が後ろから吹きつけ、昴のコートをはためかせる。どこかで転がる空き缶の音が、刹那の沈黙を引き立てていった。

 互いの空気が、ぴんと張り詰める。

「……組織……正義……粛清……」

 昴の脳裏を、以前耳にした都市伝説がよぎった。誰も実体をつかんだことのない、ある組織の噂。

「……〝第九機関〟……」

 昴の口から、半ば確信をもって、その言葉が落ちる。

「お前たちが……そう、なのか……」

 第九機関。この国で、最強にして最凶の組織。

 この国の中枢は、八つの機関から成り立っている。法務を司る第一機関、外交を司る第二機関、財務を司る第三機関、そして、公安を司る第四機関というように。そして近年、秘密裏に発足したとささやかれているのが、おおやけには存在しない九番目の組織。粛清を司るといわれる第九機関だ。あらゆる違法行為――殺人さえも、第九機関が〝執行〟すれば、それは〝超法規的措置〟の扱いになる。

「ええ。この国を表で操縦するのが第一から第八の機関なら、それが正しい方向に進むように裏で道を整えていくのが私たち、第九機関の仕事よ」

 そして、貴方は、その適性があると判断された。

「もし貴方に、私たちの組織へ加わる意志があるなら、歓迎するわよ。昴・シラハ」

 女性の言葉に、昴の眉が、ぴくりと動いた。

「正しい方向? 裏で道を整えていく?」


「その先にあるのは、独裁じゃないのか」


 悔しさと憤りが、昴の胸を渦巻く。

 存在すべきではないのだ。粛清を司る機関など。本来なら。本当なら。

 この国が正しく機能していたなら、第九機関は生まれなかった。

 公安を司る機関が腐敗しなければ、粛清を司る機関など必要なかったはずだ。

「……そうね」

 女性の瞳は穏やかだった。たたえた微笑は揺らがない水面のように、凪いだおもてを向けていた。

「でも、独裁が、必ずしも悪とは限らないわ」

 度重なる他国からの侵略、蹂躙、解放という名の放棄を経て、無秩序な民主化を押しつけられた、今の、この国の状態では。

「ひとつ教えておくわ。第九機関の創始者が、最初に制定した規律の一節」


「――〝第九機関の構成員同士の粛清は、その罪を裁かない〟」


 その言葉に、うつむきかけていた昴の顔が、上がる。

「……仲間同士で殺し合っても……〝上〟の人間を殺しても、罪に問われないってわけか」

「ええ。だから〝上〟の人間ほど必死で正しく在ろうとするの。〝下〟の人間には貴方のように正義感の強い構成員も大勢いるし、人を撃つことに抵抗のない人間がほとんどだから。私たちは、権力によって従わされているのではないのよ。従うに値すると思えるから、従っているだけ。いつでも殺せるけれど、生かすに値すると思えるから、殺さないだけ」

 だからこそ、貴方に声を掛けた。

「貴方なら、組織の良心のひとつになれる」

「……とんでもねぇ組織だな」

 狂っている。いかれている。まともじゃない。それなのに、強力に、強大に、成立している。まるで薄氷のように危うい均衡の上で、それでも自壊することなく。

「第九機関は、存在すべきじゃない」

 ぐっと、昴は両手を握りこむ。

「だが、公安の文書を守ることができたのは事実だ」

 いつかは消えていくべき組織だ。未来には、終わりを迎えてしかるべき存在だ。

 それでも今は、今だけは、必要だというのなら。

 自分の居場所に、なり得るのなら。

「俺は……俺の力を尽くせる場所がほしい」

 たとえ否定したい存在でも、自分を支える正義を成すことができるのなら。

 誰かを、何かを、守ることができるのなら。

「決まりね」

 口角を上げ、女性はスーツのポケットから何かを取り出し、昴に投げた。

 ぱしっと空中で受け取り、手をひらくと、それは鍵だった。

「旧市街に、家具付きのアパートメントを用意しているの。貴方の元の部屋から、荷物は粗方、移しておいたけれど、足りないものがあったら、言ってくれたら善処するわ」

「ちょっと待ってくれ。勝手に引越し作業をしたのか?」

「戻るわけにはいかないでしょう。手放したくないものもあるでしょうし、荷物を持ち出せただけ、良心的だと思うけれど」

「それは……そうだが……」

 あまりにも手配が早すぎる。

 いや、それよりも……。

 公安に見つかれば、たちどころに、自分は殺される。その事実が、改めて、昴の背中に冷たく張りつく。視線を下げた昴に、女性は笑みを和らげた。

千都世チトセ・ミハヤよ。《調整人コーディネータ》の役に就いているわ。今後、貴方たちへの指令は、私が下すことになるから、よろしくね」

「……《調整人コーディネータ》……?」

 首を傾げた昴に、女性――ミハヤは説明する。

「そう。《キャスト》といってね、私たちの組織で、個々に与えられる役割を、そう呼んでいるの。貴方をここまで連れてきた彼女は《運搬人ポータ》。そっちの彼は《削除人デリータ》」

「……《削除人デリータ》……」

 昴は、ちらりと、傍らの青年に目を遣った。青年はいささかも表情を変えず、人形のように微動だにしない。

「《削除人デリータ》は、いわば組織の剣ね。そして、貴方に務めてもらう役は、《護衛人ボディガード》。組織の盾よ」

 彼女と同じ、ね……と、ミハヤは側に控えた少女を視線で示した。

「その子は、まだ子どもだろ。なのに組織の一員なのか」

「完全な実力主義なの。年齢は関係ないわ」

 ミハヤは、さらりと返答する。

「貴方には、まずは実地研修を兼ねて、クロセとペアを組んでもらうわ」

「クロセ?」

「ミハヤ」

 昴が問いかけるのと、隣に立つ青年が声を発するのは同時だった。形の良い眉を僅かにひそめ、青年がミハヤを睨む。

「どういうことだ。《削除人デリータ》に《護衛人ボディガード》をつけるなんて」

「入ったばかりの人間に、いきなり本丸を護らせるわけにはいかないでしょう」

 まずは勘を養ってもらわないと。

「シラハには、しばらく貴方の補佐に就いてもらうわ。この世界で、最低限、自分の身を護れるようにならなければ、他人を護るなんて不可能だもの。いくら素質があっても、慣れは必要だわ」

 それに……と、ミハヤは言葉を切り、ふっとまなじりを下げた。心なしか、憐憫の色をたたえて。

「貴方は死なない。そうでしょう? 元・《護衛人ボディガード》、ハルカ・クロセ」

 その一言が放たれた刹那、青年の瞳の奥に、刃のような閃光が走る。深紅の怒りのような、群青の悲しみのような、雪白の殺意のような、鋭い激情の色。しかし、それは一瞬で、元の暗闇に塗り潰された。

「……分かった」

 うなずく青年の声には、今しがた垣間見えた感情の欠片はひとつも残っていなかった。

「じゃあ、決まりね」

 カツン、とミハヤのハイヒールが、解散の時を告げる。

「指令は順次《伝達人メッセンジャ》を通じて届けるから、それまで新しい暮らしに慣れておくといいわ。ふたりの部屋、隣同士にしておいたから、仲良くね」

 ひらりと手を振り、ミハヤは車に乗りこんだ。傍らに控えていた少女も、こちらを一瞥もすることなく、無言でミハヤの後に続く。

 妹が生きていれば、これくらいの歳だろうか。

 少女の後ろ姿に、昴は無意識に、記憶の影を重ねていた。

 だが、北風にはためく黒衣の陰に光る銃を見て、妹の残像は、ぱちんと弾ける。《護衛人ボディガード》。ミハヤの言葉が脳裏で反響する。

 遠ざかっていく車を、昴は硬い表情で見送った。

「家まで送りますから、こちらへ乗ってください」

 《運搬人ポータ》の女性に呼ばれ、昴は、はっと振り向いた。側にいた青年は既にきびすを返している。

「あ、ああ……頼む」

 昴も小走りに追いつき、後部座席に青年と並んで座った。

 緩やかに踏まれるアクセル。ミハヤが去った方向とは逆の道へ、車は進んでいく。

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