n=29 土手の向こう側

 ]さんは中学生の頃、野球に熱中していた。

 というか、とにかく体を動かすのが大好きだった。


 日が沈みきった頃、所属している野球部の練習が終わった。しかし]さんは、まだ体を動かし足りない。そこで走り込みをかけることにした。

 ちょうど、自宅への道すがらに土手があった。そこを走って帰ろう。

 背中の汗が乾いて冷えゆく感覚を背中で感じながら、]さんは決めた。


 日の暮れた土手の上の遊歩道には、ほとんど人気がなかった。

 犬を散歩させている人や、蛍光色に光るタスキをかけた散歩する老人が、真っ直ぐと伸びる道の先にうっすらと見えるだけだ。

 街路灯がまばらにしか存在しないせいで、なお人気がなく思える。


 ]さんは怖がる気持ちを胸の奥に隠しつつも、己の欲求のままに遊歩道を走り出した。

 代わり映えしない風景が流れていく。程よく柔らかい地面を蹴り、駆ける。うっすらあった恐怖心がどんどんと消えていくのがわかった。


 ふと視界の隅で何かが動いた、気がした。チラリとそちらを向く。土手の対岸だ。同じように遊歩道がある。そして人影がある。自分と同じように、そこを走っている者がいた。

 そいつは、自分の真横をほとんど同じ速さで走っている。

 なんとなく負けたくないな、と思った]さんは地面を強く踏みしめて加速した。

 しかし、対岸の人影を引き離せない。自分の加速に合わせて、そいつも加速しやがった。

 ムキになった]さんは、更に加速する。ほとんど全力疾走だ。

 それでも、対岸の奴を引き離せない。自分の加速に余裕で追い付いている。

 更に加速。だが引き離せない。クソ。


 そんなことを繰り返していると、段々]さんの体力にも限界が訪れる。

 そもそも部活終わりなんだから、俺は疲弊してるんだ。だから対岸の奴に負けても仕方ない。

 そんな言い訳を脳で考えながら、]さんはゆっくりと減速していく。

 息が上がる。

 地面に膝と手をつく。ゼーゼーと声を上げて、息を整える。

 首を傾け、土手の向こう側を見やる。

 対岸のあいつは悠々と走っているのだろうか。

 そうではなかった。

 膝と手をついて四つん這いになった人影が見える。わざとらしく、自分と全く同じポーズだ。


 瞬間的に、]さんの脳が沸騰する。

 お前は体力に余裕あるだろうが。なんで俺の真似してんだよ。クソ野郎、舐めやがって。

 遊歩道の隅に転がった小石を掴む。

 そして対岸の人影めがけて、思いっきり投げた。

 投げた瞬間、やってしまった!と思う。相手に怪我させてしまう。マズい。当たらないでくれ。


 ]さんの願いも虚しく、]さんの普段の練習の成果なのか、小石は対岸の人影に直撃した。

 正確には貫通した。

 まるで、水面に石を投げ込んだかのように。

 人影が波打ち、揺れ、そして消えた。


 俺、何に石投げつけちゃったんでしょうか。

 ]さんはそう語った。

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