現実にある異世界

 高校も折り返し地点。


 遅まきながら受験勉強を始めた量産型の男子高校生。


 それが僕である。


 誘惑が多い自宅で勉強する事を苦手としていた僕は自然と終業後に学校の自習室で勉強を行うようになった。


 自習室で過ごす事が日常となった僕にあんな非日常が訪れる事を誰が想像できたのだろうか?


 その日は電車が帰宅者で混雑してしまう時間まで自習室で勉強していた。


 没入感を感じる程没頭して自習を行えたのは初めての事かもしれない。


 初めは話したこともない他学年の生徒が近くにいる緊張から学習効率は良く無かったと記憶しているが今ではそれが日常となった証である。


 しかし電車で帰宅中に英単語を小さく発声しながら暗記する事を日課としていた僕は帰宅ラッシュを避けたかったのが本音である。


 幸い学校は始発駅に近く座席を確保する事は決して難しい訳では無い。


 その日もいつもと時間は違うがいつもと同じ座席を確保する事ができた。


 座席に座った僕はイヤホンを付けて英語単語を覚える為に声とはならない声で復唱を繰り返す。


 始発ならではの折り返しの停車時間。


 他の乗客は少なく迷惑にはならない筈だ。


 僕にとってはこんな十分程度の時間でさえ自宅で誘惑に曝されながら勉強する数時間より貴重なのかもしれないのだ。


 周りに申し訳ないと思いつつも電車が動き始めるまではと英単語に没頭する。


 発車を知らせるメロディーがイヤホンに掻き消されたのか発車に気が付いたのは身体に発車の慣性が伝わって来た時だ。


 慌て英単語の復唱を切り上げ短時間の授業動画に切り替える。


 そして見易い位置に携帯端末を掲げた時に視線に異物が入り込む。


 社会性を重視する知性が理解を拒み危機管理を司る野生が下からの確認を僕に促す。


 女子学生が良く履くであろうぺたんこなローファー。


 しかしサイズは大きめである。


 手入れを怠りボロボロになっている学生とは違い丁寧に磨き上げられた革は光沢を帯びている。


 白いニーハイソックスに無駄毛が処理され白く綺麗な太腿。


 知性が機能不全を起こしており普段で有れば凝視する事がない場所を見ているが決してやましい気持ちがある訳ではない。


 辛うじて残っていた危機管理を司る野生が僕に丁寧な確認を促してくる。


 衝撃に耐える為に目線をゆっくりと……


 上げる……


 不自然な膨らみがあるブルマ。


 僕の知性を停止させた映像はやはり衝撃的であった。


 知性の処理能力を超え野生が警告を発した衝撃的な映像によって上に弾かれた視線の先にはやや窶れた中年男性の顔が存在している。



 何故このおじさんはわざわざ目の前に来たのだろうか?


 必死になって笑いを堪えるが噴き出してしまった。


 今もう一度視線を上げたなら数日は笑い転げる自信がある。


 日常の延長線上のこの電車の中で僕とおじさんの場所だけ異質である。


 まあその内降りるだろう。


 それまでの我慢である。


 しかし駅に着く度に乗客が増えていき他の乗客の邪魔となりながらも頑なに僕の目の前から移動しないおじさん。


 最早授業動画を見る事はできない。


 笑いを堪える事に集中しなければいけない。


 しかし帰宅時間が重なり満員電車となったこの空間では目線を動かすことが憚られ目の前のおじさんから逃れる術は最早なく、目の前にあるブルマを直視しない様に俯くぐらいしか笑いを堪える方法が思いつかない。


 しかし何故僕の目の前から移動しないのだろうか?


 ふと視線を上げてしまった。


 今顔を見られて無かったか?


 疑心暗鬼に苛まれ始める僕の心。


 間違い無い。何故か睨まれている。


 笑ってしまった事に気分を害してしまったのだろうか?


 もし降車した時にこのおじさんが後ろを着いてきたら?


 量産型男子学生である僕に執着する筈がないだろうと不安で押し殺されそうになる心を必死になって誤魔化す。


 そして何をされるか分からない恐怖が芽生える。


 僕を救おうとしてくれる勇者はいないのかと視線を動かしてもこの列車に乗り合わせている貴方達は誰も眼を合わせてくれない。


 この車両に乗る全ての人間が笑いを堪える中でただ僕だけが芽生えてしまった恐怖心と戦っていた。



 そんな孤独な戦いを続けていたが無常にも僕の自宅の最寄り駅に電車が辿り着いてしまう。


 勿論おじさんに降りる気配は無い。


 僕が此処で降りるのであればおじさんを退かし降り口に向かうしか無い。


 立つ事に恐怖を覚える。


 立つ為にはこのおじさんを退かす事が必要である。


 既に育ってしまった恐怖心を振り払う事などできない。


 駅員室に逃げ込めば誰かが助けてくれるだろう。


 この車両の乗客達は未だ助けを求める僕と視線を合わせてさえくれない。


 もしかしてこの車両の乗客は僕とおじさんの異質さを笑っていたのではないか?


 そう頭に過ぎってからは疑心暗鬼が止まらない。


 この車両の貴方達は全員、仕掛け人であるかもしれない。


 もしそうであればおじさんを退かす為の僕の声が怯え切った物であれば皆で笑うのだろうか?


 携帯端末を取り出したお姉さんは僕とおじさんがいる異世界での出来事をネットに上げる為にカメラを向けているのかもしれない。


 もしそうであれば僕は全世界の笑われ者となるのだろうか?


 僕は限られた僅かな時間で怪物へと成長した疑心暗鬼に勝てず立つ事すらできない。


 無情にも発車を告げるメロディーが鳴り響きドアが閉まる。


 降りる筈だった駅……


 目の前のおじさんは頑なに僕の目の前から消えてはくれない。


 もしかしたら僕はこの異世界から永遠に帰る事ができなくなったのかもしれない。

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