第2話 懐かしの味、ツナ缶と卵のそぼろ丼。野菜たっぷりスープ
ゆっくりと起きて、さっと身支度を済ませたら、時刻はもうじき午前11時半。ちょうどいい時間だ。外階段を上がれば、チャー太は今日も定位置でお昼寝中。
「おっす、チャー太。今日は手ぶらなんだ。悪いけど、お前のご飯は無いよ」
毎週釣りに行けるほど暇じゃないんでね……と続けようとしたところで、ふと気づく。
……俺、先週チャー太に朝釣った小魚やらなかったっけ? やったような気も、無視された気もする……どっちだったか……
そんなことを考えながらチャー太の頭を掻いていたら、とてつもなく食欲をそそる匂いが漂ってきて、意識が持っていかれた。
不満げな声を上げるチャー太に謝り、202号室へ向かう。なんだ? この甘くてしょっぱい美味そうな匂いは!!
「よーっす!」
「おー、おはよー」
いつものように勝手にドアを開け、靴を脱ぐ。ああ、醤油の焦げる香ばしい香り。吸い寄せられるように、フライパンを揺する千歳の背後から覗き込む。
「それ、何?」
「ツナ缶。あ、あんまり覗き込むと危ないよ、油がはねるから」
この芳香は醤油と砂糖、ツナの油が混じった香りか。ああ、この匂いだけで白飯が食える……
と、千歳の部屋の襖が開いた。
「あら、お邪魔しちゃった? 相変わらず仲良しだな」
笑いを含んだこの声は、朱音。見るとやはり、ニヤニヤ笑いを浮かべている。
気づけば千歳の両肩に背後から両手をかけていた。匂いを追いかけるのに夢中になっていて、全くの無意識だった。不覚──
「なんだ朱音、また来てたのか」
「ここはあたしの実家ですから」
「だからって毎週居るとか……」
「黙れ、タダ飯喰らい」
何それ、酷い。俺だって、出張の時には大抵土産買ってくるし、先週だって新鮮なアジを───
「朱音、毎週昼飯作る約束で家賃まけて貰ってるんだよ。先週言っただろ?」
「あー、そうだっけ?」
そのわざとらしくトボけた顔。絶対知ってただろ。
「じゃなきゃ、2DKに一人暮らしなんて」
……そう、そうなんだけどね。実はそれ、ただの口実。本当は、俺が引っ越して欲しくなかったんだ。両親はアパートを俺に任せて故郷で隠居生活。友達はたくさんいるけど、やっぱ家族とは違う。だからせめて幼馴染の千歳には近くにいて欲しくて。
でも、これは内緒。また朱音をニヤニヤさせるだけだ───
「そうだぞ。朱音よ、俺は大家様だ。敬い、
「こんなボロアパートで、何が大家様だ」
「まぁそう言わず。ハーッハッ…ヒャアーーーー!!!」
また情けない悲鳴をあげてしまったのは、両手を腰に当てて高笑いした拍子に、朱音の背後に見えた人形と目が合ってしまったからだ。うっかり尻餅をついて、千歳の足にぶつかった。
「あぶな…」
おい友よ。相変わらず動じねえな。こんな時ぐらい、フライパンの中身より俺の心配をしろ。
俺はガクガクする足でそのまま食卓まで這って進んだ。
「な、なんでアイツ、まだ居るんだよぉ」
白飯に炒り卵が乗った3つの丼に、千歳が何食わぬ顔でツナそぼろを盛り付ける。
「知人の都合で預かり延長になった。バッグに入れっぱなしじゃ可哀想……ほら、カビとか生えたらまずいしさ。たまに出してやってくれって頼まれたんだよ」
「すっごいリアルで怖いけど、見慣れたら可愛いよ。近くで見てみなよ」
大きく襖を開け放ったまま、朱音が箸やスプーンを並べ始める。
俺は畳の部屋に置かれた人形から目を逸らした。髪色と同じ緑色の、ガラス玉みたいな目が妙に恐ろしかった。
「いや……俺はいいや。人形、苦手みたい。先週なんてすげえ怖い夢みたし」
「あはは、どんな夢よ」
「あの人形がさ、そこに立って千歳と喋ってたんだよ。そんで、ゆっくりと俺の方を振り向いて……そこで目が覚めた」
「人形が怖いとか、子供か」
カラカラと笑う朱音が恨めしい。
一方の千歳は相変わらず淡々と、茹でたスナップエンドウを丼の真ん中に飾る。そんな彩りは後でいいから、頼む。早く襖を……情けないけど、俺はあの人形に近づきたくないんだ……
「じゃあ、襖閉めとこうか。朱音」
「へぇ~い」
おお、心の友よ。鬼畜な妹と違い、俺を気遣ってくれる。さすがは親友だ。
気を取り直し、手を合わせる。三人揃って────
「いただきまーす!」
ツナと卵そぼろの二色丼。スナップエンドウの緑が瑞々しい。隣には野菜たっぷりのベーコンスープが湯気を立てている。これはわかる。食べる前からもう、美味いことは確定だ。
熱々のスープをひとくち。優しい塩味……の奥に、鶏出汁の風味。たくさんの野菜エキスが溶け出してベーコンの旨味と混じり合い、えも言われぬふくよかな味わいが広がる。
「これ、すっごい種類の野菜入ってない?」
「あ、わかる?」
得意げに声を上げたのは、やっぱり朱音だ。
「えーっと、白菜大根人参蓮根長芋長ネギえのき(息継ぎ)、あとは……」
「生姜」
「そう、それだ!」
「出た! ブラコン口だけシェフ」
「これはあたしも作れるもん。最初にベーコンをじっくり炒めるんだよ。あとは切った野菜と鶏がらスープの素を入れて、仕上げにバターをひとかけ」
「今日、これを作ったのは?」
「……お兄」
「やっぱりな」
「だって、野菜の切る量が多いんだもん……」
「冷蔵庫の在庫整理も兼ねてるからね」
そう言いながら、千歳が黒胡椒のミルを差し出す。
お好みで、ってことだな? 黒胡椒を少しだけ挽いてみると、味にパンチが増した。うん。これも美味しい。
お次は丼だ。ツナのところを大きく取って、パクリ。
「う、っっまい!!!」
なんだ、この旨味は! 予想していた味を軽く凌駕している。味つけは確かに醤油と砂糖なんだけど……
「ツナ缶の油ごと、ぜーんぶ炒めるんだよ。学生時代、お弁当の定番だったんだ」
その弁当、作ってたのはどうせ千歳だろ…と突っ込む暇もなく、俺は丼をワシワシとかき込み続けた。卵の方も出汁の風味と甘味が効いている。美味い。旨い。たまらない。しっかりした味付けで口の中がしょっぱくなったところで、スープに戻る。ほろりと柔らかく煮えた野菜たちがほっこりと優しく口の中を洗い流し、バターの甘い香りを鼻腔の奥に残していく。ああ、至福の時よ………
俺は思わず、深いため息をついた。
「俺、お前の飯があったら、嫁いらない……」
ため息と共にうっかり本心が漏れてしまった。丼の向こうで朱音の目がぴかっと光ったが、知らん。
「照哉、その発言は『嫁をご飯係と思っている男』と受け取られるぞ」
「そうだぞ照やん。ただでさえイカつくてモテないんだから、発言には気をつけなよ」
「大体、嫁どころか彼女もいないだろ」
うっ……この兄妹、痛いところをたて続けに………さ、最近は釣り好きな女子も増えてるらしいから、出会いのチャンスはあるんだぞ。今のところ、俺の周りには居ないけど……
「無駄に日焼けしちゃってさ。チャラい
食事と裏腹にスパイシーな一言が、胸に突き刺さる。たしかに海釣りで日焼けはしてるけど……。
「ちょっと、お兄。お前の妹ひどくない?」
「「お前がお兄って言うな」」
兄妹が声を揃えて抗議するが、無視。
「お兄の威厳を以て、この失礼な妹を怒ってよ」
「はいはい。朱音、人の見た目を嗤うのは良くないな。やめた方がいい」
千歳は目も上げずにそう言って、スナップエンドウを口に放り込んだ。俺は朱音に向かってドヤ顔をして見せる。
「でもさぁ、お兄。このイカツさ、女子ウケすると思う?」
千歳の手が止まる。
「それは………ふふっ」
答えず、千歳は食事を再開した。ねえ、今の間は、何? なんか笑ったよね? 気のせいかな。気のせいだよね。
「……いいんだ俺は。女の子とはたまに遊ぶくらいで」
「いつまでそう言ってられるかな」
「遊んでくれる相手がいる前提なのがびっくりだわ」
グサグサッ……あれ、このスープ、こんなにしょっぱかったかな?
大将、今夜の酒はちょっぴりほろ苦くなりそうだ……
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