第3話 誰のための婚約破棄なのか

ユリがリンデン王国に召喚されて四か月が過ぎる頃だった。噂を知る直前、ベルは祭りの準備に一週間程学校を休んでいた。王都で行われるサマーパーティーはリンデン王国の夏の一大イベントでもある。夏らしい爽やかな色合いの花々が町中に飾られる。この祭りは秋の収穫を祈るためのものだ。祭りの最終日に霧雨が降ると繁栄の証だとされる。実際その日を狙って雨が降ることは殆どない。そのため夕方に雨に見立てて一日中飾り立てた花の花びらを千切って空高く放るフラワーシャワーが行われる。まるで結婚式のようで見ているだけでも幸せな気持ちになるこの祭りがベルは幼い頃から大好きだった。

(そういえば妹もこのイベントが楽しいってはしゃいでいたわね)

前世の妹が乙女ゲームの中でもこのイベントは特別なものだったと話していたことを思い出す。確かエンディングに向かう直前の大事なイベントだったはずだ。一人の男性とお互いの愛情を確認し合うアツい展開になるのだと妹ははしゃいでいたっけ。

(そうよ、毎年学校でも浮かれた空気になっていたじゃない)

サマーパーティーとは別に年若い学生たちの間でも噂になっているロマンスがある。

初代聖女は、このイベントを発案した張本人だ。当時は今以上に瘴気に溢れ、魔物退治に聖女自身が駆り出されることもあるほど治安は悪化していた。国を、民を、そして聖女を守るために多くの人が命を落とした。憂いた聖女は彼らの命を弔うために行った祭りなのである。

長い年月を経て、世界が落ち着いていき、弔いの祭りは繁栄の祭りへと変貌した。

閑話休題、初代聖女には想い人がいたがその人も命を落としたという。彼女は深く悲しみ花を手向け永遠の愛を誓ったという逸話があった。この話は創作だと言われている説もあるが、ベルたちのように若い世代には人気の話である。今ではこの日に思い人に花を渡すと両想いになれるというジンクスとして語り継がれている。

去年は母に続き父を亡くしたことで心の余裕がなく、そのイベントに乗ることができなかった。しかし今年はもしかしたらレヴィアンと過ごせるかもしれない、そう思うと心が躍り、義務である準備も楽しかった。アダムはそんなベルを見て「ご機嫌だね」とからかう程顔に出ていたらしい。

そして一週間後、久しぶりに学校へ赴いた。ベルと交代するように今度はユリが学校を休んでいた。ユリも同じように祭りに関わるので、準備に駆り出されたのである。ベルも事前に聞いていたので特に驚きはなかった。

今年のサマーパーティーは聖女再来の祝杯を兼ねている。ユリは初めて民衆の前で正式にお披露目される日だ。当日のドレスを新調するための採寸や、挨拶の内容の確認などがあるらしい。

ベルは久しぶりに親しい―――とまではいかないが、比較的話せるユリがいないことを少し寂しさを感じていた。しかしその反面、サマーパーティーはベルの運命を変えるイベントのひとつであるため、顔を合わせないで済んだことにほっとする自分もいる。

ユリはとても良い子だと思う。前世でゲームはやったことはなかったが、実際目の前にしても、とても礼儀正しいし、聖女という重い任を突然言いつけられても文句ひとつ言わない。それどころか真摯に向き合っているように見える。そして何より笑顔を絶やさない彼女に前世の妹が重なり、特別可愛らしいと思っていた。

そんな彼女が選ぶのは一体誰なんだろう。前世の記憶を思い出してからというものの、ベルは前世の記憶を何度も掘り返してきた。攻略キャラクターは数人いたはずだが、肝心のメンバーを思い出せないでいた。少なくともレヴィアンが含まれていたのは確かである。

ユリはこの数か月、誰と関わっていただろう。知る限り学校では女子学生とは何人か仲良さげに話しているのはみかけたが男子学生と話す機会は多くなかったように思う。話しかけられることはあっても自ら話しかけることは殆どなかった。王城では交流がないので、流石に誰と触れ合っているかは知らない。

(情けないわ…彼女のことを何も知らないなんて)

アダムはあくまでも共に通学しろと言っただけである。ベルはユリに日ごろの振舞いや、常識を教えることと、キャシーのような下心見え見えの奴らから守ることに尽力したが、ユリ自身は物覚えも良いし、今ではそういったものから自身を守ることにもたけているように見える。もうお役御免だと距離をとったが、今にして思えばユリのことを何一つ知らないのである。

もっと彼女の人となりを知るべきだった。他の令嬢のように友人らしい話をすればよかった。一大イベントを前に後悔するには遅い。どんなに前世を知っていてもそれに対して動けない自分が情けなく悔しかった。

そんなベルに追い打ちをかけるように聴きたくなかった噂が彼女を更に追い詰めた。

ユリのいない昼休みの四日目、偶然にもレヴィアンも故郷からやってくる家族と共にアダムに挨拶をするため休んでいた。お昼ご飯はせめて一緒にと思っていたが、それまでも何かしら事情が重なって叶わないでいた。ベルは一人、キャシーと対峙した中庭で本を読み昼のひと時を過ごしていた。

少し離れた席で楽し気に話す令嬢たちがいた。暫くは鈴を転がすような声だったが、ヒートアップしてかその声は段々大きくなり鈴がシンバルへと変貌し誰の耳にも入るようになった。

「ええ?本当に?」

「わたくしこの目でみたのよ?聖女様がレヴィアン様に胸を預けられたところを」

「そ、それで…その後どうなさったの?」

「レヴィアン様はそんなユリ様をたくましい腕で受け止めていらっしゃったわ…」

その言葉で黄色い声が中庭を埋め尽くす。誰もがその声に反応し彼女たちに視線を向けた。それに気づいてか声をまた潜めたのでそれ以降の話は耳には届かなかった。

それでも耳に届いてしまった言葉はベルの思考を停止させるには充分だった。

(レヴィアン様が、聖女様と?)

悲しいことにその様子がありありと思い描けたのは、妹からゲームのスチルを見せて貰ったことを思い出したからである。確かにヒロインは悪役令嬢が学校を休んでいる間にレヴィアンとの愛を深めているイベントがあった。道ならぬ恋だけど止められることは出来ないのだと熱く語っていた妹の声を思い出す。

わたくし、前世の私はどう答えたかしら…思い出せない…

ベルはその場からすぐにでも離れようと立ち上がり中庭を後にした。後ろから気を遣った声をかけられたような気がしたが、足を止めることが出来なかった。王女たるもの常に威厳と品格を保て。父の言葉が思い出される。恋ひとつで感情が揺らぐなんてもっての他である。もう一人のわたくしも、負けることなど認められない。それが恋だろうが、勝ち取れないなら負けと同じだ。

(おまえが弱いからだ。ざまあみろ)

前世の声が頭に響く。

頬に伝う涙は誰にも見せられない。


出来るだけ気丈を振舞って過ごしていた。そういうことには慣れていた。母が死んだときも、家族で悲しみを分かち合う時以外、すなわち公では気丈であることを強要された。父が死んだときも変わらなかった。父の死は、兄の即位が決まったようなものだ。国民の前では泣くことは許されない。家族が死んでもリンデン王国は続く。それは王家の使命なのだから。

だから恋がひとつ終わっても泣くなんて考えられないことだった。でも夜になると突然心細くなり一人枕を濡らしていた。アビーはベルの様子にいち早く気付き、どうしたのか訊ねて来たが、ことの顛末を話すことは出来なかった。ただ大丈夫と返した。

「ベル様がお話になるまではアビーは深入りしません。ですがアビーは未来永劫ベル様の味方ですよ。お忘れのなきよう」

彼女の優しさはベルの心を一時でも安らかさを取り戻した。アビーにはきっと一生頭が上がらないだろう。

ベルは散々泣いた後、空虚になった心と共に日々を過ごした。ユリが来る前の日々、父母がなくなる前の日々、そしてレヴィアンと出会う前の日々に戻して何事もないかのように過ごした。忘れるなと言わんばかりに噂は耳に入ってくる時もあり、その度にベルの心を揺さぶるが、極力平静を装った。

顔を合した時にでもユリかレヴィアンに直接事実を聞こうと思っていたが、準備に手間取っているのか、結局パーティーの前日になってもユリは学校に来なかった。レヴィアンも何故か学校に来ていない。当人たちがいないことを良いことに噂の声は大きくなって嫌でもベルの耳に入った。それまでお高くとまっていた王女を見下すかのようにわざとベルの傍で高らかに笑いながら陰口をたたくものもいた。

『所詮、四番目の王女なんかお嫁にいくしか能がない』

幼い頃から心無い民衆、貴族、安全と言われる王城の中でもそうやって嘲弄されることがあった。王女として結婚は責務であることには違いない。どんなに年上であっても、乱暴ものであっても、心から愛せなくても仕方がないことだと覚悟をしていた。しかし兄に薦められた縁談相手のレヴィアンはすでに希望を持たなかったベルの心を溶かしてくれた。心から愛せる相手と出会えたことに深く感謝をした。

それも今はもう過去のことになってしまった。

(レヴィアン様もユリ様もとても素敵で優しい人、二人が惹かれ合うのも無理はない)

無論、悔しくてたまらなかった。しかしそれはレヴィアンをとられたからではない。聖女の力以外は世間知らずな少女と思っていた想像の聖女は想像をはるかに超えた存在だった。つまり自分よりユリの方がずっと魅力的な女性であるのはベル自身が認めていたのである。

(そうよ。捨てられるのならば潔く身を引きましょう。ユリ様を憎んでも仕方がない。せめてわたくしのバッドエンドだけは避けなければ)

夕方、ベルは王城に帰った後、まっすぐにアダムの元へ足を運んだ。サマーパーティーを直前に控えバタバタしているのは承知で無理に時間を作ってもらい、アダムの部屋で二人で話をしたいとお願いをした。

少しだけと言いながら、アダムはお茶とお茶菓子の準備をして待っていてくれていた。顔を見合わせて座った。アダムは目の前の妹のために手ずからお茶をカップに注いでベルの前に差し出した。

「一体どうしたんだい。人払いまでさせて」

「お兄様、お願いがございますの」

「うん?珍しいね、ベルから直接お願いなんて、いつ以来だろうか。いいよ、なんでも言って御覧」

ベルは息を飲んだ。一言口にすれば全てが終わる。そう思うとなかなか言葉が喉でつっかえてしまう。

(泣くな。泣くな。前世の私だって悲しみは全て飲み込んできたじゃない。そうだわ。前世の私なら)

ベルは王女としての品格をかなぐり捨て、手をテーブルに叩きつけた。アダムは見たこともない妹の睨み顔に驚いていた。

「わたくしの婚約を破棄していただきたいの」

「は?」

アダムは思っても居なかった願いに間の抜けた声が出た。あれ程仲睦まじい二人が上手くいっていないなんて想像だにしていなかった。二人の間に沈黙が流れた。アダム自身どう答えればいいのか悩み切り出せず、ただぽかんと口を開けている。

「もう一度言わないといけませんか」

ベルは睨みつけた目を今度は据わらせて言った。

「いや、結構…しかし何故だ。理由をきかせなさい」

「それは…レヴィアン様に、新たな、想い人…」

そこまで言ってベルは堪えていた涙がじんわりと瞳を覆っていく。しかしその涙はすぐに引っ込んでしまった。

「それは真か」

ベルの言葉に反応したアダムは、さっきのベルと同じように目を据わらせていた。つららを思わせるかのような鋭い眼差しでベルを突き刺したのである。

「それならば結構。そなたの願いを聞き入れよう。あの男には二度と故郷の地も、無論我が国の地も踏めぬようにしてやろう」

アダムは立ち上がり、テーブルにもたれかけさせた剣を持ってドアへすたすたと歩いていく。

「お、お待ちになって!」

ベルの言葉に足を止めるが怒りは収まらないようだ。

「そのようなことをせずとも良いのです。わたくしが一人引き下がれば問題ないのですから」

「そうはいかない。そなたたちの婚約はただ思い合っているからのものではないと、そなた自身がよくわかっているはずだ。国同士の契約を反故にするなどあってはならないことだ」

強い口調でベルをはねのけようとした。しかしベルは負けじと食い下がる。

「それならば問題ないのです。わたくしよりふさわしい相手なのだから」

「なんだと?誰だというのだ」

「聖女様です。聖女様ならばリンデン王国にとってもヴォルク王国にとっても悪いどころか美味しい話になるでしょう。わたくしよりもユリ様の方が、お兄様だってより良い交渉ができるはずです」

四番目の王女よりずっと位の高い聖女を嫁に出す方が、条件もずっと良いのである。外交も交易もリンデン王国に有利に事が運び、またヴォルク王国とも末永い付き合いが望めるとベルはアダムを説き伏せた。

「そなた、どうしてそこまで…」

「わたくしは、リンデン王国を愛しています。お兄様も、家族も、国民も皆を愛しているのです。同じくらいユリ様もレヴィアン様も愛しているのです。皆が幸せになるのであれば、わたくしは喜んで身を引きます」

記憶を蘇った時は自分の身が大事だった。投獄されなければいい、それだけが目的だった。しかし記憶以前に十七年の月日をベル・リンデン・ラングウェルとして生きている。愛したものは記憶一つで覆すことなんて出来ないのだ。

アダムは黙ってベルの言葉を聞いた。冷たい瞳は徐々に熱を取り戻す。

「そなたの想いは立派だ。誇りに思うぞ。だからそなたの『願い』は聞き入れよう。しかし忘れないでおくれ。あくまでも国のためにそうするのだと。一人の兄としては一向に納得は出来ない。すぐにでも八つ裂きにして豚の餌にでもしてやりたい程腸が煮えくり返っている。出来ることならば一族郎党皆殺しにしてやりたいのだぞ」

普段温厚で賢い王のアダムから出たとは思えないほど苛烈な言葉は一瞬ベルの肝を冷やした。そんなベルを察してかいつものような笑顔でベルの頭を撫でた。

「明日に備えてゆっくりやすみなさい」

「はい、お兄様」

噂を聞いてからこの数日間、眠ることも儘ならなかった。初めて心情を打ち明けて少しだけ心が軽くなったような気がした。

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