甘酸っぱい香り
二日目こそ三人も見学に来てくれたが、その後は誰も来ることなく週が明けてしまった。
土曜日も部室に詰めて待っていたのだが、弁当食べて宿題とトランプで終わってしまった。
そんなわけで週明けの月曜日はまるで元気がなかった。
数学の問題集も提出しなければならないし、初日の三人のうちだれかが入部しくれればいいし、なにより面倒だった。
桜葉さんはいつも通りだが、夏目も部室にいなかった。いい加減飽きたのか、部活へ来ても宿題やるはめになると踏んだのか。
閑散とした部室でシャーペンの音だけがせわしない。
α、β、解と係数の関係より、と同じ公式を同じように書かされ続ける計算に飽きてきて、もう勝手に手が動くようになったころ、外から夏目の話し声が聞こえた。
「茅野、お茶出して。五人分ね」
夏目に続いて女子が三人入ってきた。
先頭の子はたい肥が積まれた棚やスコップ、一輪車を見まわしながら、露骨に顔を曇らせる。見知らぬ場所ではないかのような余裕のたたずまいに、スマホサイズのチャームをじゃらじゃら下げたかばんが目を引いた。
偏見だが、正直あまり話したくないタイプだった。
「さっきそこでナンパしてきたの。カモミールティー飲んでみたいって」
なるほど、夏目にとっては宿題よりも勧誘の方がマシだったのか、と思った自分はひねくれているだろうか。
もちろんそんなことは口に出さず、お湯とティーポットの準備を始めた。
「それで、みんなはどんな部活見てるの? 文化系?」
「軽音とかコーラス部とかですね。テニス部とかも見てきました」
「へえ、軽音とか文化祭かっこいいよね。去年はテーマソング作ったりしてたし」
「その話聞きました。オリジナルソングが全校放送で流れてたんですよね」
あからさまに目の輝きを取り戻していた。
多分この子がメンバーのリーダーになるのだろう。長身で背中まで伸びた髪の片側を三つ編みで結っており、経験値の高そうなオーラが飛び出ていた。
隣の子も話し出した。
「ソフト部も良かったよね。なんか仲いいみんなと輝いている感じ。先輩みんなうまそうだし」
こちらは少し脱色したような髪を結ぶことなく肩まで伸ばしていた。一年生ながら校則と戦う気満々に見えるのがすごい。
「ソフトやってたの?」
「やったことはないんですけど、挑戦するのもありかなって」
「ありあり、中学にない部活いっぱいあるから、試しでもやってみたほうがお得だって」
紙コップに入れたカモミールティはいつもより少し濃い色をしていた。これは渋いだろうか、と砂糖を探し始める。
「杏子ジャムも出しておいてね」
フクロウのように首だけ回す夏目。いつもならお前もこっち手伝えよ、と言うかもしれないが、今はまるでそんなことは思わなかった。
これこそ一番理想的な分業体制だと確信しつつ無言で冷蔵庫からジャムを取り出した。
「あの、私ジャム持ってきました」
アニメのようなこもった甲高い声だった。
最後の子は小学生でも通じそうなほど小柄で、深い黒髪と目が印象的だった。他の二人ほど派手ではないが、腕時計や胸ポケットに差したボールペンはシルバーとピンクの主張が強く、うっすら化粧もしており、決してこのグループの中でも浮いていなかった。
その子がいそいそとかばんから取り出したのは、新品のマーマレード瓶だった。いきなり勧誘されて来たのだからジャムは持っていないだろうと踏んでいたのだが。
その時の僕はだいぶいぶかしげな顔をしていただろう。
「さとみ、園芸部行きたいなんて言ってたっけ?」
長身の子がさも意外そうな声をあげる。
「たまたま。昨日家の買い物したときにもしかしたらと思って買っておいただけ」
ふーん、と言ったかどうかわからないが、興味はさほどないようにまた軽音部の話が始まった。
僕も、そんなものか、とは思わなかったが、あえて会話に入りたくもないので黙って瓶の上にティースプーンを置いた。
まあ、もちろんそんなものではなかったのだが。
その後はなんともあっさりしていた。マーマレードを十二分に放り込みながらお茶を飲み干すと、三人はそそくさと出て行ってしまった。
「失敗したー」
僕が紙コップを片付けていると、夏目は大げさにパイプ椅子に寄りかかってため息をついた。
「なにが?」
形式上とぼけてみせる。
「あんまり気にせず、あの三人に声かけちゃったこと。ウチには興味なさそうだし、疲れただけですよ」
目を合わせないようにお茶のお代わりをすする夏目にクッキーの子袋を置いた。
「僕はお茶入れていただけだし、特になにも」
「いやいや、すこしはノッてきてよ。私なんか――」
コンコン、とガラスをたたく高めの音が聞こえた。そして丁寧なアニメ声が続いた。
「ちょっとよろしいですか」
僕らは目を合わせると、夏目の声がそんなに大きくなかったことを祈りながらドアを開けた。
ドアの前にはマーマレードの子一人しかいなかった。呼吸が荒い。走ってここまで戻ってきたのだろう。
「あの……、聞きたいことがあって。これなんですけど」
胸ポケットから小さなひし形の紙が出てきた。どうやらメモ帳を折って封筒のようにしたものらしい。受け取った夏目がゆっくり広げると、中には青いメタリックな輝きをしたゴマ粒くらいの小さな球体がいくつか入っていた。
「この種、なんだかわかりますか?」
種? その言葉とはずいぶんギャップのある物体だった。
小さめのガラスビーズやチョコスプレーのようで、無機的な印象がぬぐえない。少し傾けるだけでコロコロとメモ帳の折れ目に沿って転がっていった。くしゃみでもしたら一発でなくしそうで怖かった。
夏目はそれを数秒間観察すると、ゆっくりと僕に押し付けてきた。なんとか言って、とプレッシャーも一緒に。
「種、でいいの?」
「はい、そう聞いています」
彼女の眼はまっすぐだった。
僕もまっすぐな目に変わった気がした。たいしてない園芸知識を何度もひっくり返した。
見覚えがないわけではない。
「種だとすれば、これは本来の姿じゃないと思う。育てやすいように薬剤でコーティングしたものだね。僕にはそこまでしかわからないけど」
もしかしたらコーティングの色から種苗メーカーや大まかな種類が識別できるのかもしれない。ただし、僕はそれがわかるようなレベルではなかった。
「そうですか。さすがにはがせないですよね」
苦笑いしか返せなかった。水につければある程度落ちるかもしれない。それでも、特徴的な形の種が出てこなければ、判別は難しいだろう。
「それなら仕方ないですよね。いえ、そんな深刻なものじゃないから大丈夫です」
素直な笑顔ではない、そう感じた。
「今日のお礼になるかわかりませんが、差し上げます」
そう言って彼女は去ってしまった。
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