同じ香り

 火曜日の六限終わり、僕は部室へ急いでいた。

 前日、部活説明会の日は一人も見学者がいなかった。

 新入生が来たらまず温室の紹介して、プランター見てもらって、お茶飲んで、なんて夏目と言い合いながら何か月かぶりに道具棚の整理や床掃除をしながら扉の先に全神経を集中させていた。

 しかし、ノック音も人の気配もないまま時間は過ぎていった。

 いい加減飽きてお茶の時間になったころに気がついた。普通、いきなりジャム持って部室へ来いなんて言われて、どうにかなるわけがない。

 今日たまたま朝ごはん食べる時間がなかったから食パンといちごジャムをカバンに入れてたんですよ、なんて人が新入生五百人弱の中にいないとは言えないが、その人員を採用するかどうかは審議が必要だろう。

 そんなわけで一日遅れの本番が始まった本日なのだが、重ねて残念なことに夏目も僕も六限まで授業であった。

 桜葉さんには期待できないから五限終わりの一年生はあきらめるしかない。それでも職員室のキーボックスからカギを回収すると、走って部室へ向かった。

 校舎の裏手まで出て、部室棟をぬけて、グラウンドのわきを回って……。ああ、なんでこんなに部室は遠いのだろうか。というか、仮に入部希望者がいたとしてもたどり着けるのだろうか。

 ツバキの高い生垣に突き当たって曲がり、息もぎりぎりのところで温室、そして部室が見えてきた。

 そこには、ピョコピョコしながら部室の中を覗く男子がいた。

 僕は回れ右をしてさっとグラウンド脇まで帰った。自分の判断の速さにドン引きである。

 見られてないよな、大丈夫だよな。

 サッカー部の掛け声がいやに居心地を悪くさせた。彼らよりもはるかに息が切れているのは、僕に体力がないからだろう。

 どうしたものか。いやいや、何のために職員室から走ってきたのか。

 もう少し引き返してみても、夏目の姿は見えなかった。桜葉さんももちろんいなかった。

 息切れがやんできて、心は落ち着かないものの、時間がたっていることだけは感じた。

 そうこうしていても、あんまり意味がない。部室までの道は一本なので彼があきらめたとしても、どのみちここで鉢合わせになる。

 つまり、もう少し校舎寄りに退避しなければ……、それはさすがにないだろう。

 なんて声かければいいんだ? Excuse me? 違う違う。

 桜葉さんなら、微笑みながら肩口から、こんにちは、と顔を突き出すだろう。そして如才なく年長者の余裕をみせながら名乗り、温室にでも連れて行って、植物たちの説明をして――。

 のっそりのっそり歩き始めた。もちろん部室方向へ。

 生垣まで戻ると、男子生徒は相も変わらずピョコピョコしていた。

 割と小柄だが肩幅はあるようでブレザーが少し窮屈そうだった。坊主頭も相まって、向こうの河川敷で少年野球していそうな容姿だ。

 僕が恐る恐る観察していると、こちらに気づいたのだろう、仔犬のように駆け出してきた。

「園芸部の先輩っすか?」

 お、おう。

「そうだよ。部活見学かな?」

 一瞬ひるんだが、思ったよりもしっかりと声が出た。

「はい、お願いします」

 礼の仕方はやっぱり体育会系だった。

 昨日の打ち合わせ通りまずは植物の紹介ということで、部室にカバンを置いて温室へ連れて行った。中は少し湿気が強かったので、ドア右のハンドルを回し、屋根についた換気窓を開けた。

 おお、とちょっとした感嘆が聞こえた。これも三回目くらいでなんとも思わなくなるのだが、まあいいだろう。

 入って右手にはまだカモミールが残っていた。前の収穫からそんなに日がたっていないと思うのだが、取り残しが多すぎたのか、すでに花弁がシナシナになっているものがかなりあった。

「種を取るために放置しているだけだからね」

「なるほどっす」

 何の説明もしないまま言い訳が先に出てしまった。

 体の表面に熱を感じながら、カモミールに背を向け左手のスチールラックに誘導する。

 こちらには先輩方のジャングルが並んでいる。雑然といった見た目ではあるが、一応水やりの頻度ごとに場所を分けて、べニアの立て札もしてある。正直名前がわからない鉢がほとんどだから、この立て札が生命線でもある。

 そんな内情は気取られないように話を進めた。

「多肉植物だったり、エアプランツだったり、先輩方が集めた熱帯系の植物がメインの棚だね。入部したら一週間交代でこの子達の水やりもやってもらうよ。まあ、札を見ればわかるから初めてでも大丈夫」

「先輩はこの植物の名前、全部知っているんすか?」

「全部はさすがにわからないよ。でも葉の形とかから調べてみるのも楽しいよ」

「レベルの高い遊びっすね」

 素直なまなざしが返ってくるのが逆につらかった。

 いや、嘘は言ってない。僕がひと月で飽きたのは内緒だが。

「日曜日とかもお世話に来るんすか?」

「一日くらいなら問題ないから日曜日は活動しないよ。特別な買い出しとかがない限りはね」

 土曜日の半日授業すら億劫なのだけど……。日曜日まで部活とは、やはり体育会系は違うのだろうか。

「あと質問とかある?」

「大丈夫です!」

 ぶんぶんと揺らすしっぽが見えそうになった。柴犬を買っている人の心情はこんな感じかもしれない。

 そして沈黙。

 いや、どうにかやっていたつもりだけど初対面でのコミュニケーションなんて苦手科目の極みだからね。

「あ、そういえば、ジャム持ってきてくれた? お茶用のやつ」

「はい! もちろん」

 そう言って、ポケットからビンが出てきた。ポケットって……。

「リンゴジャム?」

「はい! カモミールはリンゴの香りって聞いたんで」

 確かにそうだが、はじめからリンゴの香りがするのにさらにリンゴ? 変に邪魔はしないだろうけど、そんなに香り強化させなくとも。

「じゃあ、お茶出そうか。部室内の紹介もしたいし」

「はい!」

 やっぱりしっぽが見えた。

 温室を出て部室のドアを開ける前に、すでに夏目が来ていることがわかった。とてもいい声量をしていた。

「茅野、遅い遅い。早くこの子達にお茶出してよ。濃いめでね」

 夏目の前、僕の指定席には女子生徒が二人並んでおり、テーブルにはブルーベリージャムが置いてあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る