カモミール(後編)
週一のルーティーン
エスカレーターを登りきると、もうパン屋さんは閉店していて、ささやかに営業しているコンビニにも人影は見えなかった。
かく言う僕も用はないので、店の前を横切り奥にある二重の自動ドアをぬける。
ドアの先にはバスケットコートを三面つなげたくらいのだだっ広い部屋があり、びっしりと黄緑色の椅子が並べられている。それも無視して一番奥まで進むと、今度はこじんまりとまとめられたオレンジ色の椅子が見えてくる。
黄緑には眠そうなご老人方がちらほらいたが、オレンジには誰もいない。ちなみに前者は外来用、後者は入院患者用である。
こんにちは、と受付のお姉さんへ元気よく声をかけた。以前声が上ずって記憶のどこにもない甲高い声が出てしまったことがあるので、立ち止まってしっかりと口を開けることを意識する。
お姉さんは少し目を上げたが、そのままパソコンの画面に戻った。前々回くらいからこんな反応となっているが、むこうも忙しそうなので気にしない。こちらも数分後のための発声練習でしかないので、お互い様である。
お姉さんのリアクションに関わらず、長机に並ぶタブレットへ個人情報を打ち込むと代わりに首から下げる面会者カードがもらえる。あとは五時までにこのカードを返せば文句は言われない。勝手に三階の個室へ行けばよい。
これをやるのに最初は一時間近くかかった――受付前で右往左往していた時間がほとんどだったような気もするが。
しかし慣れとは偉大なもので、はじめどんなにハードルが高かったことでも、いつの間にか今日の夕飯はなんにしようなんて考える余裕も出てくる。
ブリと小松菜の買い置きがあったから、照り焼きと煮浸しなんてどうだろう。
エレベーターを降り、煌々と照らす蛍光灯と白く反射する床に居心地の悪さを感じながら廊下を突き当りまで進むと、右手に三〇七号室という札がかかった薄茶色の引き戸がある。
ここで最後のルーティーン。取手に手をかけ目を閉じて、声を出さず口だけ動かす。
「明日は晴れるといいな」
扉を勢いよく引いた。
「一週間ぶり! どう、元気? こっちは相変わらずボケーとしてる。テストも先だし、まだまだ進級したてのつもりだから許してほしいんだけどね。
でも、あいかわらず学校としては許してくれないみたいで、追加授業のお知らせまで配られたよ。国立用の応用数学とか小論の授業とかはおもしろそうだし受けてもいいかな。英語の長文とかも必要なんだろうけど、ちょっとまだ手が出ないな。
まあいいや、とりあえず今日は先週話した部活説明会の続き。どこまで話したんだっけ?
そうそう、夏目が水やりサボっていた話をしたところだったよね。今回の解答はね……」
彼女の瞳はただ天井を見つめていた。
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