2.星崎雅
高等部の先輩から鮎川哲也選手にバレンタインのチョコを届けて欲しいと頼まれたのは、節分の日だった。昼休みにわざわざ中等部の教室までやってきて、中庭で相談を持ちかけてきたのだ
その先輩とは、その時に初めて接点を持った。高等部1年の園田絢香と名乗った彼女は、ロングの髪をヘアバンドで後ろに流した大人っぽい容姿の美人だ。同時に、上品でお嬢様のような雰囲気を纏わせている。小顔で、手足が長い。モデルのようにスタイルがいい。
「すみません。うちのクラブは個人的なプレゼントの受け取りはしていないんです」
「だからあなたに頼んでいるの。だって星崎さんは、哲也くんと同じリンクで練習しているでしょ? あなたから経由してもらえば、確実に哲也くんに届くもの」
「……哲也、くん?」
引っかかる言い方だ。高等部1年、私より一つ年上ということは……。
「あの、てっちゃんの事、元々知ってたんですか?」
てっちゃん、という私の呼び方に、園田先輩は少し眉間に皺を寄せた。
「小中の同級生だったの」
そこから先は園田先輩の一人話だった。てっちゃんが横浜に転校してきた時から、ずっと好きだった。だけど話をかける勇気もなくて、同じ教室でも遠くから見ることしかできなかった。ようやく少し話せた時には小学校を卒業してしまい、同じ中学に入学しても3年間同じクラスにもなれなかった。その間に彼がどんどん遠くなってしまって悲しかったけれど、テレビに映る彼の演技を見れば見るほど、好きという気持ちが加速して抑えが効かなくなってしまったことーー。
聞いているうちに……何故だろうか。ものすごく冷めた気持ちになった。適当な相槌しか打てない。熱っぽく語る園田先輩の瞳は妖しい光を宿していて、少し怖い。好き、という感情以上の何かを持っているみたいだった。大体、哲也くんなんて親しそうに呼ばないでほしい。
「お願い! 何でもするから!」
そこまで言われても、私は頷けなかった。園田先輩にして欲しいことなんて何もないし、なるべくなら、この件には関わりたくない。角が立たないように丁重に断り続けたら、何とか先輩は諦めてくれた。……諦めたのだと思った。
だから受付の前で松田大樹にプレゼントを渡すように頼んでいる園田先輩を見た時、意外に行動力があるなと思った。禁止されていると再三言ったのに実行するのだから、思いの強さは本当だ。園田先輩は私の姿を確認すると、気まずそうに背を向けて去っていった。
大樹は素直にてっちゃんに渡すだろう。それを受けたら、てっちゃんはどうするのだろうか。
……何を渡したかも想像したくないし、それ以上にてっちゃんがどう受け止めるかも知りたくなかった。私だって世界ジュニアが近い。余計なことを考えてはダメだ。
てっちゃんがリンクに来たのは、それから15分ぐらい経ってからだ。水飲みにリンクサイドに近づいたら、給湯室の中で大樹とてっちゃんが向き合っているのが見えた。大樹と入れ替わりに堤先生が入って……今度はてっちゃんが、出ていく。でもリンクに向かうのではなくて、何も持たずに入り口の扉に向かっていった。外に出るみたいだけど……どうしたんだろう。
それは、堤先生と大樹に聞いても答えてくれない。何故だかそんな確信があった。
*
それから休まず練習して、壁時計を見たら五時半になっていた。今日は七時まで氷上練習する予定だから、一旦ご飯を食べて休むことにする。
給湯室に入り……思わずぎょっとする。
「てっちゃん、どうしたの?」
ソファに座って呆けていたのは、鮎川哲也その人だった。色白な顔が余計白く……いや、蒼白になっている。細い背中が小さく見えて、いつもより頼りなく感じた。
外から帰ってきたてっちゃんはコンパルソリーを繰り返し行っていた。唇を引き結んで黙々とスケーティングの練習をする姿は修道僧みたいだった。堤先生はそんなてっちゃんに何も言わずに大樹の練習をみていた。
「ちょっと色々あって」
「……何があったの?」
「聞かないでくれると助かる」
色々。その中に全ての意味が込められているように思えた。原因は、私が断った園田先輩のバレンタインプレゼントだ。その中に精神的に疲労をきたす「色々」な出来事があったのだ。
「ご飯持ってきた?」
「……あるけど」
あんまり食いたくないな、と呟いた。これもまた珍しい。
ため息が重い。スケートの以外で、てっちゃんがこんなに暗く落ち込んでいるのは珍しい。基本的にてっちゃんは、誰に対しても分け隔てなく接している。私は園田先輩を恨みたくなった。こんな顔をさせるなんて、一体何をしたんだ。
でも私がてっちゃんにできることなんて限られている。慰めは望んでいない。私も下手な慰めなんてしたくない。それなら……。
私は給湯室の冷蔵庫から、一つのタッパーを取り出した。昨日の夜、母が作ったおやつだ。これは奇抜なものじゃないって知っている。ポットのお湯は保温になっている。棚には紙コップが常備されている。ややあって出来上がったものを、てっちゃんの前に出した。
「これ、よかったら飲んで」
「……なんだ、これ」
ホットチョコ、と私は返した。
タッパーに入っていたのは、母が試作品と言って作った生チョコだ。おやつ用に母が持ってきたものを二つ紙コップに入れて、ちょっとのお湯で溶かした。なんちゃってホットチョコだ。
「食べるのが無理でも、飲むのはいけるかもしれないし。無理そうなら残してもいいから。私は何があったかは聞かないし、一人の方がよかったら別のところに行くよ」
私ができることは、てっちゃんが嫌がることをしない。少しでも気が晴れるようにする。それだけだ。でも、たったそれだけが意外に難しい。相手を大事にしたいと思うほど、何が正解かはわからなくなるから。私は弁当箱を持って給湯室を出ようとした。
「雅」
ドアノブに触れようとした私の手が止まった。雪解けのような声。固まった氷が少しだけ溶かされたような。
「出ていく必要ない」
近くにいてくれ、と言われた気がした。
てっちゃんの方を振り向くと、彼はホットチョコを一気に飲み干すところだった。
「美味しいな。雅、ありがとう」
ーー屈託ない言葉に、胸の奥がざわついた。温かいような、擦れるような、不思議な痒み。白かったてっちゃんの顔に、ほんのりと赤みがさす。
「……隣でご飯食べていい?」
てっちゃんは答えなかった。私はそれを無言の肯定として受け止めた。ソファが二人分の重みを受けてへこむ。手が近い。息が近い。胸の奥の、不思議な痒みが強くなる。何だろう、これ。収まらないかな。でも離れたくなかった。てっちゃんも動かなかった。隣にいていいのだ。それが何だか嬉しかった。
しばらくこのままがいい。このままがいい。
同じことをてっちゃんが考えていてくれたら、どんなに幸せだろう。何となく満ち足りた気持ちになりながら、弁当の包みを開いた。
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