2016年、聖バレンタイン
神山雪
1.鮎川哲也
「哲也にいちゃん。さっき入り口で、知らない人からこんなん預かったんだけど」
そう言って
二月上旬。俺は横浜のホームリンクで、一週間後の四大陸選手権と、三月末のパリに向けた世界選手権へと調整を重ねていた。全日本が終わって年を越してしまえば、あとの大会は二月の四大陸と三月の世界選手権のみ。チャレンジャーシリーズやグランプリシリーズで忙しかったシーズン序盤よりも、練習にゆとりのある毎日を送っている。
給湯室の冷蔵庫に、夕飯用の弁当箱を入れようとした時だ。弟弟子の大樹に呼び止められたのは。
大会やアイスショーに出場すると、ありがたいことに幾つかのプレゼントや花束を頂戴する。それは演技後にリンクに投げられたり、会場の指定の場所に設置されているプレゼントスペースを経由してだったりといくつか経路がある。また、日本スケート連盟のサイトには、選手へのファンレターやプレゼントの宛先が掲載されている。そのため、スケート連盟から俺に当てられたファンレター等が送られてきたりもするのだ。
流石に直接ホームリンクに持ってくるパターンは初めてだ。一応、所属しているスケートクラブのサイトには「所属スケーターへのプレゼントはご遠慮ください」との文言は書いている。対応に困るからだ。
「なんだこれ」
そこにきて、これである。首を傾げるしかない。
「さぁ? でも、時期が時期じゃん。とりあえず開けてみろよ」
……よく言えば物おじを全くしない、悪く言えば礼儀知らずの大樹は、現在小学5年生。釣り気味の大きい瞳と、光の当たり具合で少し茶色に見える癖のない髪が特徴の、それなりに顔が整った少年だ。俺が彼の年頃だった時より幾分か小柄だけど、俺が彼の年頃だった時よりもずっと生意気だ。そんな彼は、先月から正式に堤先生に教わるようになった。何故だか弟弟子に促されてラッピングのリボンを解いていく。
「チョコレート?」
クリーム色のリボンを解いて白いプレゼントボックスの中から現れたのは、6粒の丸いチョコレート。手作りなのか店で買ったものかはわからないが、6粒全て微妙に形状が違い、随分と丁寧に作られている。
基本的に、食品のプレゼントは大会でもスケート連盟経由でも受け付けていない。しかも熱に弱いチョコレートときた。この近くの人だろうか。
「これ、どんな人が持ってきたんだ?」
「えーっと。にいちゃんと同じぐらいの歳の、女のひとだったね。制服だったし。髪は長くて、上品っていうか、ちょっと育ちが良さそうな感じがした。ああそうだ。もしかしたら、雅ねーちゃんの学校の人かもしんね」
「鎌倉桜花の?」
「うん。ねーちゃんはセーラーだけど、その人はブレザーだったね。でも、胸んとこに校章? だっけ? がねーちゃんと同じだったし、つーかその前に、鞄に鎌倉桜花って書いてあったわ」
弟弟子の観察力の高さに感心する。よくそんな細かいところまで見ているな。
リンクメイトの星崎雅が通っている中学は、鎌倉に設置された私立。鎌倉桜花女学院という今時珍しい私立の女子校で、中学から大学までエスカレーターで進学できる仕組みになっている。元々はお嬢様学校だったらしく、割とのんびりした校風が気に入っていると雅は言っていた。
鎌倉桜花は、中学の制服は紺を基調としたセーラー服で、高校は小豆色のブレザーと深茶のチェックのスカートだったはず。大樹の記憶が正しければ、このチョコレートを持ってきたのは、鎌倉桜花の学生だろう。
それはそれとして。俺は鎌倉桜花に雅以外の知り合いなんていない。小学校や中学の同級生がもしかしたら通っているかもしれないが、心当たりもない。
「一体誰が……」
「しらねーよ。俺だって渡されただけなんだから。名前も言わないで俺に渡すだけ渡してさっさと消えてちゃったし。ちょっと気の早いファンからのバレンタインプレゼントってやつじゃねえの?」
「バレンタイン?」
鸚鵡返しに尋ねる俺に、大樹は心底呆れた顔を作った。俺はiPhoneを起動してカレンダーアプリを開いた。今日は、二月七日。七日のマスの真下には、「十四日、聖バレンタインデー」と書かれていた。
「……そういえばそんなイベントもあったな」
二月のイベントと言ったら四大陸しか頭になかったけれど、世間ではそんなイベントもあったと思い至る。
スケートファンは四大陸の日程も把握しているのだろう。2016年の四大陸選手権の日程は、二月十六日から。十四日だと直前すぎて渡せないと思ったのだろうか。
せめて手紙でもあれば。蓋を閉めようとして、一つのことに気がついた。
重箱のように、下の段があった。
「二段?」
大樹も気がついたようだ。こっちにも何かあるのだろうか。促される前に上段を持ち上げて……。
思い切りバタン、と閉じる。
「何だったん?」
「……何も入ってない」
弟弟子の怪訝な一言に、俺は苦し紛れの言葉を返す。そうだ、俺は何も見ていない。何も入っていなかった。チョコレートをいただいて、箱は速やかに捨てる。それで問題がない。
「嘘だ! 哲也にいちゃん、嘘ヘタクソだもん。そんなんで信じられるわけないじゃん!」
「いや、ほんとに入ってない! お前が期待するようなものは入ってない!」
「なんだよ、教えてくれたっていいじゃん。大体、預かったのは俺だぞ!? えい」
「馬鹿、やめろ!」
一歩遅かった。大樹は俺の静止を振り切って、勢いよく箱を開く。
弟弟子の瞳が、より丸く疑問で彩られていくのがわかった。大樹がつまんで持ち上げる。……子供の情操教育に、ものすごく悪そうなものを。
「何これ? ものすごく面積の狭いふんどし? でもめちゃ薄くない? ……え、何? 哲也にいちゃん、なんで顔赤くしてんの?」
聞いてくれるな。誰だ、こんなもの持ってくるやつ。一体なんなんだ、これは。
「これは実に情熱的なプレゼントじゃない?」
俺の疑問を汲み取ったのか、給湯室の入り口から心の底から軽薄だと思う声がやってきた。
「チカちゃん先生!」
大樹はつまんでいたそれをぽいっと投げて、チカちゃん先生こと堤昌親ーー俺の師匠であるーーに、思い切り飛びついた。先生は大樹を何なく受け止めて、彼の両脇に手を入れ込んで持ち上げる。小さい子供によくやる「高い高い」だ。
「はーい、チカちゃん先生です。さー大樹、これからコンパルソリーの時間だよー。怪我すると大変だからウォーミングアップしておいで」
「へーい」
先生は大樹の小柄な体を床に下ろす。堤先生の言葉に素直に返事をして、大樹は元気よく給湯室から出て行った。まるで小さい嵐だ。静かになった給湯室。俺の手には、大樹が投げ捨てたそれが残ってしまっていた。
「こんなん貰うなんて、やるねぇって言いたいところだけど、君の場合は災難かな」
「……何なんですか、これ」
「さっきも言ったとおり、ものすごーく個人的で大変情熱的なんだけど同じぐらい独りよがりなプレゼントだよ」
二段になっていた箱の下段。その中に入っていたのは、女性ものの下着だった。色は桃色。レースがあしらわれているが、それは装飾としての役割だけで、大樹の言う通り布面積がものすごく狭い。貰っても困る。一体どうしろと。
「俺にどうしろって、こんなもの」
「どうするかって。まぁ要するに……哲也、ちょっと耳貸しなさい」
誰かに聞かれるとまずい話なのだろう。堤先生は俺の耳に顔を近づけ、音が漏れないように口元に手を添える。軽くてしっとりした声が語っていく内容に……自分の顔がみるみると赤く、さらに頭が熱くなっていくのがわかった。その直後に襲ってきたのは、激しい胸焼けだった。全身にサブイボが立つ。
「……ってことだと思うんだけど、何、哲也。大丈夫? 何そんなに顔赤くしてんの」
「いや、その……ちょっと……」
言語障害というか、思考障害に陥った気がした。言語が出てこない。先生はそれ以上茶化すでもなく、淡々とした顔でショート寸前の俺を見守っている。
「まぁ、これが木のまたを見て発情するようなさかりのついた男の子だったら喜ぶかもしれないけど、君は引いちゃうよねぇ」
言い方ってものはないのか。
「引くっていうか……」
正直、気持ちが悪い。顔もわからない上に名乗らなかった相手からこんなものを渡されたら、俺が薄気味悪さを抱くということに、これを持ってきた人間は考えなかったのだろうか。大体、そういう事をまだ考えたくもないし、今は無縁でありたい。
「……チョコと一緒に捨てます」
「それがいいね」
こんなものを持ってくる人間は君のファンでも何でもないよ。そう添えた堤先生の言葉が大変ありがたい。ゴミ箱はどこだ。持っているものを箱に戻し、リボンで雑に結んで給湯室のゴミ箱の中に入れた。念のため、流しの下に常備されているポリ袋で二重に包んだ。ゴミ箱の中のものを漁る趣味を持つ人間はいないだろうけど、これが誰かの目に……例えば雅とかに見られるのは、万か一の可能性でも嫌だった。
胃のあたりがまだ少しむかついている。これで大樹や先生を責められたら楽なんだろう。だが、大樹は渡されただけで、堤先生は俺の疑問に答えただけだ。それを引いても、今まで何とも思わなかったバレンタインというイベントが嫌いになりそうだった。大会も近いのに、余計なことで神経をすり減らしたくない。
「あのね、哲也。これを渡した人間がだいぶ変態的なだけで、誰を好きになったり深い仲になるのは悪いことじゃない。それだけは覚えておきなさいね。俺は大樹の練習をしばらく見ているから、落ち着いたら来なさい」
頭を2回軽く叩かれる。
「……ガキじゃないんですが」
「これぐらいで動揺する程度には君は子供だよ。外の空気でも吸っておいで」
ありがたく受け取って、リンクの外に向かう。入り口の自動ドアから一歩外に出ると、二月の冷たい風を受けた。立春は過ぎたが、今日は冬日だ。混じり気の何もない冬の空気を吸うと、少しだけ胸焼けがマシになった気がした。
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