3.『初対面二人』
──美しい。
そう思ってしまった。
相手が人間であると分かった瞬間、見惚れてしまった。
いや、この反応が正しいのだろう。
なぜなら、その女はあまりにも美しすぎたのだから。
月下、この道には俺とその女のみ。
雲から脱した月の光が俺たちを照らし、それによって女の全身がはっきりと見えるようになる。
整った顔立ちに、腰のあたりまで伸びた白い髪。まさしく、本当の『美白』な肌。靴は履いておらず、完全に裸足だった。ボロボロの布を纏っているが、それすら気にならないほどに美しい。身長は俺ほどあるにも関わらず、腰の位置は俺よりも高いように思えた。
月光が彼女を照らせば、周囲が輝き瞬く。
──秀麗で端麗で壮麗。
おそらく、使い方は間違っているだろう。だが、そうとしか言い表すことができないのだ。
なんともまあ、奇妙な感覚だ。
感激なのか、感動なのか、感心なのか、今自分がどんな感情を抱いているのか分からない。ただただ、満足に近いそれだった。それゆえなのだろうか。何も考えず、ただそこに立ち尽くすのみだ。
その時だった。
「おぬし、その『恩恵』とやらを使って見せよ」
こちらに気付いた彼女は、その意味の分からない言葉を吐き、直後、俺に向かって飛びかかってきた。
ただの人間の跳躍ではなかった。10メートルはあるであろう距離をたった一歩の踏み込みで飛び、一直線に俺に向かってきたのだ。
一瞬の出来事だった。俺が何か対処できるわけもなく──
「ブバァァァッッ‼」
彼女の膝をもろに、顔面に受けたのだった。
──結論。
美しい少女かと思ったら、頭のおかしい女だった。
出会って早々、膝蹴りを顔面にかましてくる常識人を俺は見たことがない。それは紛れもない変人だ。
さて、その変人は今現在、膝蹴りを食らってぶっ倒れた俺に馬乗りになっているわけだが。
「…? おかしいのぅ。儂が攻撃したというのに、なぜおぬしは何もしなかった?『恩恵』とやらは使わなかったとしても、せめて防御くらいはするじゃろうに」
訳の分からないことを俺に語りかけてくる。
「…とりあえずよ…なんか言うことあるんじゃないのか?」
「その前に儂の質問に答えよ。おぬし、『恩恵』を授かっているはずじゃな? ちょうど今日、河原で使ったであろう」
「『恩恵』…?」
知らないキーワードだ。
少なくとも、あの頭のおかしい恩人の口からは発せられたことのない言葉だった。
だが、『河原で使った』、か。そうなると、思い当たる節はある。例の能力だろうか。
だが、例えそうであったとしても、今この状況でそれを口にして良いのだろうか。
「はい、持っています」と言ったところで、俺には何のメリットもない。
この女も怪しい。素性が知れない以上、むやみにこのことを口にする必要はないだろう。
それに、ウニにも口止めされていた…気がする。
そうと決まれば、俺がとるべき行動は一つ。
「なあ。とりあえずどいてくれないか? …ほら、鼻血がドバドバだ。誰かさんのせいでな。早く止血しないと出血多量で死んでしまうぞ。…それに、話をするつもりならば、こんな体勢じゃしにくいだろう。だからとりあえず降りよう。な?」
「…確かに、のう。人間が脆いのは、確かにそうじゃ。それに、そうじゃな。別に儂は脅しに来たわけでもなく、ただ話をしに来ただけじゃからな」
どの口が言うか。
「じゃあ、そうことで、早く降りてくれないか? 今にも出血多量で死んでしまいそうなんだ」
もちろん、死ぬ気配などは全く感じていないが、大量に出血していることは事実であり、この血全部俺のだ、と考えると今にも卒倒しそうな勢いではある。
「そうじゃな。すまんのう。今すぐどけよう」
意外とあっさりしていた。
そういったその女は、すぐに俺の上からどけてくれた。
「…実はさ、今、俺の家が大変なことになってるかもしれないんだ。知らないヤツが俺の家に勝手に上がり込んで、勝手してるかもしれないんだ。誰かさんのせいでな」
「? それは儂のせいではないじゃろう?」
「まあ、そうだな。君のせいじゃない。だが、俺は今すぐに家に帰らねばならない。──ということで、達者でな!」
そういった瞬間、俺は家の方向に向かって全力ダッシュを始めた。一歩一歩を全力で踏み込み、全力で。それはもう、全力で。
こんな状況で、どんな行動が正解か。そんなもの簡単だ。
正解は『逃走』である。触らぬ神に祟りなし。関わらなくていいものには関わらないが吉なのだ。
自宅の防犯が心配なのもあったが、今一番大事なのは、いかにしてあの女の目から逃れるか、だった。
幸いなことに、ここから自宅までそう距離はない。全力ダッシュで約2分。
これはもう勝ちも同然だろう。
後ろを見れば、あの女の姿は無かった。
その速度を落とすことなく、俺はアパートの階段を駆け上がり、自室の扉を勢いよく開け、その勢いのまま扉を閉めた。
──勝った。
そう思うと同時に、玄関に腰から崩れ落ち、安堵のため息をついたのだった。
しばらくして、気付いた。
玄関の鍵がかかっていなかったことに。
部屋の明かりがついていることに。
玄関に見知らぬ靴があることに。
「あぁ…」
なんとなく、いろいろと察した。目の前がくらくらする。俺の家はもうダメかもしれない。
その時──
「ちょっ、ひどい鼻血じゃないですか! 一体どうしたんですかアキラさん!」
まるで好青年のような、好少年のような、その類の人間を象徴するかのような声が聞こえた。聞き取りやすいはきはきとした発音、ちょうどよい高さの声、聴き心地のよい声質。
知らない声だった。
まあ、なんとなく、どういう展開なのかは察しがついていた。うんざりするような意味合いを込めたため息を大きく吐き、顔を上げる。
目の前には、俺が助けた少年がいた。
✿
その少年は『
身長は俺から10センチほど引いた程度。
青か黒か、と言われれば黒と答えるような髪の色。
──ふむ。
間違いなく、先刻俺が助け出した少年だった。
正直な話、顔など覚えていないのだが、体格や髪色はそっくりそのままだ。
それに、
「──それで、なんでお前は俺の部屋に、こんなにも平然としていられる? 俺から見れば、お前はただの不法侵入者だ。犯罪者だ」
その問いに対し、その少年──ほたるは、はて?、といったような表情を見せ、口を開けた。
「アキラさんのお父様が、勝手に入っていいっておっしゃっていましたよ?」
──ああ。
さすがの俺も察するというものだ。
どうせ、あの男だろう。恩人。恩人、ねぇ。
もしかしたら、俺はあの男に対して恩義を感じすぎな節があるのかもしれない。少し、自分を見つめなおす必要があるかもしれない。
今日一日で色々なことがありすぎて、疲労の蓄積が半端ないのだ。正直、いちいち突っかかっている余裕はない。
──だから俺は、なるべく穏便に、大人の対応をとることにした。
「ほたるくん。それは全部嘘だ。あの男は俺の父親などではないし、君はあの男にこれ以上関わってはいけない。だから、あの男のことを今すぐ忘れるんだ。あの男の存在は君にとって害にしかなり得ない。だから、今すぐ、この場で、未来永劫、忘却することを誓うんだ」
「ちょ…アキラさんっ目がっなんだか目が怖いです! 全く光がないです! 死んだ魚の目以上に死んだ目をしてますよ! ちょっ…顔が近い! 顔が近い!」
この少年はウニの虚言によって、今この場にいるのだ。合鍵を持って行ったのも、ウニを信じたことによるものであろう。
つまり、この少年は全く悪くないのだ。頭のおかしい奴ではない、はずだ。
先ほど確認したが、俺の部屋は全く荒らされていなかった。つまり、この少年は無害。圧倒的、無害。俺はそう結論を出した。俺がもう何も考えたくないというのはあったと思うが、それを踏まえても、今の状況からはこの少年が有害であるとは考えられないのだ。いや、そうとしか考えられない、と信じ込んだのだ。
それに、こんなにもきれいな目をした人物を俺は知らない。きらきらと、まるで硝子のような、そんな瞳だ。目に映る全てのことを信じている、といった目だ。なんだか分からないが、この少年は常に前を向いているような気がした。
──俺とは違って。
とにかく、俺は、こんな少年を、こんなにも汚れのないこの少年を、これ以上ウニのような鬼畜に会わせることはしたくない。どんな影響を受けるか分かったものではないから。
おそらく中学生なのだろう。顔も幼い。
ならばなおさらだ。多感なこの時期に、社会のヘドロことウニにこれ以上会わせるわけにはいかない。
「ほたるくん。とりあえず今日は帰りなさい。もう遅い時間だ。…そうだね、送って行ってあげよう。家はここから近いのかい?」
「え…いいんですか⁉ 嬉しいなあ。まさか、アキラさんが僕のことを心配してくださるなんて!」
「…というかさ、さっきからずっと気になっていたんだけどさ、なんか違和感があるんだよな。特に君の態度。君のことは全く知らないし、どんな人間なのか見当もつかない。だけど、なんだか、君の俺に対する態度は──」
やめろ、俺。それ以上探りを入れるな。
この少年は無害であると結論を出したばかりじゃないか。
これ以上事態を複雑にしてどうする。
「つまり、僕の、アキラさんに対する態度がなんだかおかしい、ということですか?」
「いや……いや、そうだな。言葉を選ばず言うならそういうことだ」
俺がそう言い終わった後、しばらく静寂が訪れた。
今、この部屋には俺とほたるの二人だけだ。
そして、その二人は一つのちゃぶ台を囲むように座っている。まさしく、円卓会議という訳だ。
だがそれは、円卓会議という大層な言葉を使う割には、座布団も何もない、貧相な会議だった。
──客人用の座布団くらい、用意しとけばよかったかな。
そんなことを考えなければならないほど、今のこの状況は気まずかった。
なぜ何も言わない、ほたる。なんか言ってくれないと…ちょっと、この空気は辛い。重い。
地雷を踏んでしまった、とかか?
やってしまったのか、俺⁉
「恩人に恩義を感じるのは、おかしいことですかね?」
なんだか殴られた気分だった。
そうか、俺はこの少年の命を救ったのだ。
少年の態度が、俺に対する態度がなんだが違和感があるのは──そういうことか。
そういう事情ならば、俺も人のことを言えた立場ではないな。俺にだって、恩人はいるのだ。
ああ、なんて鈍いんだ、俺は。
地雷なんてもんじゃない。
「なんか、その、ごめんな…。なんか、そういう意識が欠けていたよ」
「いえ、別に…これは僕の一方的な押し付けのようなものですから。アキラさんが気にするようなことでは…」
「そうだな…でも、だな。恩義を感じるのは否定しないが、俺のことは早く忘れてしまった方がいいと思うぞ」
「え、なんで…ですか?」
「今日別れてしまえば、俺たちはもう会うことはないかもしれないだろう?」
「え、そうなんですか?」
「いや、だってさ、俺たち年齢も違うだろ?学校も違うわけでさ、つまり──」
「でも、僕たち一応、クラスメイトですよね?」
また、静寂。
「え」
情けない声が出てしまった。
いや、え、クラスメイト?
「僕、第十三高校2年7組です」
知った学校の知ったクラスだった。
というか、中学生じゃなかったのかよ!
「え、待って、君何歳さ」
「16歳です。誕生日は3か月後ですね」
本当に同学年だった。
と、いうわけは。
俺の事故紹介も聞いていたということだ。おっと、恥ずかしいぞ。これはかなり。いや、正確には聴衆の反応が地獄だっただけなのだが。
おっと、目が回ってきた。
ただの疲労だけじゃない。今のこの事態もおそらく原因だろう。
「あ、アキラさん、大丈夫ですか⁉」
「あ…ああ、ちょっと、驚いただけだ。すぐ良くなる」
「本当かのう。鼻血をしっかり処理しなかったから貧血気味なだけではないのか?」
知らない声が聞こえた。
いや、知っていた。
さっきの、膝蹴り美女だった。
まるで、ずっとこの場にいたかのように、ちゃぶ台に肘を打ちくつろいでいた。
いや、待て待て待て、玄関の扉も、窓も、全部鍵をかけたはずなのに。なんで──
「なんでいるんだよ!」
我ながら、キレのない叫びだった。情けない。
この女の言うとおり、貧血気味なのかもしれない。
ああ、もうだめだ。やはり疲労もあるのだろう。もう、この複雑化した状況に対応できるほどの頭は残っていないようだ。
──ああ、そうだ。
ほたるくん。ほたるくんはどうした?
おそらく驚いてしまっただろう。なにしろ、俺も意味が分かっていないのだから。
そうだ、ほたるくんのフォローをしてあげなくては。きっと困っているはずだ。温厚な、常識がありそうなほたるくんだ。きっと、困っているはず。
ほたるくんは──
「こっ、こっ、こっこの
額に血管を浮き上がらせ、白目をむき、歯をむき出しにし、彼の口からは一生聞けないと思われていた単語を吐き、女に飛びかかる少年が、そこにはいた。
ほたるくんだった。
もう限界だった。
これ以上は脳のキャパオーバーだ。
鼻血を再び噴き出し、疲労が限界に達し、訳の分からない現状況に絶望し、思考を放棄した俺は、卒倒した。
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