2.『白』
痛い。
痛い。痛い。辛い。辛い。痛い。苦しい。
息ができない。力が入らない。目がグルんぐるん回る。全身が熱い。特に肺だ。肺が熱い。空気を吸い込むと肺に激痛が走る。酸素が全身に運搬されれば、激痛が全身に移動する。中枢から末端まで、血管がドクンドクンと脈打っているのを感じる。その脈に合わせて激痛が走るのだ。激痛のたびに、よからぬことを思ってしまう。死にたい、と。口に手を突っ込み、歯を全て抜きたいという衝動に駆られる。腕から血管をひっかき抜いてしまいたい。髪を全て抜いてしまいたい。ああ。ああ。筋肉は疲労で悲鳴を上げているのだろう。ギシギシと音を立てて今にもはち切れんばかりだ。エネルギー不足なんてもんじゃない。筋肉が収縮に必要とするエネルギーを超過した運動をしたんだ。筋肉はもはや一ミリも収縮しない…ような気がする。生命活動維持に必要な筋肉の収縮は起きているのだろうが、随意の収縮はできない。つまり、体が言うことを聞かない。どんなに辛くても苦しくても、もがくことすら許されない。ああ、糖分だ。グルコースが欲しい。全身がエネルギー不足だ。どこの器官も足りてない。生きているのが不思議なくらいだ。常に落ちているような感覚に襲われる。脳も麻痺しているのか?それすらも分からない。あんなことしなければ、こんな苦痛味わずに済んだのだろうか。いや、でも俺がやらなければ誰がやったんだ。俺が助けた。俺が救った。俺が守ったんだ。…少しは俺も役に立つのか。そうなんだろうか。そうであってほしい。こんな俺でも、ここにいていいのだろうか。生きる意味が、あるのだろうか。…分からない。ああ、肺が痛い。熱い。今にも破裂しそうだ。まるで、水を飲みこんだ時のようだ。川で溺れて、必死にあがいてもがいて、それでもどうにもならなくて、必死に振り回す腕は宙を空振りして、何かに掴まることすらできなくて、怖くて、苦しくて、辛くて、悲しくて、寂しくて、腹立たしくて、悔しくて、虚しくて、情けなくて、心細くて、切なくて、惨めで、慌てて、焦って、憎んで、妬んで、恨んで、戸惑って、呆れて、諦めて、それでも生きたくて、それでも生きたくて、それでも生きたくて────。こんなの、知らない。分からない。こんな感情、知らない。ぐちゃぐちゃでガチャガチャじゃないか。こんな、幼い子供のような──。ああ、頭が痛くなる。頭の中をかき回されているようだ。早く、早く、早く、この地獄から抜け出したい。ああ、ああ。あああ。
────俺は。お前は。桜間爽は。お前は。
────誰なんだ。
────────。
✿
「アホ」
最初に聞こえた言葉だった。
徐々に目が慣れ、視力が戻る。それに伴って、もやっていた意識も覚醒し、自分が今、どんな状況にあるのかを思い出す。
生物実験室だった。そして、その教室の机上に横たわっているのが俺、という訳だ。
窓の外は暗かった。河原での一件が放課後なのだから、まあ、当たり前だろう。
さっきまでの苦痛は嘘のように消え、今すぐ走りだせるくらいには体の調子も良い。
そして、背中が、腰が痛い。机の上に直で寝ているのだ。当たり前のことだ。
「拉致ってまで忠告したってのに、なんでその日に、その忠告を無下にするかね」
まあ、分かってはいたが、隣にいたのは髪の毛ボサボサで目が死んでるおっさん──ウニだった。
その憎々しい声も、禍々しい容貌も、今の俺にとっては精神安定剤だった。なんだかんだ言って、今の俺が最も長い時間を過ごし、最も信頼を置いている相手だ。
こんな訳の分からないヤツを信頼する俺も、訳の分からないヤツだ。
おっと、まずい、吐きそうだ。
「ウオェラアッ」
「うおっ、お前いきなり吐くんじゃねえよ! ……平気か?」
「いや、俺が吐いたのはあんたのせいだ。あんたの声と、顔と、背丈と……あとそうだな、なんかもう存在自体がダメだ。生理的に受け付けない。吐くくらいにはな」
「……やっぱ俺、嫌われてるよな」
まあ、嫌いだが、信頼はしてる。
そんな俺を受け入れられないのだ。
生理的に受け付けないのは本当だし、正直関わりたくない。話もしたくない。それにも関わらず、こいつがいるだけでほっとしてしまった俺が嫌なのだ。心のどこかで信頼しきってしまっている俺がいる、という事実を受け入れられないのだ。
そんな俺が──
「──気持ち悪い」
「俺が、って意味か?」
惜しいっ、と心の中で言った。
まるで、初恋に戸惑う乙女のようじゃないか。
もちろん、そういう感情はない。俺の
まったく、我ながら面倒くさい男だ。
──さて。
「俺が気絶した後の話が聞きたい」
「…まあ、とりあえず、お前が助けた少年は無事だ。お前が河原に開けた大穴だが……俺がなんとかした。周囲には人が少なかったからな、目撃情報とかそこらへんはなんとかなる。」
なんともまあ、抽象的な説明だ。まったく分からん。
「お前が気絶した直後、俺は迅速にお前を保護、学校までおぶってきた。そして、俺の秘密の実験室『なう』、ってことだ。……使い方合ってるか?」
「恥ずかしいからやめとけ。……で、その話だと、あんたがずっと俺を監視していたってことになるんだが、そこら辺の説明が欲しい」
「朝も言っただろう?『俺はどこにでもいる』ってな」
「……」
正直、何も分からなかった。分からなかったが、この以上聞くのも面倒だ。今日はもうやめにしよう。
俺はゆっくりと起き上がり、二本の足で地を踏む。ふむ、感覚もばっちりだ。しっかり立てる。平衡感覚もばっちりだ。
「……俺がお前に『能力を使うな』と言ったのは、目立つからってだけじゃねえんだぞ。」
俺がウニを通り過ぎた瞬間、ウニが突然口を開いた。
扉の方へ向かっていた足が止まる。
「その
──『
2か月前、つまり、俺が最初に目覚めて1か月後のことだ。
退院と同時に俺はウニに引き取られ、山奥のでかい倉庫で検査を受けた。そして、そこで見つかったのが、俺のこの特殊能力。
特殊能力といっても、そんな大層なものではない。
『24時間に一度、30秒間だけ身体強化することができる』。基本的に、強化倍率は通常の10倍。
ただし、メリットよりもデメリットの方が大きい。
能力を一度使うと、しばらくの間は異常な苦痛を味わうことになる。今回が良い例だ。能力使用後、あまりの苦痛に気絶してしまうのだ。
そんな鬼畜なデメリットには似合わず、この能力を使用している間は、俺の周りに桜が咲き誇っているように見えるそうだ。それが一体何なのかは分からないが。そこから『
「だが、勘違いするな。俺はお前が能力を使ったことを責める。だが、お前の行動は正しかった。お前はやるべきことをやったんだ。それは、誇りに思えばいい」
「……なんか、さ。記憶が戻りそうだったんだよ。なんか、デジャヴっていうか、そんな感じ?……俺もよくわかんないんだけどさ、ここで何もしなかったら絶対後悔するって、直感で分かったんだ。恐怖っていうか、なんというか……あぁ、くそ! 言葉がまとまらねえや」
顔は向けなかった。なぜか、顔を合わせるのが気恥ずかしかったのだ。
突然、ウニが鼻を使って笑った。そして、言った。
「最後の最後は自分のことを考えろよ。お前の行動は称賛に値するが、度が行き過ぎると自分の身を滅ぼしかねないんだ。ほどほどにしとけ」
突然教師のようなことを言い出すのだ、度肝抜かれる。
そうだ、こいつも一応教師だった。まともなことも言えるのだな、と感心した。
おっと、また吐きそうだ。という冗談はさておき。
「ああ、そうだ。お前が助けた少年だが、お前に直接礼がしたいそうだ。ということで、お前ん家で待ってもらっている。外暗いしな。ああ、合鍵も渡しといたから心配するな」
冗談はさておき。
「……はぁ⁉」
まずい、思考が追い付かない。こいつが何を言っているのか分からない。
さっきまでいいこと言ってた気がするが、それが全部一瞬でぶっ飛んだ。
家で、…家で⁉
「おまっ、えっ、俺のプライバシーは⁉ いや、というかなんでお前が俺ん家の合鍵持ってんだよ‼」
「お前の家、というかアパートの部屋を手配したのは俺だろうが。お前には黙っていたが、俺が合鍵を持っていたんだよ」
「なんでだよ!俺に渡せよ!」
「恩人だしいいかなあ、と。あ、あとだな、無断で合鍵複製したんだった。俺の手元にはお前ん家の合鍵が100個ある」
「なんでだよ‼」
忘れかけていた。危なかった。
珍しく真面目な話をするもんだから、本当に忘れかけていた。
こいつに常識は通用しないのだ。本当に。全くと言っていいほど。
「まあ、そうだな。待たせてると思うから早く行け。待たせるのは本当にダメだ。命の恩人でもやっていいことと悪いことがあるからな。」
「その言葉、胸に手ぇ当てて死ぬまで一生復唱してろ! このクソ恩人が!」
その言葉を最後に、俺は全力で走って自宅へと向かった。
防犯のために。
✿
学校から自宅まで、徒歩で30分といったところだ。途中の道は勾配が目立たず、登下校には最適。立地的には悪くない。
こんな良い物件をあのアホが手配したという事実、疑う必要がありそうだ。
街灯がチカチカと灯り、この町が夜の真っただ中であることを知らせてくれた。
途中の商店街はまだ賑わっていたが、細い道に入ると急に暗く、寂しくなる。
学校で時刻を確認してくるべきだった。商店街の時計も見逃してしまった。ただ、町の様子から、まだ真夜中ではないことが分かるのみだ。
「つーか、合鍵貰うヤツも大概だろ。普通だったら貰わないもんじゃないのか?普通だったら。あのアホは親でもなんでもねぇんだぞ」
だが、ウニが騙しにかかった可能性、または、ウニが強引に渡したという可能性もある。これなら、まあ、合鍵を受け取ったヤツにも同情の余地がある。
だが、それと同時に、俺が助けたヤツも頭がおかしいヤツだという可能性もある。
「もしそうだったら、俺もう耐えられねえぞ…アイツだけで手一杯だってのによ…」
もしそうだったら、夜逃げしよう。
──その時だった。
目の前に、何かが現れた。
「!?」
暗く、人ひとりいない細い道に、それは立っていた。ただ、微動だにせず、無気力に俯いて。
全力で走っていた俺はいつの間にか、その場に止まっていた。
瞬間、それが人間であると認知し、俺は安堵した。
だが、それは人間というにはあまりにも────怪しく、美しかった。
その人間──その女は、純白な髪に、雪のように白い肌、そして、整った顔立ち。その立ち姿はあまりにも人間とかけ離れて美しく、怪しく、優雅で、壮麗と表せるほどだった。
────秀麗で端麗で壮麗なその女は、桜間爽を見て笑った。
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