第16話 煌炎の魔女
「——はあぁああぁっ!!」
その声は意思を持つ流星のように、高き月夜から魔女を目掛けて飛来した。
裂帛の気声を上げるそれは、確かに少女。今しがた己が制圧し征服したはずの、あの無表情な灰色の少女のはずだった。
それが今。
火炎の徒たる赫眼赤髪を宙になびかせ——きらめく灼熱を纏った裸の拳を、
「くっそ……がぁ、きぃい!!」
回避……いや、まずは受け。返し。殺る。
両端に刃のついた大鎌は攻防一体。
守勢を一動作のうちに攻勢に転じることに長けている。
百年の長きにわたり身体に染み付いた動きは——今は悪手だ。
「うぅぅっ……りゃああああぁぁーっ!!」
「ぐぅっ……がっ……ぎっ……!?」
叫びに応じて、火種が炎を、炎が大炎を呼ぶように、拳の出力は凄まじい勢いで上昇する。
受けきれない。
返……いや、守らねば。守りに専念しなければ。首から上が消し飛ばされるっ……!
ヴォーチェは己の死した首筋に、二度と流されることの無いはずの冷や汗を幻視する。
大きく跳躍しながら横薙ぎに鎌を払い、拳のリーチからの離脱を図った。
百年を生きた怪物が、年端もいかぬ少女から逃げたのだ。
「……なんだぁ、てめぇ? 真っ赤だなぁ? まるで別人みてぇじゃねえかぁ?」
警戒をあらわに魔女が毒づく。
強気な言葉とは裏腹に、内心には焦りが生まれていた。
——あれは、やべぇ。
一筋の炎のように立つ少女。逆立つ髪が熱気にゆらめく。浴衣の袖が消し飛んだ剥き出しの肩には、小さな獣——灰黒ずんだ猫が涼しげな顔で鎮座していた。
カミナは打拳した右手をぷらぷら振った。
「痛くないけど……壊れちゃいそう。武器をちょうだい。折れないやつを。」
カミナは自覚していないが、昂る魔力と感情によって、あるべき痛みは消し去られていた。
「あの黒い鎌——
「——早くちょうだい。我慢、できない……かもしれない。」
燃える赫眼。妖しげな笑顔。
軽く傾げた首から、標的を射止めるかのように目線を定める。
「……ねぇ、おねえさん。ちがう、おばさん?」
「おばっ……! ……ちっ、忌々しいクソガキだ……。いったい何をしやがった? そっちの化け猫の仕業かあ?」
「おれはサマヤ。化け猫なんて失礼な。かわいい猫ならここにいるけど……バケモノはあんたのほうじゃない? ……っと、来た来た……《
「舐めてやがるなぁ……? させねぇよっ!!」
地を割る踏み込み。
絶死の大鎌が瞬きの速度で閃き迫る。
「こっちの、セリフ……!」
「おい、カミナ!?」
制止する間も許さずに、応えるように大地を蹴る。
武器を求めた舌の根も乾かぬうちに。
(——理性が飛んだ……? いや待て……なるほど?)
猫は周囲を見回し、少女の思惑を理解した。
移動してきた空間すべてに、仄光る魔力の灰——いや違う、揺らめく火の粉が舞っている。
いつの間に。
——灰闘術。
それは、なけなしの魔力で生み出した灰を用いる灰娘の秘技。
もしその術を、燃える少女が溢れる魔力で——溢れる火燐をもって行使したらどうなるか。
纏う炎は、地を踏む左の足裏から腰、腰から肩、肩から肘へと力を伝え。握る右拳が全身を連れて、爆発的に加速する。
舞い散る火の粉が何度も爆ぜる。
少女の体は弾かれるように空中を跳ね、目にもとまらぬ複雑な軌跡を宙に描く。
刃閃を躱した矢のような拳が、魔女の死角へと叩き込まれ——
「ぐっ……っぶねぇ!!」
——ガギンと鈍い金属音。
素早く返された武具の柄により、あと一歩というところで防がれる。
古強者には、一度見せた技は通じない——
「——ぶっ、と……ばすっ!」
——そんなことにはお構いなしに、振りかぶりながら更に踏み込む。
左の手掌で鎌を制して、捻りこんだ右腕を肩越しに乱暴に突き放つ。
炎を纏い固めた拳が、今度は過たず魔女の左頬を撃ち抜いた。
回転しながら吹っ飛ばされたヴォーチェの体は、雪煙を上げて木々のひとつに激突していく。
すっきりした笑顔で残心を解いたカミナの肩に、宙に起きざられた猫が着地した。
「ぶっ飛ばしたなあ。……気は済んだのか?」
「わからない。半分、くらい?」
飛び退ったカミナは、右手をぷらぷらと振ってみせる。
すべての指が変色し、ありえない方向に曲がっていた。
今は痛みを感じていないものの、さすがに不快ではあるのだろう。
眉をしかめて言葉をつなぐ。
「……折れた。猫ちゃん? 武器はどこ?」
「だから、唱えろって言ったんだ。……唱えてくれれば、おれがなる。」
「オレガナル……? わからないけど、わかった……えぇっと?——『……火刃・炎刃・悪敵滅殺・調ずるは煉・伏するは蛇——』」
心に直接流れ込む詠唱をなぞるとともに、サマヤの体がふわりと崩れて粒子と化す。
光の粒が、空間を満たす火の粉を吸い寄せながらカミナの前に集っていく。
粒子の束が、炎線となる。
横一文字の白炎に手をかざし、武器の名前を静かに唱える。
「——三昧・眞火・剣刃と成せ==《業炎・
炎が爆ぜる。大気が揺れる。
無傷の左手に掴み取ったそれは、大ぶりな白鉄の剣だった。
特徴的なその刀身は、枝を象るように三又に分岐している。
短槍を思わせる長い柄の端からは、金属で編まれた縄が伸びる。
縄の先端には赤々とした宝珠が光り、獲物を探すかのような動きで空中を漂っていた。
(「
少し誇らしげにも聞こえる口調で、剣身となった猫は語った。
カミナはうっとり上気した顔で剣身を撫ぜた。
「……すっごいわ……熱くて、固くて、曲がってて……!」
(「そのコメントはどうかと思う。」)
「これなら、イける……手加減なしの、全力で……!」
(「——いちおう中身はおれだから、取り扱いには気をつけ——何て?」)
カミナは地を蹴り駆け出した。
もともとの生意気な性格に、火が励起する破壊衝動が加わっている。
忠告などは聞くはずがなかった。
注がれる魔力を受けて、左肩に担いだ少女の剣は、鈍色から赤——そして白へと染まっていく。
騎士団の剣杖が魔石に蓄えた魔力を使うのに対して、伝説級以上の武具は魔力を集めて増幅し——ときには自ら生み出しさえすると言われていた。
熱が熱を呼び、灼熱と化す。一段と高まる出力に、纏う空気が燃え爆ぜる。
駆ける少女は魔女のもとへと一直線に飛び込んで、白熱した刀を袈裟懸けに振り下ろした。
「ちっ……この、ガキ、があぁっ!」
立ち上がりかけていたヴォーチェは舌打ちしながら一撃を防ぐ。
殴られた頬は繕う間もなく、無惨に抉られたままだった。
飾り物のような異様な武器だが、その危険度は明らかだった。
まともにやれば、こちらが折れる。
拳と違って強くは受けずに、受け流すことを意識する。冷気を流して炎を散らす。
衝突の反動で鎌を回し、逆端の鎌刃で間髪入れずに反撃を繰り出した。
一合、二号、三合。白い剣閃と黒い刃風が空中で激しく火花を散らす。
白く灼けつく三鈷刀と、黒く凍てつく大双鎌。
灼熱と極冷がぶつかり合い、衝突ごとに蒸気と爆風が吹き荒れた。
「『嶺華の蛇』——《伸びろ》……《縛れ》っ!!」
「喰らうかぁ!! ——凍て・咲き・潰せ==《
カミナの剣から伸びた縛縄が蠢き、若蛇のような鋭さで魔女を捉えんと虚空を切り裂く。
咄嗟にヴォーチェは鎌を支点に跳び上がる。
躱す勢いで回転すると、反攻の重撃——巨大な氷華を纏わせた鎌の豪槌を叩きつける。
受けるカミナは足元の氷河を消し溶かしながら、滑るようにして間合いを取った。
「……はっ、参ったぜ……。」
魔女は笑った。
恐ろしい笑顔の裏に悍ましいほどの闇の魔力が練り込まれる。
熱されたはずの夜の空気がふたたび氷温へと引き下げられていく。
それは火を溢れさせるカミナでさえも寒気をおぼえるほどだった。
「面倒臭えし、時間も無え。てめぇを壊すのは勿体ねえが——終わらせるかぁ!」
「……うん。終わらせる。壊れるのは……そっち。」
(「——おい、カミナっ……! ちょっと待……」)
「……はっ! 言いやがるっ! 受けてみな——冥き冥き・
聖火をも凍てつかせる極限の冷気が四方を満たし、空間全ては冥府につながる媒介となる。
カミナを包囲し、数百を超える黒氷の牙が現れる。
広範囲を氷河で制圧する《
全方位から襲いかかる黒氷の棘は、分厚い魔術鎧をも容易く貫く絶死の槍。
それは狙った獲物を余さず噛み殺す、魔女の切り札たる牙だった。
「……猫ちゃん、力を。あるんでしょ?」
(「あるにはあるが、おまえの体が、これ以上は……」)
「構わないから。早くして。《契約》でしょう?」
(「——ああ、わかってる。了解だとも。……詠唱、急げっ——!」)
「わかってる——『——遍く……百火・奔れ・溶灼——』」
対するカミナが招来するは、旧き火神の霊火の衣。
「——万象閉じよ==喰い千切れぇぇっ!——《
魔女の詠唱。
空を埋め尽くし、冥府の黒氷が放たれる。
迫る氷牙がカミナの玉肌に触れる。
その瞬間。少女は唱えた。
「『——織り成せ・煌燐・遍く・集え==《霊装:
鮮やかな橙火。立ち昇る熱波。渦巻く炎禍。
強力な炎熱耐性を宿したはずの黒氷の群れが、凡百の氷のようにじゅうと泡立つ。
目もくらむほどの熱を受け、襲う氷牙は一気に昇華——蒸気となって爆散した。
(……っ! ありえねぇっ!!)
瞠目したヴォーチェが、攻めの氷を咄嗟に転じて盾となす。
それでも伝わるこの熱量。目を灼く極光。
空気が震え、灼熱の嵐と衝撃が、凍てつく湖畔を覆い尽くした。
数秒の後。
熱が駆け抜け、衝撃が収まる。
ぼろぼろに溶けた氷盾の背後で、ヴォーチェは両目を薄ら開いた。
《冥氷牙壊》による無数の氷棘が溶かし尽くされただけではない。
先に放った《氷河瀑爪》が成した黒き氷原すらも、見渡す限り消し飛んでいた。
凍氷に支配されていたはずの風景は、今や炎熱の領土と化したのだった。
円形にひらけた湖の岸辺に、ふわりと少女が降り立った。
燃える赤髪の彼女が纏うは、美しき舞姫のごとき戦装束。
火神の威容を模るその衣は、凝集した炎自体を儀式装置と成し、彼岸の火を喚ぶ門とするための術式だった。
後光のように背負う灼光の輪から、三双六枚の薄やかな炎翅が花開く。
左手には剣、砕けたはずの右手には熱光を帯びた銀縄をゆるりと持った。
「——
ヴォーチェは幻視た。
かつて死せる軍勢の天敵であった一人の天才——人間はソレを聖女と呼んで崇め讃えた。
もちろん姿も、魔術も違う。そもそもアレは、百年前には死んだはず——。
それでもなお、聖火を掲げて立つ少女。その美しく忌まわしい力に。
自分たちの、そして主人のかつての仇敵を重ねてしまった。
その存在が、まさに今。自分に向かって圧倒的な熱の塊を投じんとして剣を掲げる。
「……くふ……うふふふっ……あははははっ……!」」
カミナは笑った。火災のように。
その威容。その異様。
無表情で非力で生意気で——しかし少なくとも
「この、くそガキぃ、炎に呑まれやがったか……。」
掲げられるは、遥かな異界から喚ばれた聖なる煌炎。
騎士たちの切り札とする僅かな聖火とは比べ物にならない苛烈な豪火。
カミナの頭上に渦巻くそれは、小さな太陽のごとき熱球となって燃え盛る。
死者を滅するどころではない。周囲一帯をも蒸発させかねない脅威がそこには在った。
三鈷の剣が少女の上に高々と振りかざされ、魔女に向かって振り下ろされる。
渦巻く火球がゆっくりと放たれ——徐々に速度を上げながら迫り来た。
「こいつは、ちょいと、やべぇかぁ……?」
逃げ場は無い。
ヴォーチェは構えた。
覚悟した。
その刹那。
——ふっ……ぱぁん。
渦巻いていた火球が揺らぎ——風船が弾けるようにして霧散した。
「……っぐ……? く……うぁっ……!」
カミナはがく、と片膝をつき、剣を手放して横ざまに倒れる。
壮麗な衣は見る影もなく散逸し、ぼろ切れのような浴衣が秘所を覆う。
焼けた大地に横たわる肢体。
薄い唇から細い呻きが漏れ出した。
跡形もなく剣は崩れ、煤色の猫が地面に降り立つ。
両手を前に、体を伸ばして欠伸をした。
「……だから、やめとけって言ったのに……。」
それは、少女の限界だった。
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